裏返し
クラスには、莉子がいた。
可愛くて、声が大きくて、誰をクラスの味方につけて、誰を“なし”にするか、それをすべて決める女の子。教室の空気は、いつも莉子の機嫌ひとつで晴れたり曇ったりした。
そして、七海がいた。
地味で、声が小さくて、いつのまにか莉子に“なし”にされた女の子。
誰も七海と話さない。班分けでは必ず余る。給食のトレイを運ぶとき、すれ違いざまに聞こえよがしの笑い声。SNSの裏アカウントには、七海の盗撮写真とひどい悪口が、毎日のように上がっていた。
担任の岸本先生は、それを全部知っていて、知らないふりをしていた。自分のクラスで波風を立てたくないから。
そして――私も、知っていた。
知っていて、何もしなかった。
「関わると、こっちまで巻き添えで“なし”にされる」
そう自分に言い訳して、私は毎日、見ないふりをしていた。
鬼頭さんにはあんなに怒ったくせに。お父さんのためにはあんなに怒ったくせに。
すぐ隣の席の七海のことは、見ない、ふりを、ずっと続けていた。
その日。
放課後の掃除の時間に、七海がひとりで雑巾を絞っていた。
莉子たちが、そのうしろを通りすがりざま、わざと水が入ったプラスチックのバケツを蹴った。
ガシャーン、と鈍い音がして、汚れたグレーの水が七海の上履きを、びしゃりと濡らす。
「あ、ごめ〜ん。そこにいるの見えなかった」
くすくす、と意地の悪い笑い声が重なる。
七海は、何も言い返さなかった。
ただ、濡れて色が変わった上履きをじっと見つめて、唇を、血がにじむほど強く噛んでいた。
その横顔を、私はすぐ近くで見てしまった。
怒りでも、悲しみでもない、もっと心の奥の――「今すぐ消えてしまいたい」っていう、底のない顔。
生きてるのが、つらい。そういう顔だった。
私の中で、ぐらりと、何かが決定的に傾いた。
(……消えればいいのは、七海じゃない。あいつらだ)
そう思った瞬間、自分の心の冷たさにゾッとした。
頭の中で、ほんの一瞬、私は莉子をククの力で“どう処理するか”を、冷酷に計算していたのだ。発生源を消すか、書き換えるか、って。
違う。私は、そんなふうにカードを使いたいわけじゃない。
バッグの中で、ぽこっ、と音がした。
ククの花が咲いた。だけど――。
『……おい』
ククの声が、めずらしく、戸惑ったように激しく揺れていた。
『なんか、変だ』
カバンの隙間から、シュルシュルとカードが滑り出てくる。枚数は五枚。
だけど、その全部が、真っ黒な裏返しのままだった。絵柄が、一切見えない。
「ちょっと、裏が見えないんだけど。どれが何のカードか、説明は?」
『できん』
ククが、喉の奥で低く、苦しそうに唸った。
『おれにも、何も見えない。あの女(莉子)の心が……ねじ曲がりすぎてて、因果の絵がにじむ。システムがバグってる』
五枚のカードの輪郭が、テレビの砂嵐みたいに、ちりちりと激しく震えていた。
お父さんのときの胸焼けよりも、もっと悪い。今度は、ククの力そのものが、人間の悪意のせいで狂わされている。
でも、目の前で、七海が消えそうな顔をして立ち尽くしている。
考えている時間は、一秒もなかった。
「……これ」
私は、半ば勘だけで、真ん中の一枚に指を伸ばした。
触れた瞬間、カードがパッとめくれる。
「主客転倒」――そう書かれた、奇妙なカードだった。
そのときだった。
教室のうしろにある、ずっと前から枯れ果てて、誰も世話していなかった植木鉢。
カラカラに茶色く干からびていた、その死んだはずの茎から。
ぶわっ、と。
白い小さな花が、一斉に、狂ったように咲き乱れた。
私が、何も、しようとしていないのに。
「……っ!」
慌てて自分の右手を引っこめても、花は次から次へと咲き続けていく。私の足元の床のコンクリートの隙間からも、瑞々しい小さな雑草が、ちろりと顔を出していた。
うさぎのときは、撫でて、必死に願って、やっと光った。
なのに、今は。私の感情が高ぶっただけで、私の中から、何かが勝手に外へ漏れ出している。
こわかった。
私は誰かに見られる前に、急いで鉢植えの前に立って、自分の体でそれを必死に隠した。
翌日から、莉子は、おかしくなった――いや、莉子は、外見も行動も何も変わっていなかった。
莉子は、いつも通り、誰かを“なし”にしようと、教室の真ん中で偉そうに号令をかけた。
「ねえみんな、七海ってさー」
だけど、誰も、聞いていなかった。
クラスのみんなの目に、莉子は――ただひとりで、誰もいない虚空に向かって、必死にえらそうに叫んでいる、哀れなピエロにしか見えなくなっていた。岸本先生も同じだった。教壇から莉子を見ても、誰も注意すらしない。ただ、生暖かい目で、可哀想なものを見るように見守られるだけ。
莉子の言葉が、完全に空回りする。
スクールカーストの頂点は、突然、ただの「ひとりで騒いでる変な人」になった。
誰かを“なし”にする力。
それを支えていたのは、莉子の魅力なんかじゃなくて、「莉子に逆らうと怖い」っていう、周囲の“怯え(認識)”だったのだ。
その認識が、カードによって綺麗に裏返った。
いじめの構造そのものが、さらさらと、乾いた砂みたいに音もなく崩れていった。
その日の放課後。
私は、初めて、自分の意志で七海に話しかけた。
カードの力なんて使わない。ただ、中1の私の、精一杯の勇気。
「あのさ。……一緒に帰らない?」
七海は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で、私を見た。
それから、顔をぐしゃぐしゃにして、泣きそうに笑った。
「……いいの?」
「うん。今まで、ずっと見ないふりしてて、ごめん」
並んで歩く帰り道は、ちょっと、ぎこちなかった。
だけど、夕方の風が、すごく気持ちよかった。
カードで世界を歪めるんじゃない。ただ、私が、自分の足で、友達の隣に並んだ。
それだけのことが、今の私には、なんだか、世界を救うことよりもずっと大事な気がした。
『あれは、よくない兆候だ』
家に帰ると、ククがベッドの上で、まだ少し疲れた様子でぼそっと言った。
『心がねじ曲がった奴のストレスは、おれの“絵”さえバグらせる。あの女一人だけで、五枚も裏返った。人間、業が深すぎる』
ククは、ビー玉のような目で、私の右手をじっと見つめた。
『……お前も、漏れ始めたな。もう、カードを選んでいないのに、勝手に出てる。早いな。前の人間(トカゲ男)より、ずっと早い』
「……これ、止められないの? 私、人間のままでいたいよ」
『知らん』
いつもの、そっけない返事。
だけど、その「知らん」という響きが、今日は、少しだけ優しくて、だからこそ、余計にこわかった。
私は、七海と笑いながら歩いた帰り道を、必死に思い出した。
あの時間だけは、私は、ちゃんと、ただの不器用な人間だった気がする。
枯れた鉢から、勝手に花を咲かせる、この右手の温度のことは。
いまはまだ、考えたくなかった。
――その夜も、窓の外の星の並びは、ほんの少しだけ、定規でずらしたみたいに歪んでいた。




