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そばにあった温もりが失われて、マリルルカは落胆する。もっとディグナを感じていたくて、強く抱きしめてほしいとさえ思った。
それに気づく風もなく、ディグナは視線を落とすと制服のポケットに手を入れる。流れるような所作で取りだしたのは、男物のハンカチだ。それが差しだされた。
「――あ、その、わ、私……っ」
突然、猛烈に恥ずかしくなる。
泣きはらした顔は、絶対にみっともない。しかも、ほぼ初対面のディグナに抱きつき、泣きじゃくり、あまつさえ非常に個人的な事情を語りだす暴走っぷりだ。その話だって泣きながら喋ったのだから、きっと何の話だかわからなかったに違いない。迷惑行為極まれり、である。
(恋って、恋って、……なんって、恥ずかしいものなの――――!)
ようやく理性を取り戻したマリルルカは、赤くなったり青くなったり身体が震えたりで大忙しとなった。絶対、彼はあきれ果てている。すぐさま脱兎のごとく逃亡を図りたい。
しかし、ここで逃げたら二度とディグナに会えないかもしれない。
マリルルカは勇気をふりしぼって声を出した。
「……ご、ごめんなさい……あの、ハンカチ、あなたの、肩、拭いて……」
涙で濡らしてしまったコートを気にして、礼儀に反することながらディグナの好意を断る。せめてもの救いは、彼のコートに鼻水がつかなかったことだろう。そう思うと激しく落ちこんだ。
マリルルカの様子を気遣わしげに見守っていたディグナは、濡れた肩に目をやり、首をゆっくりと横にふった。
「ああ、全然かまわないのに。もし泣きたりないのなら、いくらでも肩を貸すよ。……できれば格好良く、胸を貸すって言いたいところだけど。悔しいことに、高さが少しばかり足りない」
おどけて肩をすくめてみせる。
マリルルカは笑ってはいけないと思いながら、ついつい口許がほころぶ。
ディグナも笑って、マリルルカの手をとるとハンカチを持たせた。
「ありがとう……ディグナは、十分素敵だわ」
今度は素直に受け取れた。
頬の涙を拭い、片方ずつ目頭を押さえて、顔を整える。それから、涙を拭った面とは逆の面で、ディグナの肩をふく。
涙のしみこんだコートを軽く叩いていると、ディグナの指先がマリルルカの手をそっと止めた。
「もう大丈夫だよ、ありがとう」
そのままハンカチに指先が伸びたので、マリルルカはさっと手を退いて胸に抱えこむ。
「洗って返すわ」
ディグナはちょっと目を瞠ったが、うんとうなずいた。
マリルルカは嬉しくてぎゅっとハンカチを握る。それは再会の約束になる。
ふと、ディグナが視線を巡らせた。
「ここは……薔薇園だね。貴女の……っと、大切なことを忘れていた。とても親密になったように思っていたけれど、まだ名前も知らなかったね。貴女の名前は?」
「マリルルカ……」
とっさに出たのは、真実の名前だった。
「マリルルカ? 可愛らしい響きだね」
そうとは知らずに、ディグナが音の響きを楽しむように呼ぶ。
マリルルカは喜びと照れくささで頬を上気させているのを隠そうとして、顔を逸らせて少し拗ねてみせる。
「似合わないと思っているのでしょ」
「どうして? よく似合っているよ。薔薇の名前だ」
マリルルカは驚いて目を丸くした。
「知ってるの? すごいわ」
「実物を見たことはないけれどね。ああ、だから薔薇園が貴女の散歩道なんだ。薔薇が好きなんだね」
「……好き、なのかしら? 私、ここの薔薇を世話しているの。だから、少しは特別に好きな花になったのかもしれない……」
薔薇は伯爵家の象徴――それは、薔薇男爵という一代限りの称号でありながら、三代にわたってカラヴェイン家当主が叙されてきた爵位ゆえだ。
曾祖父は、他品種の薔薇を交配させることで、人工的に新品種を生みだして薔薇の父とまで讃えられた。祖父は東洋の野生種を交配に採り入れたことでそれまでとは異なる矮小品種を作出し、父は蓄積されたノウハウを生かして多くの新品種を世に送りだした。
