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護身術の講義を終えて更衣室から出てきたマリルルカを迎えたのは、次の講義室で再び合流する予定だったはずのカノンだ。
「お疲れさまでーす、いい汗かけましたか」
頭に花が咲いたような浮かれた調子で声をかけてくる。
マリルルカはその頭に問答無用で拳骨を喰らわせた。
「女子更衣室の扉の前で待ち伏せてるんじゃない! 変態行為でしょうが!!」
「……えぇ――誤解ですー、僕、ただお出迎えしようとしただけで」
頭を抱えこんでうずくまった眼鏡君は、涙を浮かべながら上目遣いで見上げてくる。
マリルルカは容赦なく叱りつけた。
「時と場所を、よっく考えなさい!」
さもありなんと、クスクス笑いながら他の女子生徒が通りすぎる。
一揃いに恥をかいたと気づいたマリルルカは、あわててカノンを立たせると場所を移動する。セーラとカロニカもあわてず騒がず後に続いた。
途中でリューンを拾い、鍛錬場がある棟から離れると、横を歩くカノンが訊ねてきた。
「髪ゴム、見つかりました?」
「……いいえ」
持ち物を調べてみたが見あたらなかった。午前中の講義の教室や移動経路もざっと見回ったが、飾りゴムは見つからなかった。
午前の講義はすべて、万事にそつがないセーラといっしょだった。マリルルカ自身、整理整頓当たり前、隙は見せるべからず、という項目が行動規範にある。ただ、マリルルカは最近ぼんやりしていることがあるので、少し心許なかったが。そのぶん、セーラが充分に注意しているので、この紛失は晴天の霹靂といえた。セーラが体調を崩しているのならともかく、ふたりそろって異変に気づかないなんてことはまずありえない。
それでも万が一があると冷静に判断して、マリルルカは首を傾げながらも飾りゴムを諦めた。万が一の確率でなくした失せ物が、探せば出てくるとは思えなかったからだ。
「……お気に入りのゴムだったんですか」
おずおずと問いかけてくるカノンを、マリルルカは見やった。眉を下げて、少し心配そうにしている。
「そうでもないわ」
「でも、ちょっと落ちこんでるみたいだし……。後でまた探しにいくのなら、僕、一生懸命手伝います!」
意気込んでされた申し出を断ろうとしたところで、戸棚室に着いた。
戸棚室は、生徒の鞄や教科書を置いておく部屋だ。
護身術の講義は着替えがあるため休み時間が圧迫され、次の講義まであわただしい。各自に割り当てられた戸棚で準備を整えると、軽く手をあげて別れ、それぞれの教室へ繰り出した。
マリルルカは一般教室棟へ足を向ける。五限目は中等数学Ⅱだ。セーラ、カノンと連れだっていく。
「なくなった髪ゴムを最後に見たのはいつですか」
「一限目には、ちゃんと筆入れの中に入ってたわよ……って、探さなくていいから。もう探すつもりはないし」
やっと断ると、カノンは驚いて目を瞠った。
「えっ。あと一回ぐらいは、きちんと探してみないんですか? 昼休みは時間がなくて、あんまり探せなかったのに」
「一応、事務室に届けられていないか確認には行くわよ。でも、昼までの記憶をさらってみたけれど、落とすような行動はしなかったはずだわ。それはセーラも同じよ。ね」
「はい。飾りゴムは色こそ深い緑と地味ですが、レースのフリルとリボンがあしらわれた物ですから、落ちたら目立ちます。それを見逃したとは思えません。ですけど、マリー様には申し訳ありませんでした」
飾りゴムの紛失に責任を感じて、セーラが目礼する。
マリルルカは首を横にふった。
「セーラのせいじゃないわ。なくなっていないはずの物がなくなっていたんだもの。だからよ、カノン。簡単には見つからないと思うから、探さないわ」
セーラには絶大な信頼を寄せているが、絶対に失敗しない人間がいないこともわかっている。なくしたのは自分なのだから、セーラを責める気はまったくなかった。
「だから、この話はもうお終い」
そう締めくくろうとした言葉尻に重なるように、カノンがつぶやく。
「なくなるはずのない物が、なくなる……」
「カノン?」
急に立ち止まったカノンを、マリルルカは三歩先から振りかえった。呼びかけても珍しく返事をせず、うつむいている。
「どうかしたの。大丈夫?」
気分でも悪くなったのかと少し心配になって、近づきながら手を伸ばす。
その手を、カノンが両手で包みこんだ。
「マリーさん……」
「ちょっ、何して……?」
手を引っこめようとしたが、カノンの表情を見て動きが止まる。見たことのない真剣な顔だったからだ。
それに、マリルルカの手をしっかり包みこむカノンの手は、ふだんの頼りなさとは裏腹に、思いのほか大きくてドキッとした。形はきれいなのに、手のひらは固い。
びっくりしながら手を見つめていると、影がさした。マリルルカが目線をあげると、存外近くにカノンの顔がある。
「気を、つけてください……本当に大切なものは、決してなくさないように」
その声音もいつものように軽くなく、低く重く響いた。
雰囲気の差違はマリルルカを惹きつけ、カノンの言葉が心の奥にすとんと入る。なんてことはない台詞なのに、思いがけず真摯に受けとめ、カノンの真意をさらに知ろうと眼鏡の向こうの瞳を注視する。
それを阻む瓶底レンズを覗きこもうと身を乗りだしたところで、セーラの声がした。
「マリー様。五限目が始まります」
その台詞のすぐ後に、本鈴が響きわたる。
マリルルカは夢から覚めた気分で瞬くと、突然、教科書を振りあげた。
「何っ、当たり前のことを言って、いつまでも手握ってるのよ?」
「あいたっ!」
思いっきり教科書で頭をはたかれたカノンは、小脇に抱えていた自分の荷物を落とした。頭をさすりながら、あわててしゃがむ。
「……セーラさん。ひどいです、せっかくイイ感じだったのにー……」
こぼしながら数学のノートを拾うカノンに、セーラは教科書を渡しつつ無表情で目礼した。謝意というより諫めているふうである。
マリルルカはちょっと離れた場所に滑っていった筆入れを拾いながら、胸中で憤然と文句をつけていた。
(なんで、眼鏡君相手にドキッとしたり見惚れたりしてたのよっ私! そのうえ、自分から顔を近づけるなんて!)
完全に危険領域だった。親しみ以上の感情を持っていると誤解されてもしようがないほど、カノンの顔がそばにあったのだ。冷静を装いつつ叩きとばしたものの、気まずさや地に足がつかないような落ちつかなさで、動悸がおさまらない。
(落ちつくのよ。平静に平静に……)
こっそり深呼吸をして振りかえろうとすると、背後から黄色い声があがった。
「あ! マリーさん、赤くなってる。僕のこと、意識してもらえました?」
「そんな訳ないでしょっ、バカ――――!!」
振りむきざま投げつけた筆入れは、カノンの顔面に命中した。




