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証の花  作者: 夏和白
6 マリルルカ
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 温室までやってくると、マリルルカは入り口から少し離れた場所に立つ木に近づいた。木を回りこむと、目線の高さにうろがある。背伸びをしてうろを覗きこむと、おもむろに手を伸ばす。

 すると、ディグナがぎょっとして、その手をつかんだ。

 マリルルカはキョトンとする。

「何かがいるかもしれないから取ってあげるよ。奥にある、あの麻袋でいい?」

 うなずくと、ディグナは楽々と麻袋をうろから取りだした。

 背が足りないと悔しがってみせていたが、ディグナは背伸びなしで手が届くのだ。それを目の当たりにすると、身長差にときめいてしまう。代わりに取ってくれたのも紳士的で素敵だ。ちょっとした仕草や言動に、いちいち胸がドキドキする。

 同時に、可愛らしく頼めばよかったと後悔した。土いじりをしているぐらいだから、たいていの虫は平気とはいえ、淑女のふるまいではない。いまさらながら、ディグナにはしたないと眉をひそめられていないか気になった。

 上目遣いでうかがうと、ディグナはほこりを払って麻袋を手渡してくれた。不思議そうに小首を傾げて微笑む彼からは、微塵もそんな感情は表れていない。マリルルカはほんの少し安堵して、お礼を言った。

「それは何?」

 ディグナに興味深げに訊かれると、マリルルカの気持ちはすぐさま浮上して思考が切り替わる。

 土で汚れた麻袋は手のひらほどの大きさで、握ると固い感触が伝わった。袋の口をゆるめて逆さにすると、手の上に鉄製の鍵がするりと滑り落ちてきた。

 目を丸くするディグナの腕を取って、小走りで温室の入り口へ連れていく。

 灯りをかざしてもらい、マリルルカは鍵穴に鍵をさしこんだ。金具の降りる音がして、取っ手を引く手は抵抗なく扉を開いた。

 振り回されていたディグナは、驚きながら温室の入り口をくぐった。

「……温室の鍵だったのか」

「造園部に、代々伝わっている秘密の鍵なの。昼間はきちんと先生から鍵を借りるから、使われることはないんだけれど」

「使わないのに、ずっと置いてあるんだ」

「夜には私が使っているわよ? ……私みたいな人が先輩にいたのかもしれないわね」

「なるほど」

 おかしくなってクスクス笑いあう。


 ふたりは温室の散策をはじめた。

 温暖な南方の国の派手やかな花や肉厚な葉の多肉植物、下の方だけぷっくり幹が太った灌木など、珍しい緑が繁茂している。温室の植物は月明かりの許で、おどろおどろしかったり奇妙な生物に見えたりするから、怖いもの見たさの面白さがある。もちろん、陽光の下とはひと味違った美しさを顕わにする花々もあった。

 その美しい花のひとつに、マリルルカはディグナを案内する。手で示して、特別な薔薇の前へ誘った。

「見て。これが、とっておきの薔薇よ」

 ディグナが顔色を変えて息を飲んだ。

「〝マリルルカ〟……ストリア国女王陛下の薔薇だ」

 まっすぐ天に伸びた樹に、薔薇の花がふたつ咲いている。

 花は、裏弁が銀白色に似た淡黄だが、表弁は明るい朱色で萼に近づくほど薄まり淡黄に変化していく。大輪の花冠は高芯咲きで、外側の花弁は半剣弁、中は丸弁が幾重にも重なって華やかだ。清々しさの中に上品な甘さを含んだ香気が鼻腔をくすぐる。

 花名マリルルカ――ストリア国のアンルシカ女王に愛され、私的文書の花印の意匠にも使われる、女王だけの王宮にのみ咲くことを許された薔薇だ。

 それが隣国とはいえ他国の、しかも学園の温室に植わっているのを目撃して、ディグナは絶句している。

 驚かせすぎたかしらとマリルルカが心配していると、ディグナは驚異的な自制心を発揮して自分を取り戻したようだ。ひとつ瞬いて苦笑してみせる。

「……まさか、女王陛下がいらっしゃるとは思わなかったよ」

「造園部員以外の生徒には、この薔薇の意味は伏せられているから。〝マリルルカ〟は市場に出回っていない花。だから、名前を知っているということは、女王の薔薇という異名も、その意味も知っているんじゃないかと思ったの。でも、びっくりさせすぎちゃったわ。ごめんなさい」

「いや。おそらく一生拝謁かなうことのなかった薔薇だからね。感謝してもしきれない贈り物だよ。……だけど、どうしてここで栽培されているの。国外どころか、王宮から持ちだすこともできないはずなのに」

 ディグナの疑問に、マリルルカは当時のことを思い出しながら答える。

「四年前、陛下がヴェスハ国をご訪問中に、フリッヒドルン学園をご見学なさったことがあったのよ。そのときに、学園にはストリア国の子どもも多く在籍しているから、私の代わりに子どもたちの健やかな成長を見守ってもらいましょう、って下賜してくださったの。ただ、物が物だから一株だけだし、それを増やすことも改良することもできないわ。枯らしたりしたら、大変。玉体も同然ですものね」

 特殊な薔薇だということは秘められているとはいえ、薔薇が贈られた直後は、女王の言葉ゆえに、ストリア国の王族が入学したからではないかという話題で持ちきりになったものだ。だが、それらしき生徒がいなかったこともあり、すぐに噂は立ち消えた。

 一時は温室の外まで長蛇の列を成した薔薇の見学者も同時に減少し、現在では滅多にない。おかげで管理に神経をすり減らすことはないが、貴重な薔薇だけに造園部員だけの楽しみにしておくのは惜しかった。

