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頬をなでる夜風は、もう冷たくはない。ほのかな暖かみを感じるほどだ。
マリルルカは風に遊ぶ髪を押さえる。そして、夜空を見あげた。薔薇園の闇を照らすのは満ちた月だ。
ディグナとここで出逢ってから、一月が経っていた。
学園最後の夜だから、散歩納めだ──と自分に言い訳し、マリルルカは眠るカロニカを残して部屋から抜けだしてきていた。
ここも見納めと、満開の薔薇園を見渡す。だが、そこに彼を探す気持ちがあるのを悟り、結局は開き直った。
「────いるんでしょう。出てきなさいよ」
「懲りないですねー、マリーさん。夜の一人歩きは危険ですよ?」
背後から声がかかる。
ふりむくと、眼鏡君が歩み寄ってきた。
マリルルカは眉をしかめて、カノンの頭頂からつま先までを眺めやる。
「あなた、いつまでその扮装を続けるつもり?」
「だって、学園ではこの姿が僕なんです。突然、別人になる訳にはいかないでしょう」
眼鏡君が炎剣だと知っているのはごく一部だ。だから、〝赤月の矢〟と決着がついてから今日まで、カノンはあいかわらず眼鏡君の姿で過ごしていた。
「といっても、明日からは素の僕と顔をあわせることになるんですねー。僕としては、生徒の扮装が名残惜しいんですけど……。じゃ、マリーさん、少し慣れておきます?」
言いながら、カノンが眼鏡に手をかける。
それを見たマリルルカは小さく震えた。
だが、かまわずに眼鏡を外したカノンは、それに口づける。
変化は、一瞬だ。ディグナと寸分違わない美貌でありながら、まったく別の表情をした少年が現れ出でる。
少年は口角を上げて、に、と笑った。
「どうも。明日の帰路から、こっちでよろしく」
眼鏡君ともディグナとも違う、ぞんざいな口調。立ち居振る舞いに、貴族的な優美さも同級生男子の平凡さもない。その無造作な立ち姿は、おそらく手練れの戦士ゆえだろう。戦闘時には冷ややかなほど鋭利だった表情は、今は意外なくらいに人懐っこかった。
じっと観察していたマリルルカは、目を閉ざしてうつむく。ディグナという人間は──本当に存在しないのだ。軽く唇をかんで、告げることなく散った思いの痛みに耐える。
「マリー?」
黙りこんでしまったマリルルカに、カノンが怪訝そうに呼びかける。
前髪がマリルルカの表情を隠し、そこに浮かんだ感情を読み取らせない。
が、不穏な空気をいち早く察知したらしい炎剣は、一歩後退して伸びてきた手を躱した。
「ちょっと避けないでよ、この誑し!! 文句はいくらでも受け付けるって言ったでしょ!」
「あー…まあ、な。でも、襟首締めあげられながらってのは勘弁……」
「拳が出ないだけマシでしょうっ。よくも乙女心を弄んでくれたわね!! だいたい眼鏡君の演技はまだしも、ディグナを演る必要がどこにあったわけ!? 」
返答次第では鉄拳制裁も辞さないと、襟首をつかもうとした手を拳にして構える。
勇ましい姿に、カノンが肩をすくめて苦笑する。
「確かに、〝北の塔の君〟を演じる予定はなかったよ。不測の事態が起こらなければ、な」
「不測の事態?」
「そう。あの満月の夜、俺はセーラの守り手としての力量を測るために、わざと気配を現して追ってこさせてたんだよ。で、途中で撒いて寮へ戻ろうとしたら、伯爵令嬢ともあろう淑女が、真夜中に、一人で、散歩してるのを見かけちゃったんだな、これが」
いちいち区切って非常識さを強調される。
マリルルカの頬に朱が走った。
「あのときはだって、学園内は安全だと思っていたんだものっ」
「俺だって、あの時点で襲撃されるとは考えていなかったさ。だから、護衛対象から守り手を引き離すなんて真似ができたんだ。万が一、刺客に襲われても、薔薇水晶の指輪を身につけている限りは最悪の事態を避けられるしな。とはいっても、警備兵の目をかいくぐって人気のない屋外で一人っきり、って状態じゃいつまで保つか保証できやしないぜ? 指輪の守護は万全じゃなかったんだから」
ぐっと言葉に詰まるマリルルカを、カノンは容赦なく追いたてる。
「もう一つ言わせてもらえば、今はもっとヤバイぞ。指輪がないうえ、〝赤月の矢〟の残党が襲ってくるかもしれない。そういう危機感あっての行動だと抜かすなら怒るぜ。護衛対象が自ら危地に飛びこんでちゃ、こっちは命がいくつあっても足りないんだ」
もう怒ってるじゃない、とは言い返せないマリルルカだった。全然その可能性は考慮してなかったが、夜歩きすればきっとカノンが護衛で付いてくるだろうとは予想していた。
だから反省をこめて、こう言った。
「ごめんなさい。私が浅慮だったわ」
素直に謝罪するマリルルカを見つめるカノンは、先ほどよりも深い苦笑を浮かべる。
「ディグナの件についちゃ、俺も浅慮だったと思ってる。あのときは、セーラに追われていたからな。眼鏡姿で出て行く訳にはいかなかったんだ。けど、護衛のためとはいえ、とっさに出てきた役柄がアレじゃあ」
「アレ?」
苦い微笑が自嘲に見えたので、問い返す。
「あの夜一度限りの役柄だと思ってたからさ。ついでに、遺産を狙う者の一味かもしれないテッドに惹かれすぎないよう、あんた好みの色男を演じたんだ。だがヤツを牽制する意図があったにしても、誘惑が過ぎたかなってね。……嘘っぱちだって思い知ったのに、こうしてまた別人だと確かめずにはいられなかったんだろ?」
見透かされていた。マリルルカの顔が真っ赤になる。握りしめた拳は震え、熱いものでのどの奥が圧迫される。目じりに涙がにじんだ。
「……っ、そっ、そんなこと、とっくにわかってたわよ! ディグナはいない……あなたがただ依頼を完遂するために必要なことをしてただけだって! ……でも、まだ諦められないんだもの。す、好きなんだもの。もう、もうっ、…………っ」
洩らしそうになった嗚咽を呑みこみながら、息を吸う。
中途半端なところで切れてしまいましたorz
すみません。続きはまた明日。




