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お待たせしました。
前章がテッドのターンだったとしたら、
今章はカノンのターン、でしょうか?
リーチェドに求婚されてから、数日が経った頃だろうか。マリルルカの周辺で、ある話題がちらほらとあがるようになっていた。
『私は、ハンカチをなくしてしまいましたの。お気に入りだったのに残念だわ』
『ああ、僕は、鉛筆をなくしたなあ。まあ、一本ぐらいなくても困りやしないけど』
『経済史のノートがないんだよ! あれがないと試験がっ!!』
なかには深刻な場合もあるが、おおむね失っても諦めのつく物が多く、皆、楽観的に構えていた。消しゴムなどの小物は落としやすいこともあり、誰もが本人の不注意による紛失だと考えている。それに、世間話にはのぼるものの、問題になるほど紛失頻度は高くない。道端の植木の下に紛失物を発見する持ち主もおり、学園側も生徒に気をつけるよう注意をうながす程度の措置だった。
「……そうですかぁ。二限目の経済史が終わってから戸棚に絶対入れておいたのに、昼休みにはなくなっていたんですかぁ」
「俺、鍵かけ忘れたかなあ……? だけど、戸棚からなくなるわけないだろ。イジメ? イジメか? 試験もだけどさあ、試験後にノート提出なんだよ……泣ける!」
一部の深刻な被害が出ている男子生徒と額を突きあわせるようにして話しているのは、カノンだった。男子生徒の方は、友人に借りたノートを必死の形相で写している。
「うーん、イジメよりも、まずノートが完成するかどうか心配した方がいいんじゃ。できれば手伝ってあげたいですけど……」
「手伝え!」
「せっかく復習ができる機会を奪うわけにはいきませんよねー。がーんばれー」
「うわっ、ムカつく!」
あははと軽やかな笑い声が響いた。
横目でそれを眺めていたマリルルカは、感心の吐息をつく。
昼食後の休憩時間である。四限目までしばらく余裕があると、生徒たちは思い思いに過ごす。マリルルカたちは食事後、そのまま食堂の席に居座って談笑していた。
復学から半月を経た今では、さすがにもう取りまきの席取り合戦は終息を迎えている。マリルルカは、やっと落ちついて親しい友人となごやかに話す時間を得られた。
眼鏡君は眼鏡君で、最初こそ雛の刷り込みのごとくマリルルカに懐いてきたものだが、すっかり学園の空気に馴染み、他の生徒とも仲良くできている。多少思いこみが強いというか、一部おかしな思考回路になっている点を憂慮していたマリルルカは、まったくの杞憂だったと肩の荷が下りた気分だった。
それどころか、こうして観察していると、眼鏡君が実は人づきあいが上手だとわかる。
フリッヒドルン学園の生徒は階級が多様で、庶民を軽侮する貴族の子息や、逆に支配者層の傲慢さを嫌って壁をつくり一切の接触を断つ者もいる。こうした学園の理念に反する生徒は目立っては存在しないが、それでも特に貴族階級に属する者の多数は脳裏で差別、あるいは区別していた。
労働者階級に属するであろうカノンは、同じ階級はもちろん貴族や資産家の生徒ともうまくつきあっている。入学したばかりの庶民が犯しがちな失敗がないからだろう。
階級の違う級友を同等扱いしたり、学園理念の『生徒は皆平等』という理想を妙に熱く受けとめ主張して憚らない者は、あっという間に孤立する。そこまでいかずとも、親しくなったと思って馴れ馴れしくすると、途端にそっぽを向かれるなんてことは往々にある。
どうやら、カノンはその匙加減が絶妙なのだ。
丁寧な口調は誰に対しても同様で、一見物腰が低く見える。そうした態度には卑屈さが表れやすく、すぐ軽蔑につながるものだが、彼にはそれがない。
経済史ノートの男子生徒は政治家の令息だが、本人は差別や区別をする性格ではなく、カノンもそれを知覚して軽口を交わしている。
