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お待たせしました。
夜空に浮かぶのは、半分欠けた月だ。
マリルルカは薔薇園に続く道すがら、半月を見上げてため息をついた。
消灯の時間はとっくに過ぎている。
夜更けのひとり歩きは、セーラにも強く諫められたのでやめようと思っていた。それなのに、ディグナと出逢った夜以来、二回も寮の部屋を抜けだしていた。今夜はもう三回目だ。
しかし、それもこの夜限りだと決めていた。日を追うごとに細くなっていく月は明るさをも減じ、足許をおぼつかなくさせる。そろそろ洋燈などの灯りがなければ歩くのも難しくなるが、そんなものを持ち歩けば警邏兵に見つかってしまう。
暗殺のこともあった。学園に侵入者はありえないと信じているが、だからといって恐怖心がないわけではない。
命を狙われたのは、今のところ一度だけだ。父アシュレーが亡くなって十日後のことである。そのころのマリルルカは、遺言状により後継者と定められ、また主亡きあとの女主人として邸の家政も取り仕切らねばならず、フリッヒドルン学園に戻ることは絶望的だと沈みこんでいた。
ところが、その日の真夜中、寝室に賊が忍びこんだことによって、マリルルカの運命は変わった。幸い、そのときは続きの間で休んでいたセーラが異変に気づき、事なきを得た。だが、伯爵邸よりも厳重な警護を見込める学園の方が安全だという後見人の忠告を入れて、急遽復学する運びとなったのだ。
また、道中の警護は後見人が買って出てくれた。この後見人はアシュレーの親しい旧友であり、隣国ゲルドゥルの名将軍でもあるギルバード・ヴィオーダだった。
アシュレーよりも十歳以上は年上であろう将軍である。その彼が、護衛の部下をふたりだけ連れ、取る物とりあえずアシュレーの死に際に駆けつけてくれたのには驚愕したものだ。ヴィオーダ将軍一行が滞在してくれていたおかげで、マリルルカの命はあったようなものである。彼らがいなければ、セーラともども斬り殺されていただろう。
事実、セーラは二の腕に浅く切り傷を負った。軽い怪我とはいえ、マリルルカは目前が冷たい闇で塗りつぶされるような気がしたのだ。
だが、後見人も管財人もそれでお終いではないと言った。少なくとも爵位を継ぐまでは、身辺を厳重に警戒しなければならないとも。言葉の意味するところは明白である。この暗殺は、マリルルカの爵位継承を阻止するためだと考えられているのだ。
彼らの推測が正しければ、暗殺依頼をした人物もしぼられる。伯爵家に縁がある者――――マリルルカはそこで思考を無理やり止めた。くらりと目眩がする。推理は暗殺者に知人の顔を貼りつけるようで、気持ちが悪くなった。
暗殺者の顔も依頼者の正体も知らないままでいようとするから、月夜の散歩という楽天的な行動をとっていられたのかもしれない。暗殺騒ぎは一回きりで、目覚めたときに賊の姿はすでになかった。だから、自分の命が狙われているという実感がいまだない。
引き比べ、セーラは暗殺者と直接対峙した。彼女がマリルルカの安全に神経質になるのは当然だ。
そのセーラの心配も顧みず、マリルルカはこれが最後と思い定めつつ夜歩きをしている。
自分で自分の行動がわからない。
少なくとも、セーラに説教されたときには月夜の散歩は控えようと思ったのだ。きっとセーラを誘っても却下されるだろうし、なぜか散歩するならひとりの方がいいと感じていた。だから、もう散歩をすることもないだろうと、あのときは思った。
それなのに、マリルルカは数日で禁を破ってしまった。
薔薇園まで歩いていっては、薔薇を楽しみもせず悄然として部屋に戻る。それを繰り返している。
どうしてこんなことをしているのか、自らの襟首を締めあげて問いただしたいほどだった。
今夜も、何事もなく薔薇園に到着すると、マリルルカはうなだれた。
月明かりの乏しさは、薔薇園を闇に沈めている。暗色の薔薇は生気を欠いていて、作り物のようだ。異国には、精巧な造花を死出の餞として棺に納めるところもあるという。とすると、薔薇の垣根で作られた迷路のような小径は、死者の世界へ通じる道だろうか。
不吉な空想をしてしまい、マリルルカはぞっとする。思わず自らを抱きしめた。
(本当に、なにをやってるんだろう?)
