表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
10/10

山の声

雨が、三日、降り続いていた。


ゲリラ豪雨、というやつだ。バケツをひっくり返すどころじゃない。空が、まるごと重力で落ちてくるみたいな、凄まじい雨だった。


私たちの町の後ろには、低い山がある。

昔は緑でみっしり覆われていたらしいけれど、私が生まれるずっと前から少しずつ削られて、宅地になって、道路になって、いまは半分コンクリートとむき出しの赤土肌になっている。


その山が、雨を、もう吸えなくなっていた。


夕方、不気味なサイレンとともに町内放送が避難をうながしていた。

お母さんが非常用の袋を玄関に出してくる。お父さんは近所の春川さんちや、そうたの家に声をかけに雨の中を走っていた。スマホには、ゆいから「こわいね」ってメッセージが来ていた。


私の知ってる町。

鬼頭さんも、蓮兄ちゃんも、みつ婆ちゃんの店も、そうたの青いライオンも、七海と歩いたあの帰り道も、ぜんぶ、この町にある。


その町が、山に、飲み込まれようとしていた。


「……来る」


カバンの中に押し込んでいたククが、ぽつりと言った。


その直後だった。

ずぞぞぞぞ、と、地の底から聞いたことのない重低音が響いた。


山の斜面が、雨を含んでぶよぶよに膨らんだ赤土が、ずるり、と動き出す。

木が、家が、ガードレールが、濁流に巻き込まれて、ゆっくりと、だけど確実に、坂の下の――私たちの町の方へ、滑り落ちてくる。


土砂崩れだ。


「うそ……っ」


怒りじゃなかった。今度は、ただ、ただこわかった。

誰のせいでもない。憎むべき悪党もいない。ただ、町が消える。みんなが、死ぬ。


ぽこっ、と、カバンの中でククの花が咲いた。


『ウプッ』


でも――飛び出してきたのは、たった、二枚のカードだった。


「……二枚?」


いつもなら、三枚も、五枚も、七枚も出るのに。

今日は、重たい二枚だけが、雨の中にぽつんと浮いていた。


『これは、人間の怒りじゃない』


ククの声が、かつてないほど緊張していた。


『心がない。徳も、エゴも、迷いもない。純粋な質量だ。だから、因果の絵が、両極端に振り切れる。……選べ。二つだけだ』


一枚目のカードが裏返る。何も描かれていない、まっ白な「無」の絵。

『【無】。山も、雨も、町も、ぜんぶ最初から無かったことにする。きれいに、消える。システムとしては、いちばん楽だ』


二枚目。ただの巨大な「盾」の絵。

『【盾】。受け止める。それだけだ。誰も消えん。……ただ、おれが、すげえ疲れる』


迷う時間なんて、一秒もなかった。

迷う必要なんて、最初からなかった。


「盾! 盾に決まってるでしょ!!」


私は、雨の中に手を伸ばし、二枚目のカードをばっと掴んだ。


ククの頭の、三枚のアロエみたいな葉っぱが、ぶわっと、異常な勢いで膨らんだ。


ぐんぐん、ぐんぐん。

傘くらいに。家くらいに。そして――山そのものくらいに。


巨大な、三枚の肉厚な緑の壁が、町と山のあいだに、立ちはだかった。


滑り落ちてきた何千トンもの土砂が、その緑の壁に、真っ正面から激突する。


ずどぉぉぉぉん――!!


凄まじい地響きと、視界を埋め尽くす泥しぶき。

だけど、緑の葉は、びくともしなかった。圧倒的な土砂の質量を、まるごと、その身で受け止めて。


そして、ぐいん、と、しなって。

町じゃない方向――誰も住んでいない、川向こうの荒れ地へ、土砂を、ぜんぶ、そっと流し込んだ。


世界には、激しい雨の音だけが残った。

私たちの町は、無事だった。


そのときだった。


泥だらけになった山の斜面から、私の足元を通じて、低い、低い地鳴りのような声が伝わってきた。

耳で聞いたんじゃない。地面から、私の身体に直接。


『……いたい』

『けずらないで』

『つかれた』


それは、怒りの声じゃなかった。

削られて、削られて、もう立っていられないくらい疲れ果てた――山そのものの、泣き声だった。


「……山が、しゃべってる」


私が呆然と呟くと、ククが、ぎょっとしたようにビー玉の目をこちらに向けた。


『……お前、聞こえるのか。これが』


「……うん。聞こえるよ。なんで?」


『おれにしか、聞こえないはずなんだが。……お前、もうそこまで』


ククはそれきり、何か恐ろしいことでも考え込むように、黙り込んでしまった。


雨は、その夜のうちに綺麗にやんだ。


翌朝、町には何ごともなかったみたいに、まぶしい朝日が差していた。

結も、家族も、そうたも、七海も、みんな無事だった。みんな口々に「本当に危なかったね」「土砂崩れ、すんでのところで奇跡的に止まったらしいよ」と、噂しあっていた。

誰も、本当のことなんて知らない。


私の部屋では、ククが、ぐったりと土気色になってベッドの上で伸びていた。

いつもより、ふた回りもしぼんで見える。


『……これ、雨の怒りじゃなかった』


ククは、かすれた、今にも消えそうな声で言った。


『山だ。山そのものが、ずっと怒ってたんだ。何十年も、人間に勝手に削られて。……その、でかい怒りを、お前が無理やり止めた。だから、こんなに疲れた』


「……クク、大丈夫なの?」


『山、一つだけで、これだ』


ククは、私の問いには答えず、天井をぼうっと見上げた。


『もし、もっとでかいのが――山も、海も、空も、ぜんぶまとめて、いっぺんに怒ったら……』


そこで、言葉を切った。

その続きを、ククは言わなかった。言いたくないみたいだった。


窓の外の空は、もう、昼間でも誰が見ても分かるくらい、色がどす黒く濁っていた。

星の出る夜には、きっと、もっと、ずれているんだろう。


私は、まだ耳の奥にこびりついて離れない、あの山の泣き声を思い出していた。

いたい。けずらないで。つかれた。


――あれが、もっと大きくなったら。世界はどうなっちゃうんだろう。


私は、なんとなく、自分の右手をまじまじと見た。


泥で汚れたその右手の、人差し指の付け根から。

いつのまにか、小さな緑の芽が、一つ、ちょこんと、皮膚を突き破って生えていた。


痛みは、まったく、なかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