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大広間の扉を出ると、すぐそこに一階へ降りる大階段がある。
だが、リーチェドはそれを無視して左に曲がり、廊下を奥の突き当たりまで進んだ。左右の廊下の突き当たりには、人がふたり並んで通れるほどの小階段がある。とはいっても、皆目の前にある大階段を使うので、左右の小階段はいつも閑散としていた。
人気のない突き当たりで、リーチェドはマリルルカと向きあった。
「……しばらく会えなかったね」
マリルルカは無言でこくりとうなずく。自然と、顔がうつむいた。
温室でリーチェドと別れてから、十日以上が過ぎている。その間、リーチェドとは一度も顔を合わさなかった。学年が違うせいもあるが、マリルルカ自身が避けていたせいでもある。セーラは求婚の返事をしないでいいと言ったが、リーチェドから求められたら答えないわけにはいかない。けれど、返事をしてしまったら、これまでの関係まで終わってしまいそうで怖かったからだ。
気まずげに黙りこむマリルルカを見て、リーチェドは少し困ったように微笑する。
「もしかして、マリーにはまだ早かったのかな。僕は待つ覚悟はあったつもりだけど、それでも避けられるのは辛いんだ。温室で言ったね。なんでも話してくれると嬉しい。頼ってほしいんだ」
うつむくマリルルカを、リーチェドは覗きこむ。
「……僕では、駄目かい?」
「っ、そんなこと……」
顔をあげたマリルルカは、否定しかけて途中で口をつぐむ。
リーチェドが求める答えとマリルルカが望む関係は、似て非なるものだ。
どちらも相手を慕い、そばにいてほしいと思っている。だが、リーチェドは未来の花嫁として、マリルルカは本当の兄のような存在として、互いに希っているのだ。
マリルルカは唇を引き結んで、再び下がりかけた視線を留めた。答えをあやふやにして逃げるわけにはいかなかった。このままリーチェドに中途半端な期待を抱かせても、マリルルカは求婚に是とは答えられない。リーチェドに対する思いは定まってしまった。
「いえ、そうね……ごめんなさい、テッド。あなたは私にとって、いつまでも大好きなお兄さまなの」
「…………。……兄だと思っていてくれていいよ。長く添えば、愛情は種類を変える」
マリルルカは首を横にふった。
「……聞いて、テッド従兄さま。私、好きな人がいるの」
リーチェドがわずかに目を瞠った。しばし沈黙してから、双眸を細める。
「誰なんだい。僕の知っている人?」
「いいえ。彼は……」
答えに詰まる。
はたしてリーチェドは、〝北の塔の君〟などと聞いて素直に納得してくれるだろうか。
どう伝えるか迷っているうちに、リーチェドが痺れを切らした。
「言えないのかい。それは、言えないような種類の人間だからなのか、それとも、本当はいないからなのか。……僕は君のことをずっと見守ってきたけれど、そんな相手がいるとはとても思えない。マリー。どうか、君の心の真実を話してくれ」
ますますマリルルカはディグナのことを言えなくなる。
言葉を失うマリルルカに、リーチェドは埒があかないと思ったのか、強く言い放った。
「わかった。話したくないなら、それでもいい。マリー、僕は決めたよ。カラヴェイン家に求婚の意志を伝える。たとえ好きな人がいるのだとしても、君は伯爵令嬢だ。伯爵家を抜きにして、自由に恋愛ができるわけでも結婚ができるわけでもないんだよ」
「テッド……っ?」
その剣幕に戦いて、マリルルカは後じさる。
リーチェドの右手が伸びてきた。逃がさないというように強い力で、マリルルカの二の腕をつかむ。
「……痛いわ、テッド。お願い、放して」
「だめだよ。今、よく考えて。伯爵令嬢として、選ぶべき幸せが何か」
腕の痛みで身じろぐのを抵抗と見なしたのか、リーチェドがさらにマリルルカの肩を押さえようとする。
そのとき、静かな声が割って入った。
「嫌がる女性に、無理強いするのは感心しない」
リーチェドの動きが止まる。
声は、小階段の下の方から聞こえた。階段を踏む靴音がして、やがて声の主が姿を現す。
「紳士のすることじゃないな」
灯火の薄明かりのなか冷ややかな声を発した少年は、自ら光り輝くような黄金の髪と宝石の煌めきさえ霞む深紅の瞳をしていた。金混じりの双眸は今、炎のごとき毅さを宿らせている。
「ディグナ……」
思いを定める決め手となった少年の登場に安堵して、マリルルカはあからさまにホッとした顔になる。
突然の闖入者に目を奪われていたリーチェドは、マリルルカの少年を呼ぶ声音を聞いて我を取り戻した。横目でマリルルカの表情を窺い、そこに先ほどの答えを見いだしたようだ。何者をも魅了しそうな美貌に呑まれつつも、リーチェドは果敢に闖入者をにらむ。
「ごく個人的な話の最中だ。君こそ紳士だというなら、場の空気を読んでもらいたい」
「そうしたいのはやまやまだ。だが、その紳士ぶりを見て、黙っているわけにはいかないだろう」
二の腕をつかんだままの手を視線で示して、その粗暴さを指摘する。
リーチェドは舌打ちをこらえるように顔を背けると、おもむろに二の腕を離した。その手が、握りこぶしをつくる。
