裁判官
その日、お父さんは、笑わなかった。
いつもなら玄関を開けるなり「ただいま〜! お、今日はカレーか! 真昼、お父さんのルーは特盛な!」とか、しょうもないことを言う人だ。居候のククに自分の豆腐を分けてやって、にこにこしていた人だ。
そのお父さんが、灰色の顔で帰ってきて、何も言わずにダイニングの椅子に座った。
夕飯にも、ほとんど手をつけない。
ただ、テーブルの上のククに、自分の豆腐の小皿を、ずず、と滑らせた。
いつもの癖で。何も考えずに。その手つきが、あまりにも空っぽで、見ていられなかった。
夜、私はトイレに起きて、リビングから漏れる両親の声を、廊下の闇の中で聞いてしまった。
「……だから、もういいんだ。俺が黙って頭を下げてれば、丸く収まるんだから」
「でも、あなた。あの擁壁、手抜きなんでしょう? 子どもたちが毎日通る通学路の坂の……」
お父さんは、市役所の土木課で働いている。
私や結が毎日通る、あの坂の下の擁壁工事。あれが、ひどい手抜きだったらしい。砂川っていう市議会議員と、地元の丸越建設の社長が裏で繋がっていて、まともな材料を使わずに、工事費だけを山分けしていた。
お父さんはそれに気づいて、内部報告した。正しいことをした。
そうしたら――上から潰された。
「余計なことをするな」と圧力をかけられ、逆に閑職へ飛ばされそうになっている。報告書は、最初からなかったことにされた。
「正しいことをした人間が、馬鹿を見るんだよ。この国は」
お父さんの、力のない声。
あの、しょうもない冗談ばっかり言う人の口から、そんな絶望したような声が出るなんて、知らなかった。
私の胸の奥が、ぐらぐらと、黒く煮えたぎった。
それは、鬼頭さんのときの「ムカつく」とも、転売ヤーのときの「ふざけんな」とも、違った。もっと、底の見えない、冷たい怒り。
世の中そのものに対する、拒絶みたいな感覚だった。
(――許せない。お父さんをこんな目に遭わせた奴ら、全員消えちゃえばいいのに)
ぽこっ、と、足元で音がした。
ククの花が咲いた。だけど、今日はいつもと違った。
『ウプッ』
カードが飛び出してくる。一枚、二枚、三枚……四、五、六――七枚。
「……七枚」
鬼頭さんのときは三枚。蓮兄ちゃんのときは五枚。
今日は、七枚も、空中に並んでいる。
『……う』
ククが、妙な声を漏らした。カードを吐くいつものマヌケな音じゃない。本物の、気持ち悪そうな呻き声。
見ると、ククの丸い体が、心なしか土気色に変色していた。
『う……ぷ。なんだ、これ。胸が、焼ける』
「クク……? 大丈夫?」
『一人の怒りじゃない。お前の親父を潰した、その『仕組み』そのものが……腐ってる。根っこから。カードを生成するだけで、システムが胸焼けを起こす』
七枚のカードが、重たそうに、ずしりと宙に並ぶ。
裏返っていく絵柄は、どれも恐ろしいものばかりだった。
【崩壊】。市役所のビルごと、重力で押し潰す。
【沼】。悪党二人を、底なしの泥沼へ沈める。
【虫】。全身を、這い回る虫に変える。
【灰】。跡形もなく燃やし尽くす。
いつもなら、私はここで「却下!」ってツッコむ。でも、今日は声が出なかった。
正直、一瞬だけ思った。このカードのどれかで、あの議員と社長を、この世界から綺麗に消去してしまいたい、と。
だけど、七枚目のカードが、静かに裏返った。
木槌を持った、顔のない「裁判官」の絵。
『【裁判官】。これがいちばん、まともだ。誰も殺さん。ただ――嘘がつけなくなる』
「……それ。裁判官にする」
私が七枚目に手を伸ばし、指先で触れた。
そのときだった。
いつもなら、ふわっと、体温みたいにあたたかく光るはずの私の手のひらが。
光らなかった。
代わりに、指先に、つめたい、金属の針で刺されたような感触が、すっと走った。
(……今までと、違う)
うさぎを癒やしたときの、あのやわらかい光じゃない。
これは、なんだろう。優しさじゃない。
正しさ。
でも、優しさなんかじゃ、絶対にない。
私は、そのつめたさの意味が分からないまま、制服のポケットの中でぎゅっと手を握りしめた。
翌日から、砂川議員と建設会社の社長は、おかしくなった。
テレビカメラの前での記者会見。「私は潔白です」と言おうとした瞬間――ガアン、と、彼らの頭の中でだけ木槌の音が響く。
「私は今、丸越建設から、三千万円の賄賂を確かに受け取りました!」
自分の口が、勝手に、真実を大声で絶叫するのだ。
裏帳簿を隠そうとすれば、ガアン。
「これは、市民の税金を横流しした、決定的証拠のデータです!」
嘘をつくたび、悪事を働くたび、見えない木槌が鳴り響き、本人の意志に関係なく、罪状を暴露させられる。
二人は一週間ともたずに、芋づる式に逮捕された。
手抜きだった通学路の擁壁は、すべて国費で作り直しになった。
お父さんの報告書は日の目を見ることになり、お父さんの名誉も、立場も、完全に守られた。
「いやー、まいったまいった! 悪事は栄えずってやつだな!」
数日後の夕飯。
お父さんは、特盛のカレーを豪快にかきこみながら、また、いつものしょうもない冗談を言っていた。ククに、自分の豆腐の小皿を、ずず、と滑らせて。
その、いつも通りの呑気な背中を見て、私は心底ほっとした。
でも。
『……すっきりしないだろ』
夜、自分の部屋に戻ると、ククがまだ少し土気色のまま、ベッドの上でぼそっと言った。
『あの議員と社長は、捕まった。でも、あの二人を生み出した人間の仕組みは、何も変わってない。すぐに、次の新しいのが湧く。同じ場所から』
「……うん」
それは、本当だった。
正しいことをした人が潰される世の中の仕組みは、悪人が二人捕まったくらいじゃ、ちっとも変わらない。
『人間の社会ってのは、根っこが腐った大木だ。実を一個もいでも、また次の腐った実がなるだけだ』
ククは、つらそうに胸のあたりを短い足でさすった。
『……あれを出すと、胸焼けがする。おれ、あんまり出したくない』
ふと、窓の外を見た。
夜の空が、なんだか、変だった。
星の並びが、ほんの少しだけ、定規でずらしたみたいに歪んでいるような。
夜闇の色が、ほんの少しだけ、どす黒く濁っているような。
気のせい、かもしれない。
私は、あのつめたい金属の感触が残る右手を、もう一度、開いてみた。
やっぱり、光らない。
正しいことを選んだのに。
お父さんを救ったのに。
なんで、あたたかく、ならないんだろう。




