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手のひら

その日は、誰も怒っていなかった。


空は雲ひとつなく晴れていて、世界は平和で、ククは――死ぬほど退屈していた。


『つまらん』


リビングのソファの上で、ククはぐでっと伸びていた。

さっきから、ローテーブルの上のテレビのリモコンを、短い足で挟んでは離し、挟んでは離している。食べたいけれど食べたら私に激怒される、ということだけは学習したらしい。


『誰も怒らん。カードが出ん。腹も減らん』


「平和でいいことじゃん。毎日怒鳴り合いが起きてたら、この街ノイローゼになるよ」


『退屈は、飢えに似てる』


知らんがな、と思いながら、私はノートに歴史の年号を書き写した。

気づけば、ククと暮らして一ヶ月。あんなに怯えていたのに、この不条理な生き物がリビングの定位置に転がっている風景に、ちょっと慣れてしまっている自分が、いまはいちばん怖かった。


異変に気づいたのは、その翌日のこと。

放課後、学校のうさぎ小屋の前だった。


飼育委員のゆいが、金網の前でしゃがみこんで、暗い顔をしていた。


「結、どうしたの?」


「ミミがね……ごはん、全然食べないの」


ミミは、この小屋でいちばん年寄りの白いおばあちゃんうさぎだ。

金網の隅、冷たいコンクリートの上で体を小さく丸めて、目を半分つぶっている。撫でようと近づいても、耳をぴくりとも動かさない。それくらい、弱り切っていた。


誰のせいでもない。誰の悪意でも、理不尽でもない。

ただ、生き物が年を取って、寿命で弱っていく。それだけの、静かで、逆らいようのない出来事。


「……ミミ」


私は金網の隙間から手を入れて、その丸い背中に、そっと触れた。

あったかかった。だけど、ごつごつした骨の感触が、薄い毛皮ごしにダイレクトに伝わってくる。


(がんばれ)


思ったのは、ただそれだけだ。

生きて、と思った。ただの、中1の祈り。


その瞬間だった。


手のひらが、じわっと、熱くなった。

見ると、私の右手が――皮膚の奥から、うっすらと光を放っていた。

夕方の、最後のひとすじの西光みたいな、やわらかくて、どこか神秘的なオレンジ色。


「えっ……?」


ミミの、半分つぶれていた目が、ぱちりと開いた。

丸まっていた体が、もぞもぞとほどける。鼻を激しくひくひくさせて、ぴょん、と勢いよく立ち上がると、目の前に置いてあったキャベツの葉に、シャキシャキと猛烈な勢いでかじりつき始めた。


「……ミミ!? 食べた! 歩いてる!」


結が、ぱあっと顔を輝かせて立ち上がる。

「真昼ちゃん、なんかすごい! 撫でたら一瞬で元気になった!」


「……あ、う、うん。たまたま、寿命が延びたのかな」


私は、光が消えていく自分の右手を、引きつった笑みのまま制服のスカートの後ろに隠した。

心臓が、嫌な速さで、ドクドクと鳴り響いていた。


家に帰るなり、私はリビングのソファにいたククを両手で掴み上げた。


「ねえ。さっき、何かした?」


『何が』


「学校のうさぎ! 私の手、光ったの! 触ったら元気になった!」


ククは、ビー玉のような真っ黒な目で、私の右手をじっと見つめた。

それから、心底どうでもよさそうに、頭の中に声を落としてきた。


『おれは、何もしてない』


「じゃあなんでよ!」


『それ、お前だ』


頭の中に、冷たい氷水を一滴、直接垂らされたような感覚。


『お前、たくさん選んだろ。カード』


「……選んだよ。でも、それとこれと何の関係が――」


『選ぶたびに、記録される。お前がどういう条件で、どれを選んだか。その履歴が、使った本人に返る』


ククは、ローテーブルの上で消しゴムを足に挟みながら、淡々と続けた。


『お前は、穏やかなやつばっかり選んだ。炎も龍も棺桶も拒絶して、花や金や犬ばかり選んだ。だから、お前の魂の型も、そっち側に寄ってきた。おれたちみたいに』


「そっち側って、なに……」


『さあ。神とか、精霊とか。人間が勝手に名札をつけて呼んでるやつだ』


軽い。

あまりにも、普通の世間話みたいな口調だった。ククは平然と、私の世界をひっくり返す爆弾を落とす。


『前の人間は、トカゲ男になった』


「……え?」


『火ばっかり選んでた。毎日毎日、ムカつく奴を灰にしてた。最後には全身の水分がなくなって、トカゲの姿になって砂漠に消えた。望み、叶ったな』


「叶ってない! ぜんぜん叶ってないでしょそれ!」


私は思わず叫んでいた。叫んでから、自分の両手を見た。

さっき、死にかけたうさぎを生き返らせた手。やわらかく光った手。

これが、私が「マシな選択」をし続けた結果だというの?


「……元に、戻りたい。私、普通の人間でいたい」


『困ったな』


ククは、ぽてっとベッドの上に寝そべった。


『おれにも、戻し方は分からん。まあ、大丈夫だ』


「分からないのに大丈夫って言わないでよ!」


『う〜ん』


唸るだけで、ククはそれきり黙ってしまった。


私は、窓辺に置いてあった、しおれかけたお母さんの観葉植物に、こわごわと右手をかざしてみた。


じわ、と手が光る。

茶色く枯れかけていた葉っぱが、みるみるうちに鮮やかな緑色に変わり、しゃん、と上を向いた。


「……うそでしょ」


『便利だな』


「便利で済ます話じゃないっ!!」


ククは、何が面白いのか分からない顔で、私をじっと見ていた。


私は、まだ微かに熱い手のひらを、ぼんやりと見つめた。

これから先、私は何枚のカードを選ぶんだろう。

そのたびに、私は、私じゃなくなっていくんだろうか。

誰も傷つけない、優しい選択を重ねるほど、人間から、遠ざかっていく。


――それって、正しいことなの? それとも、悪いことなの?


『真昼』


「なに」


『次から、ちゃんと選べよ』


その一言だけは、なぜか、いつもの冷たい声じゃなかった気がした。

気のせいかもしれない。

たぶん、ただの気のせいだ。


私は、まだひそかに熱を持っている手のひらを、破裂しそうなほど、ぎゅっと握りしめた。

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