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「ばかあっ!! 」
怒鳴ると嗚咽がこらえられなくなって、涙があふれだす。
拳は、カノンの胸を何度も殴っていた。カノンは今度は避けも止めもせず、殴るに任せている。
「どうしてくれるのよ、この気持ち! いつになったら消えるの? どうすれば忘れられるの!? ……いらないっ、こんなに辛いなら恋なんて、もう……」
勢いをなくした拳がカノンの胸のうえで留まる。その拳に、力尽きたように額を当てた。
「……思いも、心も……いらない。なくなってしまえば、いいのに……」
すがるようにしながら拳以外ふれようとしないマリルルカの頭に、カノンの手がそっと置かれる。
手はゆっくりと柔らかく髪を撫でた。別人だと思い知らせたくせに、その手はディグナの優しいふれ方と同じだった。
涙がさらにこみあげてくる。
「嘘つき、嘘つきぃ……ひどい…ずるい…全部、嘘なのに」
「悪かった」
短いながらごく真摯に、カノンが謝る。
口先だけではない重みを感じたが、いったん昂ぶった感情が謝罪を柔順に受け入れさせない。止まらない涙が返答だ。
思考も心も無茶苦茶に乱れていた。ディグナのことだけではない。裏切りの記憶が鮮やかによみがえる。失恋の傷と相まって、心が血を流しているように痛い。
「……みんな、嘘ばかり……っ。どうして? 私が何かした? 私が悪かったの? ……テッドも、ザッツも…………──みんな、私を傷つけても……殺しても、なんとも思っ」
言いながら、親しい友人に手をかけられそうになったという恐怖が、今になって心臓を凍らせる。血が滞ったように手足の力が抜けた。身体が頽れる。
けれど、倒れはしなかった。マリルルカの口を閉ざすかのように、台詞半ばでカノンに抱き寄せられていた。背に回された手はマリルルカをしっかりと支え、頭に置かれたままの手は変わらず髪を撫でつづけている。
耳許に、カノンの唇が近づく。
「少なくとも俺は、あんたを傷つけたことを心底反省してる。文句は黙って聞くし、何度でも謝る。だから、自分を痛めつけるような言葉は使うな」
優しいささやきが口をつぐませる。
だが、一度崩れた平常心は戻らない。裏切りを直視せず自らをごまかしていたツケがきた。虚勢の脆さが露わになる。
唇を引き結んでも、心臓はなお凍え、歯の根が合わないほど身体が震える。脳裏では、台詞の続きを叫んでいる。──「私を殺しても、なんとも思わないの!?」と。
これまで疑いもしなかった友情は、実のないがらんどうだったのだろうか。彼にとっては情報収集や未来の顧客としての価値しかなかったのか。依頼がくれば、簡単に始末しようとする程度の。
「考えるな」
穏やかなのに、鋭く思考の合間に斬りこんでくる声音だった。マリルルカはビクリと大きく震える。
「そう一遍に考えて思い詰めるな。その傷は、あんたが一生つきあっていくものだ。けど、ゆっくり受け止めていけばいい。一人で背負うこともない。セーラがいる。リューンやカロニカも。あいつらはマリーが好きで、守りたいと手を貸してくれたんだから」
裏切られた一方で、危険を承知で守ろうと尽力してくれた友人たちがいた。彼らの顔が脳裏に浮かぶと、凍えていた胸に灯火が灯った。光と温みがじわじわと広がる。まだ身体に力は入らなかったが、震えは徐々に治まってくる。
それでも凝りのように残る恐怖まで見通したのか、カノンが念を押した。
「傷に囚われるなよ。どうしても振りはらえないっていうんなら……忘れられるように、また誘惑してみようか?」
甘くかすれた声が、マリルルカの耳朶をくすぐった。胸の鼓動が大きく跳ねる。
──が。
「なんてな、冗談だ。もうしないから安心しろ」
「──────っ、冗談は冗談らしく言いなさいよ! あなた、実は全っ然、反省なんかしてないんじゃないの!? 」
思わず顔を上げて怒鳴りつける。
すると、カノンは素早く耳をふさいでやり過ごし、真面目な顔で飄々と返した。