そうした華々しい経歴は、マリルルカがグリンヒル女史のゼミや造園倶楽部に所属して薔薇栽培を学ぶ動機には関係なかったが、爵位継承せざるを得ない状況となると重荷に感じる。三代に及ぶ功績は、カラヴェイン伯爵=薔薇男爵という図式を確固とした。世話をしてきた薔薇たちは愛おしいが、薔薇が好きかと問われると、伯爵家の重圧や父親に対するこだわりが絡みあい、わからなくなってしまうのだ。
半月の弱々しい光は、マリルルカの複雑な心情をうまく闇に隠してくれる。ディグナはマリルルカの迷いに気づかず、感嘆していた。
「ここをマリルルカが世話してるんだ。すごいね。見せてもらっていいかな」
「ええ、ぜひ楽しんでいってもらいたいわ。でも、今夜は暗くて、とても薔薇の美しさを堪能できそうにないから」
闇色に沈む薔薇の花が残念で、マリルルカは嘆息する。拙いながらも世話してきた薔薇を披露したい気持ちはやまやまだったが、この暗さでは花を楽しめない。それどころか、薔薇園の迷路に入れば足許が危ういだろう。
「ああ、そうか。僕は夜目が利くから気にならないけれど、そういうことなら……」
納得したかと思いきや、ディグナは胸の隠しから小さな袋を取りだした。
袋の口からは鎖が出ており、胸の隠しに繋がっている。すると袋の中身は懐中時計なのだろうか。だが、ディグナの手のひらに乗る袋は円筒形をしていた。
マリルルカが訝しげに見守るなかで、ディグナは鎖を引いて袋から中身を取りだす。
「え……まあ!」
袋から光があふれでた。夜闇に慣れた目には眩しいほどの光量で、マリルルカは反射的に双眸を細めた。ところが、その光は目を射ることなく、やわらかに広がっている。
瞳に茶目っ気をきらめかせて、ディグナが光をつまみあげてみせる。
「驚いた? これは満月の光なんだ」
確かに、月光そのものだった。目に優しい光は白く冷ややかで、けれど闇を払うほどの明るさがある。薔薇園を皓々と照らす光輝は、満月の夜と比べても遜色がない。
いったい何を持っているんだろうと、マリルルカは手許を覗きこむ。
ディグナが指先でつまんでいるのは筒型の小瓶だった。瓶は透明な硝子で、ふたは真鍮製。そのふたに鎖が繋がれている。
そして瓶の中には、月があった。
マリルルカは息を飲む。うずらの卵ほどの大きさしかないが、その真球は天空にある満月そのものだった。やわらかなのに冷たい、眩いほど輝いているのに瞳を灼かない、不思議な白光を放っている。
「それ、は……魔法石?」
「いいや。空の月の欠片だと伝えられている。いわば、月の石だよ」
マリルルカはぽかんとした。
「本当?」
「さあ。古い言い伝えだからね。けれど、魔法石じゃないことは確かだよ。人工的に作り出されたものじゃなく、天然石なんだ」
ほぅっと長い吐息をついたマリルルカに、カノンが手を差しだした。マリルルカは頬を染めながら、そっと手を重ねる。
地上に現れ出た小さな満月は、薔薇園の花々を幻想的に浮かびあがらせていた。花期に入ったとはいえまだ早い時期なので、露地にある薔薇園の花はぽつりぽつりとしか咲いていない。しかし、それはそれで個々の花々を観賞するには適していた。ディグナは花の方に月光をかざしては、名前を言い当てたり栽培の様子を尋ねたりして、薔薇の迷路を楽しんでいる。
マリルルカは夢見心地で歩いていた。ディグナは熱心に薔薇を見ていたが、決してマリルルカをおろそかにすることなくエスコートしてくれる。歩く速度を合わせ、道に窪みがあれば上手に避けて、視線を向ければ笑顔で返してくれる。まるで恋人同士みたいだ。
薔薇の迷路を抜けると、木立の向こう側に建物の屋根が見えた。ディグナが月の石を掲げて指さす。
「あれは温室だね。鍵がかかってるから入れないけど、壁が硝子だから、外から眺めたことはあるんだよ」
マリルルカは温室にも薔薇があると言いかけて、あっと声をあげて口を閉ざした。
良い思いつきが浮かんだ。さっそく実行しようと、ディグナの手を引く。
「案内するわ。あそこには、とっておきの薔薇が咲いてるの!」