「……彼女と話の続きがしたい。君はもう行ってくれ」
「話はすでについたのでは? 彼女は拒んだ。そうだね、マリルルカ」
マリルルカはいたたまれなかったが、萎れながらうなずきを返す。
リーチェドは双眸を見開いた。彼女の肯定にではなく、少年が呼んだ名前に反応した。
「マリー、本名を教えたというのかい」
真名を呼んでもらいたいという気持ちを見透かされている気がして、マリルルカは頬を染めて小さくうなずいた。
表情をいっそう険しくしたリーチェドは、正面から人離れした美貌をにらみすえる。
「君は、いったい誰だ。彼女になんの用があって来た」
「僕はディグナ・フォーン。教職員寮の北の塔で寝食し、そこで学ぶ者だ」
名のりを聞いたリーチェドはギョッとして、少年を頭のてっぺんからつま先まで眺めおろした。
そうしたことで、疑念よりも確証を得てしまったのだろう。人離れした美貌だけでも説得力があったが、よくよく見れば立ち居振る舞いの美しさも尋常ではない。生まれたときから洗練された環境で過ごしたゆえの、完璧な身ごなしだ。
ほとんど見惚れて茫然自失しかかったリーチェドに、少年は冷たく微笑む。
「マリルルカと約束していた。君こそ用は済んだはずだ」
立ち去れ、と無言の圧力がかけられる。魅惑的な微笑は、大貴族ならではの傲慢さと相まって、従わざるを得ない力にあふれていた。
リーチェドは苦々しく顔をゆがめ、マリルルカから離れる。
「……また今度、話しあおう」
そう言い残すと、大階段の方へ去っていった。
リーチェドの背中が小さくなるまで見送ったディグナは、ふりかえると弱ったように少し眉を下げる。
「よけいなおせっかいだったかな」
マリルルカは、とんでもないと勢いよく首を横にふった。
「そんな……。ありがとう、ディグナ。とても感謝しているわ。……あの、でも、どうして食堂棟にいるの」
「講義の合間に抜けだしてきたんだ。ハンカチを受け取りに行くって、約束したから。先にマリルルカの部屋を庭から見たんだけど、無人のようだったから、こっちに来てみた」
「約束のために、ここまで来てくれたの」
「うん。あれ? でも、しまったかな? 部屋でならともかく、今はハンカチを持っていないよね。きちんと日時を指定して約束したんじゃなかったから」
失敗したと、はにかむ様子がかわいくて、マリルルカはぼうっとして見とれる。
実は、洗濯したハンカチはずっと持ち歩いているのだが、今回は黙っていようかなとちらっと考えてしまう。そうすれば、また訪ねてきてくれるかもしれない。
しかし、その目論見はマリルルカを探しにきたセーラによって水泡に帰した。
「マリー様、こちらにいらっしゃったのですね。そろそろ寮に戻りませんと。……まあ、ディグナ様。こんばんは。マリー様、ハンカチをお返しになりましたか」
セーラはマリルルカの持ち物をきっちり把握している。持っていないと嘘は言えなかった。しぶしぶ胸の隠しから男物のハンカチを出して、丁寧にお礼を言って返した。
「どういたしまして。じゃあ、僕ももう行くよ。先生に心配をかけてしまうから」
手を軽くあげて踵を返そうとしたディグナに、マリルルカは急いで尋ねる。
「あのっ、また会える?」
ディグナは立ち止まり、じっとマリルルカを見つめる。
「……マリルルカ、僕はね、今はだいぶん丈夫になったけれど、身体が弱くて目もこんな色で、太陽の下を歩けない。だから正直に白状すると、これまでは同年代の生徒と関わることは煩わしいと避けてきた」
何もかもを諦めているような拒絶を聞いて、マリルルカは息を止める。胸が痛い。自分までも冷たく拒絶されてしまいそうで、怖かった。怖くて、なにも言えない。
だが、ディグナは花が咲きこぼれるようにふわりと微笑んだ。
「貴女と出逢えてよかった。僕は今日、マリルルカに会いに来た。会って、少しでも話したかったんだ。友人と他愛ない言葉を交わすことが、こんなに楽しいものだって初めて知ったよ。マリルルカのおかげだ」
教職員寮以外の棟に足を踏み入れたことはなかっただろう少年が、わざわざ慣れない建物のなかを探してまでも会いに来てくれた。その事実に思い至り、マリルルカの胸が熱くなる。嬉しくて何か答えたかったが、今度はのどまで熱が迫りあがってきて声が出ない。
「また、時間を見つけて遊びにくるよ。夜の散歩はもうマリルルカには無理だろうから、今日みたいにしてね」
ディグナはおどけて、セーラをちらっとうかがった。
再会した夜、マリルルカを寮の部屋まで送ったディグナは、起きて待っていたセーラにそれはもう冷たい視線をくらった。無表情なのに氷点下と知れる眼差しで、ディグナをすぐさま退散させたのだ。もちろん、その後マリルルカを待っていたのは長く厳しい説教だった。
笑い事ではなかったが、思わずおかしくなって吹きだしたマリルルカに、ディグナも笑ってうなずいた。
「じゃあ、またね」
今度こそ本当に、ディグナは小階段を小走りに降りていく。
「ええ、またね」
マリルルカも小さく応えた。すでにディグナは階段の下に消えていて声は届かなかったかもしれないが、言葉にすることで再会がきちんと叶う気がした。