「反省してるから、もうしないって言ってる。にしても……」
くっくっと笑いながら、言を継ぐ。
「あんたはそれぐらい元気な方が、やっぱりらしいな」
そう言われて、マリルルカは恐怖心が消えていることに気づいた。そして、カノンに抱擁されている状態もようやく認識する。一瞬にして首まで真っ赤になりながら、離れようと腕を突っぱった。抵抗なく放してくれようとしたが、途中でガクンと膝をつきそうになり、マリルルカは再びカノンに抱き止められた。
「だっ、大丈夫だから! ゆっくり放してもらったら、ちゃんと立てるから」
だから放してと続けようとしたのを、カノンに遮られる。
「泣きたりないなら、いくらでも肩を貸すって言っただろ? 借りとけ」
そのまま、マリルルカの頭を肩にもたれかからせる。
恐怖心がどこかへ飛んでいっても、マリルルカの双眸からは未だ涙がぽろぽろと零れていた。まるで、栓をなくしてしまったみたいだ。やはり、一度決壊した感情に刺激された反射反応は、傷が大きいだけに容易には元へ戻らないのだろう。
自分の意志で泣きやめないのを不思議がりつつも、愚痴めいた悪態がするりと出てくる。
「……やめてよ。それだって、嘘だったんでしょ」
「そんなに嘘つき呼ばわりしてくれるなよ。肩を貸そうっていう気持ちに偽りはないぜ」
また優しく髪を撫でられる。その心地よさはディグナを思い出させるのに、告げる内容も同じなのに、口調が違う。表情も、身にまとう雰囲気も。それなのに、力を抜いて彼の肩に頭を預けてしまう。
せめてもと、声音にだけは責める響きを乗せる。
「ずるいわ。そんなところだけ本当だって言うの? それとも、これも誑しの手口?」
「手口って……。自業自得とはいえ、なんか人格をすげえ誤解されてる気がする」
「あっちこっちで女性を誘惑してるんでしょ。実例だって、カロニカから聞いてるわよ」
スフィアの王女たちの件を引き合いに出すと、カノンは憮然と天を仰いだ。
「なんて聞いたか知らないが、それはあそこの王太子の陰謀だ。俺を国に引き留めようと、ありとあらゆる手段を使ってきたんだよ。その例で誘惑されたのは、むしろ俺の方だぞ。しかもさっさと逃げ出したから、どんな些細な既成事実もない」
断言してから、げんなりした様子で息をつく。よほど思い出したくない過去だったらしく、カノンは話を戻した。
「俺に関する噂は原形を留めてないから、話半分以下で聞いといてくれ。噂されているみたいに華やかな恋愛遍歴はないから。──だから、誑してるつもりはないし、別に嘘ばっかりついてた訳でもないぞ。とっさに作った役柄だったからな。眼鏡君と違って、割に本当のことを言ってたんだぜ。昔は身体が弱かったとかさ」
「……とても、そうは見えないけれど」
「まあ、五歳ぐらいまでのことだけどな。学校生活にも興味はなかったけど、やってみると案外おもしろかったな」
「学校に通ったことがないの?」
「ないよ。基本、横並びで学習行程が進むだろ。どんだけ非効率だ、って考えてたし」
「どれだけ自分のことを天才だって称するつもりよ」
冷たいツッコミには笑って答えず、カノンは軽口をお終いにして口調を改めた。
「薔薇水晶の指輪、な。捕らえられた刺客たちは、所持していないってわかった」
「……。取り戻せるの?」
「ああ。でも、犯人が割れるまで待ってくれ。暗殺依頼とは別口クサい。そんな不安要素を取り逃がすわけにはいかないからな。指輪がなくても、襲爵まで踏んばれるか」
マリルルカは顔を上げる。真っ直ぐカノンの双眸を見据えた。
「守ってくれるんでしょう」
「もちろん」
すべきことをするという静かな声音の応えに、マリルルカは微笑む。
「じゃあ、踏んばってみせるわ」
晴れやかに宣言してみせたマリルルカの瞳は、もう濡れていなかった。
これにて、10章終わりです。
なのですが。
エピローグが1ページに収まったので、明日の朝に投稿しようと思います。
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