皆が寝静まった真夜中に、暗く人気のない薔薇園で一人。襲ってくださいと言っているようなものだ。
戻ろう――そう思ったが、身体が動かず立ちすくむ。
マリルルカは動けないことに混乱した。何度も夜歩きした場所で怖かったことなど一度もなかったのに、いまは身体の芯が凍えそうなほど怖ろしい。
助けを求めて、ほとんど無意識のうちにつぶやく。
「……ディグナ……」
自分が誰を呼んだのかに気づき、茫然とする。
なぜ、セーラでもリーチェドでもないのだろう。名を呼んで来てくれる可能性があるのはセーラだけだ。ディグナとは満月の夜に逢ったきりで再会していない。日が経つにつれ、彼は夢幻だったのではと疑うほど自分からはかけ離れた存在に思えていたのだから、こんなときに呼ぶ相手ではない。
それでも、彼の名前しか呼べなかった。
「……ディグナ……ディグナ……ディグナっ」
最後の呼びかけは小さな悲鳴となり、悲痛に響く。
「どうしたの?」
応える声を聞いた刹那、マリルルカは魂を焦がすように希求した祈りがその呼びかけにこめられていたのだと悟った。
肩に手を置かれて振りむかされれば、神々しい美貌がそこにあった。暗くてもはっきりと美貌も表情も見て取れる。彼は、心配そうに眉をひそめ、マリルルカを覗きこんでいる。
案じる相手が自分だと気づくと胸が熱くなった。声はのどの奥でつかえた。
感極まって泣きそうになっているマリルルカに、美貌の少年は再び問う。
「気分が悪くなったの? それとも、怖いことでもあった?」
マリルルカは小さな子どものように首を横にふる。
「本当に?」
今度は首を縦にふった。
少年は心配そうな様子を残しながらも、安心したように頬をゆるめる。
「そう。それなら、よかった」
ふわりと柔らかい微笑みだった。
彼の笑顔を見た途端、マリルルカは祈りの意味を思い知る。
動かなかった体がほどけ、よろめくようにして少年の細い体に寄り添った。マリルルカより少しだけ背の高い少年の肩に、頬をあずける。涙が雫となって流れ落ちた。
―――逢いたかった、逢いたかった、逢いたかった! 私は彼が……好きなんだ。
* * *
彼のことを、いつの間に恋うようになったのだろう。
出逢ったときには、こんなに再会を望むようになるとは思いもよらなかった。
昼間は学園生活の忙しさにまぎれて、満月の夜に出逢った少年のことをあまり思い出さずにいられた。だが、夜闇が空を覆って月が昇るころになると、胸をかきむしりたいような焦燥を覚えながら彼のことを考える。
陽の光を束ねたごとき黄金に輝くその髪。本物の宝石さえ顔色を失う澄んだ深紅の瞳は金混じり。顔だちは少女のような繊細さでありながら、きちんと男の子だとわかるのは、瞳の金がどこか鋭さを含んでいるから。
記憶は薄れるどころか鮮明さをいや増し、それが余計に少年を人離れした存在だと際だたせる。記憶の彼が神々しいほど、夢を見ていたのではないかという気がしてきた。手を伸ばしても届かない――幻だと思えば、その事実を受けいれられる。そう思った。
けれど、自分をどう騙しても意味はなかった。満月の夜から三度も寮を抜けだして、探していたのだ。夜にしか存在しない、太陽のような色彩の少年を。
いま、その少年はマリルルカの手の中にいる。マリルルカは彼の肩で泣いていた。
ディグナと再会したことで、緊張の糸がぷつりと切れた。父母の事情から自らの生い立ち、伯爵家に引き取られたこと、父の死による爵位継承、凶手の存在、そしてリーチェドの求婚とセーラの恋。その諸々を、泣きながら語っていた。
学園の規則も秘密の誓いも、すべて無意味だった。ただ、心の隅で、少しでも彼が同情してくれないだろうかと願う。――なんて、ずるい手段! 嫌悪する理性とディグナを思う恋情が激しくせめぎあう。
ディグナは最初こそ戸惑ったように立ち尽くしたが、やがてマリルルカの赤銅色の髪を優しく撫ではじめた。マリルルカが話し出すと、相づちだけを打って静かに耳を傾けていてくれた。
恋を知り、恋した相手に再び出逢えたことでマリルルカは興奮状態にあったが、徐々に落ちついていった。もっとその興奮を味わいたい気もしたけれど、後頭部をゆっくり滑り落ちていく少年の手があまりに優しい感触なので宥められてしまう。
心が凪ぐと、マリルルカの涙は止んだ。それでもディグナから離れがたく、ほんのわずかな間、彼の腕に己をあずけたままでいた。
髪を撫でていた手が止まった。マリルルカは名残惜しみながら、ディグナの肩から頬を離す。冷たい夜気に頬がさらされると、急に不安になってディグナの表情を窺った。
ディグナはほんの少し首を傾げて微笑する。そして、マリルルカから離れた。
評価ポイントを再びいただきました。
ありがとうございます! うれしいです!
ところで、タグの追加をしました。
以前後書きにも書きましたが、
結局、『恋愛』『片思い』の二つをプラスするという方向で。
うーん、これで大丈夫かな…?