 それでも今だけは、薔薇の貴重さを知りながら花の美しさを純粋に楽しんでくれる者がいる。マリルルカも、つかの間薔薇に対するわだかまりを忘れて、素直に世話した者の喜びを噛みしめた。

 ディグナは耳を傾けながら薔薇にじっと見入っていた。話し終えてからも目を離さずに沈黙してしまったので、魅入られたのではとマリルルカは少し妬けてしまう。薔薇に嫉妬するなんてと、馬鹿馬鹿しくて小さく笑った。

 すると、ディグナが静かに薔薇へ近づいてから、肩ごしにふりかえった。

「……〝マリルルカ〟に触れてもいい?」

 とっさにマリルルカはうなずいてしまう。扱いに慣れた人間以外にはさわらせない方がいいが、女王の薔薇と知っているディグナなら傷めることはないだろう。

 そう自らに言い聞かせつつ、ふりかえりざまの横顔を反芻して顔を赤くした。伏せ気味の瞳が艶やかで、自分へ向けた言葉でないとわかっているのに思い違いしたくなる。

 ただでさえ心臓に悪いほどの美貌なのに、妙に色っぽい瞬間まであるのだから、慣れてきたとはいえ油断は禁物だ。さっきのような醜態を晒さないためには、理性を手放さないのが肝要である。

 薔薇と並んでも見劣りしない美貌の少年は、花弁の輪郭を慎重になぞり萼を支えると、花冠に顔を寄せた。しばし花の芳香を確かめると、萼に添えていた指を花茎に這わせて、つと止める。そうして、マリルルカに再び視線を戻す。

「せっかく同じ名前の花だから、手折ってマリルルカに捧げたいところだけど。残念だな」

 微かにやるせなさを滲ませて微笑う。

 マリルルカは目眩がした。同じ名の薔薇が自身のように感じられ、また禁断を犯してでもその薔薇を捧げてほしいとさえ思えた。

 油断しなくても理性が飛びそうだ。そういうときは、いったいどうすればいいのだろうか。顔どころか首まで赤くなる。

 そのうえ、薔薇から離れたディグナが、手を伸ばしてマリルルカの頬にかかった横髪を払ってくれたものだから、薔薇に触れていた手の動きを思い出してしまった。なんだか、とてつもなく恥ずかしい。

 マリルルカは、とにかく何か受け答えしなければ、恥ずかしさで死ぬ! とがんばった。

「き、 きき気にしないで! わ、私、薔薇なら持ってるからっ」

 何それ――――!? と胸中で絶叫する。もっと他に言い様はあるのにと、とんちんかんな切り返しに泣きそうになる。

 当然、マリルルカの手には薔薇どころか花の一輪もない。だが、ディグナは少し小首を傾げながら、優しく尋ねかえしてくれた。

「恋人から贈られた?」

「そっ、そういう意味じゃなくてっ……その、母の形見なのだけど」

 誤解されそうになって、あわてて否定する。言った本人だけは何を指して薔薇としたのかわかっていたので、襟の内側からペンダントを引っぱり出した。

「月の石ほど珍しいものじゃないけれど、薔薇水晶の魔法石……」

 目線まで鎖を持ちあげてみせると、ディグナが顔を近づけた。マリルルカは反射的に首をすくめる。気を遣って距離を取り直してくれたディグナが、代わりに右手を差しだした。

「手にとって見せてもらってもいいかな」

 マリルルカは首の留め金を外すと、鎖をまとめてディグナの手にそっと置いた。

 ディグナは月光で手許を照らして、薔薇水晶を興味深そうに観賞する。しばらくすると、指先で転がして指輪をつまんだ。目の前に掲げて、いろいろな角度から観察しはじめる。かと思うと、左手の小瓶をコートのボタン穴に通して灯りを保持し、空いた手で指輪に通した鎖を抜いてしまった。

 あっと思う間もなく、マリルルカは左手をディグナに持ち上げられる。

「指輪をはめてもいい?」

 心臓の鼓動が跳ねあがる。

 しかし、ディグナには艶めいた様子はなく、むしろ深く思考に沈んでいるようだ。その表情があまりにも真剣だったので、マリルルカは一時指輪への複雑な感情は横に置いて、ディグナへ譲ることにした。

「いいわ」

 承諾を得たディグナは、躊躇せず中指に指輪をはめる。

 指輪は少し大きかった。母の薬指には合っていたのを思い出すと、やはりこの指輪は母のものだと思えた。

 けれど同時に、では父は指輪にどんな気持ちを託したのかと疑問に感じる。はたして父は、別れてからほんのわずかでも母を愛しく思い出したことがあっただろうか。戯れに与えたのではなく手切れ金でもない、そう断言できる思いがこの指輪にこめられていたのだろうか。アシュレー亡き今となっては、真実は永遠にわからない。

 指輪のことを考えると必ずはまる堂々巡りに嫌気がさし、マリルルカは密かに息をつく。あの父に対して期待する心を捨てきれないでいる自分は、愚かしく滑稽だ。自嘲して目をふせると、堂々巡りの思考を追いやる。そして、指輪をはずす許可を得ようと顔をあげた。

 ディグナは視線を指輪に落としたままだ。銀製の輪を指で撫で、形を確かめている。

「……やっぱり女性の手には少し無骨な印象だね。元は男物だったのかな。守り石を譲るなんて、前の持ち主はよほど母上を愛していたんだろうね。指には合っていないけれど、貴女にも守護は効いているみたいだ。……ああ、母上の祈りゆえか。だけど……」

「ディグナ」

 口を挟めないでいたマリルルカは、たまりかねて名を呼んだ。


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