山の声
雨が、三日、降り続いていた。
ゲリラ豪雨、というやつだ。バケツをひっくり返すどころじゃない。空が、まるごと重力で落ちてくるみたいな、凄まじい雨だった。
私たちの町の後ろには、低い山がある。
昔は緑でみっしり覆われていたらしいけれど、私が生まれるずっと前から少しずつ削られて、宅地になって、道路になって、いまは半分コンクリートとむき出しの赤土肌になっている。
その山が、雨を、もう吸えなくなっていた。
夕方、不気味なサイレンとともに町内放送が避難をうながしていた。
お母さんが非常用の袋を玄関に出してくる。お父さんは近所の春川さんちや、そうたの家に声をかけに雨の中を走っていた。スマホには、結から「こわいね」ってメッセージが来ていた。
私の知ってる町。
鬼頭さんも、蓮兄ちゃんも、みつ婆ちゃんの店も、そうたの青いライオンも、七海と歩いたあの帰り道も、ぜんぶ、この町にある。
その町が、山に、飲み込まれようとしていた。
「……来る」
カバンの中に押し込んでいたククが、ぽつりと言った。
その直後だった。
ずぞぞぞぞ、と、地の底から聞いたことのない重低音が響いた。
山の斜面が、雨を含んでぶよぶよに膨らんだ赤土が、ずるり、と動き出す。
木が、家が、ガードレールが、濁流に巻き込まれて、ゆっくりと、だけど確実に、坂の下の――私たちの町の方へ、滑り落ちてくる。
土砂崩れだ。
「うそ……っ」
怒りじゃなかった。今度は、ただ、ただこわかった。
誰のせいでもない。憎むべき悪党もいない。ただ、町が消える。みんなが、死ぬ。
ぽこっ、と、カバンの中でククの花が咲いた。
『ウプッ』
でも――飛び出してきたのは、たった、二枚のカードだった。
「……二枚?」
いつもなら、三枚も、五枚も、七枚も出るのに。
今日は、重たい二枚だけが、雨の中にぽつんと浮いていた。
『これは、人間の怒りじゃない』
ククの声が、かつてないほど緊張していた。
『心がない。徳も、エゴも、迷いもない。純粋な質量だ。だから、因果の絵が、両極端に振り切れる。……選べ。二つだけだ』
一枚目のカードが裏返る。何も描かれていない、まっ白な「無」の絵。
『【無】。山も、雨も、町も、ぜんぶ最初から無かったことにする。きれいに、消える。システムとしては、いちばん楽だ』
二枚目。ただの巨大な「盾」の絵。
『【盾】。受け止める。それだけだ。誰も消えん。……ただ、おれが、すげえ疲れる』
迷う時間なんて、一秒もなかった。
迷う必要なんて、最初からなかった。
「盾! 盾に決まってるでしょ!!」
私は、雨の中に手を伸ばし、二枚目のカードをばっと掴んだ。
ククの頭の、三枚のアロエみたいな葉っぱが、ぶわっと、異常な勢いで膨らんだ。
ぐんぐん、ぐんぐん。
傘くらいに。家くらいに。そして――山そのものくらいに。
巨大な、三枚の肉厚な緑の壁が、町と山のあいだに、立ちはだかった。
滑り落ちてきた何千トンもの土砂が、その緑の壁に、真っ正面から激突する。
ずどぉぉぉぉん――!!
凄まじい地響きと、視界を埋め尽くす泥しぶき。
だけど、緑の葉は、びくともしなかった。圧倒的な土砂の質量を、まるごと、その身で受け止めて。
そして、ぐいん、と、しなって。
町じゃない方向――誰も住んでいない、川向こうの荒れ地へ、土砂を、ぜんぶ、そっと流し込んだ。
世界には、激しい雨の音だけが残った。
私たちの町は、無事だった。
そのときだった。
泥だらけになった山の斜面から、私の足元を通じて、低い、低い地鳴りのような声が伝わってきた。
耳で聞いたんじゃない。地面から、私の身体に直接。
『……いたい』
『けずらないで』
『つかれた』
それは、怒りの声じゃなかった。
削られて、削られて、もう立っていられないくらい疲れ果てた――山そのものの、泣き声だった。
「……山が、しゃべってる」
私が呆然と呟くと、ククが、ぎょっとしたようにビー玉の目をこちらに向けた。
『……お前、聞こえるのか。これが』
「……うん。聞こえるよ。なんで?」
『おれにしか、聞こえないはずなんだが。……お前、もうそこまで』
ククはそれきり、何か恐ろしいことでも考え込むように、黙り込んでしまった。
雨は、その夜のうちに綺麗にやんだ。
翌朝、町には何ごともなかったみたいに、まぶしい朝日が差していた。
結も、家族も、そうたも、七海も、みんな無事だった。みんな口々に「本当に危なかったね」「土砂崩れ、すんでのところで奇跡的に止まったらしいよ」と、噂しあっていた。
誰も、本当のことなんて知らない。
私の部屋では、ククが、ぐったりと土気色になってベッドの上で伸びていた。
いつもより、ふた回りもしぼんで見える。
『……これ、雨の怒りじゃなかった』
ククは、かすれた、今にも消えそうな声で言った。
『山だ。山そのものが、ずっと怒ってたんだ。何十年も、人間に勝手に削られて。……その、でかい怒りを、お前が無理やり止めた。だから、こんなに疲れた』
「……クク、大丈夫なの?」
『山、一つだけで、これだ』
ククは、私の問いには答えず、天井をぼうっと見上げた。
『もし、もっとでかいのが――山も、海も、空も、ぜんぶまとめて、いっぺんに怒ったら……』
そこで、言葉を切った。
その続きを、ククは言わなかった。言いたくないみたいだった。
窓の外の空は、もう、昼間でも誰が見ても分かるくらい、色がどす黒く濁っていた。
星の出る夜には、きっと、もっと、ずれているんだろう。
私は、まだ耳の奥にこびりついて離れない、あの山の泣き声を思い出していた。
いたい。けずらないで。つかれた。
――あれが、もっと大きくなったら。世界はどうなっちゃうんだろう。
私は、なんとなく、自分の右手をまじまじと見た。
泥で汚れたその右手の、人差し指の付け根から。
いつのまにか、小さな緑の芽が、一つ、ちょこんと、皮膚を突き破って生えていた。
痛みは、まったく、なかった。