また、ハンカチをなくした女子生徒を『それは悔やまれますね……。あなたはとても趣味のいい方ですから、そのハンカチもきっとすてきな品だったでしょうに。けれど、すぐにもっと素晴らしい品が手許にやってきますよ。美しい物を知る人の許には、自然と美しい物が集まってきますから!』と、素で励ましていた。気位の高い貴族令嬢の彼女は確かに審美眼に優れ、卑屈な態度や見え透いたおべっかは美しくないと嫌悪する質なのだが、カノンの言葉には素直にありがとうと答えた。一生懸命に励ます彼の様子に、嫌悪する箇所をひとつも見いださなかったからだろう。
卑屈さが感じられないのは、存外言いたいことを言っているからかもしれない。そしてなにより肝要なのは、一人一人に対する距離の取り方を器用に使い分けているところだ。決して踏みこみすぎず、それでいてぎりぎりの線まで相手に近づく。だからこそ相手は急速に親しみを感じ、友情を覚えはじめるのだ。
この匙加減をカノンが計算ずくでやっているとは思えないので、おそらく天然だろう。それはそれで空恐ろしい気もするが、眼鏡君の世話という面倒ごとがひとつ片づくなら、どうってことはない。マリルルカはほとんど子離れした息子を見守る心境で、微笑ましい友情を眺めていた。
すると、ひとしきり励ましともからかいともつかない会話を終えたカノンが、ふりむいてマリルルカの許へ小走りでやってくる。
無駄に嬉しげなので、マリルルカは嫌な予感がして顔をしかめた。
「マリーさん! いま、僕のこと見つめてましたよね。すっごく熱い眼差しで!」
なぜ、この眼鏡君は自分のときだけ距離感を計り間違ったあげく、激しく曲解して突撃してくるのか。マリルルカはこぶしを握りしめる。
「あなたの眼鏡は度が強すぎるんじゃないのっ。物事がゆがんで見えすぎよ!」
「あはは。大丈夫ですよー。マリーさんの凛々しさも優しさも、ちゃーんと見えてます」
「マリーは迷惑だって言ってるんだ。わきまえるってことを、いいかげん憶えろよ」
ザッツが険のある目つきで文句を言えば、カノンはしゅんと肩を落とす。
「迷惑ですか、僕……?」
捨てられた子犬のように萎れたカノンは、思わず怯むほど哀れで、マリルルカはついほだされてしまった。
「……べ、別に」
「マリー!」
「よかったー。僕、マリーさんに迷惑がられたら生きてけませんから!」
途端に、先ほどの様子が嘘のような笑顔になった。
またしても同じ手に引っかかった! とマリルルカは己の未熟さを呪って震える。
ザッツが気の毒そうに、彼女をたしなめた。
「マリーもいいかげん学習してくれよ」
その一部始終を、シュビットラン双生児が楽しそうに見守っている。それが最近の定番となりつつあった。
ザッツとカノンの仲は変わらずだが、嫌味や皮肉といった婉曲な方法では眼鏡には通じないと悟ったのか、直接話法になってきた分だけ仲良くなったといえるかもしれない。始めから友好的だった双子とは、カノンが人懐っこさを発揮してずいぶんくだけた様子である。セーラは使用人としての職分を優先するあまり他人と親しく接しないが、それでも主人の恋人に勧めるだけあって、カノンの人柄を認めている。
眼鏡君が絡んでくるとけんか腰になるマリルルカも、なんだかんだと嫌がりながら、すっかり情が移ってしまっていた。講義の選択がほぼいっしょなので、長時間顔を会わせつづけた結果の慣れともいえた。
しかし、この日の昼休み後の講義は別行動である。四限目は護身術で、セーラとシュビットラン双生児がマリルルカと同じ選択をしている。
そろそろ四限の準備をしておこうと、マリルルカは髪を結わえるための飾りゴムを筆入れから出そうとした。必要なときにすぐ取り出せるよう常備してあるのだが、筆入れのなかを探る指先にいつまで経っても飾りゴムのレースの感触が伝わってこない。
マリルルカは、きちんと筆入れを開いて中を確認した。
「? どうしました、マリーさん」
「………………髪ゴムが、ないわ」
答えを聞いたカノンが、目を丸くする。周りにいた者たちもちょっと止まって、マリルルカを注視した。
筆入れの中を、マリルルカは食い入るように見つめていた。




