骨っこ
みつ婆ちゃんが旅立った。
近所の角で、つぶれかけの駄菓子屋をやっていたお婆ちゃんだ。十円のうまい棒を買うと、たいてい「おまけ」って言って、ふがし一本をこっそり袋に入れてくれた。レジの横の古びたパイプ椅子にいつも座っていて、通りすぎる小学生みんなに声をかける、そういうお婆ちゃんだった。
私も、結も、あの駄菓子屋で育ったようなものだった。
結はみつ婆ちゃんの孫で、私のクラスメイトで、いちばん仲のいい友達だ。お婆ちゃんの足が悪くなってからは、放課後によく店番を手伝っていた。
そのみつ婆ちゃんが、眠るように逝ってしまった。
お通夜の日、私は結に呼ばれて、みつ婆ちゃんの家に行った。
ククを、こっそりスクールバッグに入れて。
家に入った瞬間、空気が、おかしかった。
線香の匂いの奥で、見たこともない大人たちが、わいわいと騒いでいた。
喪服を着てはいるけれど、誰も泣いていない。それどころか――
「だからァ、この土地の権利は長男の俺にあるんだよ」
「は? 介護も葬式代も一円も出してないあんたが何言ってんの?」
「通帳どこ! 権利書! ねえ誰か見てないの!?」
押し入れを開け、簞笥を引っかき回し、みつ婆ちゃんの遺品を畳の上にぶちまけている。その中から「お金になるもの」を探しているのだ。
結から、前に聞いたことがあった。
この親戚たちは、みつ婆ちゃんが生きている間、一度も顔を見せなかった人たちだって。店が傾いても、入院しても、誰も来なかった。
なのに、死んだ途端、土地の値段の話だけ嗅ぎつけて、こうしてハイエナみたいに集まってきた。
部屋の隅で、結が、ぎゅっと唇を噛んでいた。
膝の上で、こぶしが小刻みに震えている。みつ婆ちゃんの形見の、古い木の針箱を、抱えるように持って。
その針箱に、酔っぱらった親戚の一人が手を伸ばした。
「おっ、それ骨董品っぽくて高そうじゃん。貸してみ」
「……っ、やだ!」
「ガキが生意気言うな!」
ぐい、と乱暴に腕を引っぱられて、結の手から針箱が落ちた。
畳に転がる。中の、古いボタンや色とりどりの糸巻きが、ばらばらと散らばった。
結の目から、涙が、ぼろっと落ちた。
悔しくて、悲しくて、でも声も出せない、そういう涙だった。
私の中で、なにかが、ぶちっと切れた。
(……最低だ。こいつら、本当に人間なの?)
その瞬間。
バッグの中で、ぽこっ、と音がした。
ククの頭の花が、咲いた音だ。
『ウプッ』
ファスナーの隙間から、シュルシュルと、三枚のカードがすべり出てきた。
他の大人には見えていないらしい。私と――なぜか、涙を流す結の目にだけ、それは映っていた。
『今日は、よく滑るな』
ククの声が、脳内に響く。いつもより少しだけ、面白がっているように聞こえた。
『死んだ婆さんが、裏でめちゃくちゃ怒ってる。怒りの圧が高い。だからカードがよく出る。選べ』
一枚目のカードが裏返る。黒い「棺桶」の絵。
『【棺桶】。ここにいる薄情者を、全員まとめて埋める。地中深く。二度と出てこられん』
(……あ、いいかも。こいつら全員、真っ暗な土の中に埋まっちゃえばいいんだ)
一瞬だけ、本当に一瞬だけ、私の胸の奥にどす黒い快感が走った。自分の醜さにゾッとする。ダメだ、そんなことしちゃダメだ。
「重すぎ! あと普通に犯罪だからダメ!」
二枚目。渦巻く「突風」。
『【突風】。家ごと、こいつらを空のかなたへ吹き飛ばす。どこに着地するかは、知らん』
「知らんで飛ばさないで!」
三枚目。ぽてっとした、間の抜けた「犬」の絵。
『【犬】。これがいちばん軽い。命は誰も奪わん』
ククが、淡々と続ける。
『本当なら、この薄情者どもには徳がないから、軽いカードは出にくい。だが、孫娘の悲しみと、死んだ婆さんの「殺してほしいわけじゃない」って気持ちが混ざった。だから【犬】が滑り込んだ』
殺してほしいわけじゃない。
ばら撒かれたボタンを見て、私はなんだか泣きそうになった。みつ婆ちゃんは、死んでなお、この最低な親戚たちを殺したいなんて思っていないのだ。
「……犬。犬にする」
私が三枚目に手を伸ばすと、カードは霧みたいに溶けて消えた。
そのとき、ちょうど。
「あったぞォ! 通帳と権利書!」
押し入れの奥から、太った親戚が茶封筒を引っぱり出した。
その瞬間、部屋中の大人たちが、いっせいにそれに飛びついた。
「貸せ!」「私のよ!」「離せって!」
見苦しい封筒の取り合いになって――
ぽふん。
茶封筒が、宙で、消えた。
代わりに、彼らの手の中に握られていたのは。
骨っこだった。
犬のおもちゃの、白いゴムの骨。
「……は?」
ぽこっ。ぽこっ。ぽこっ。
親戚たちの頭のてっぺんから、茶色い犬の耳が、生えた。
お尻からは、ふさっとした、しっぽ。
「な、なんだこれっ、おいっ……ウゥ……ウゥゥ……」
太った親戚が、なぜか骨っこを握りしめたまま、四つん這いになった。低く、唸りはじめる。
「ガルルルッ! ワン! ワンワン!」
「ウー! それはオレのだぞ! ワン!」
「キャンキャン! よこせ! ワンッ!」
喪服の大人たちが、畳の上で、本気で骨っこを奪い合っている。
噛みつき、転がり、唸り、しっぽを振り――どう見ても、ただの犬だった。
線香の煙の中、十人ぐらいの大人たちが四つん這いで「ワンワン」やっている光景は、もう、地獄みたいに間抜けだった。
私と結は、口をぽかんと開けてそれを見ていた。
結の涙が、ひっこんでいた。
やがて、はっと我に返った親戚たちは、自分が骨っこを抱えて四つん這いになっていることに気づいて、顔を真っ赤にした。
「な……なんだこれ、なんなんだ!」
「気持ち悪い! もう帰る! こんな家、知るか!」
骨っこを放り投げて、転がるように逃げていった。
誰も、もう、土地のことも通帳のことも言わなかった。
しん、と静まった部屋に、私と結だけが残された。
「……みつ婆ちゃんの土地、結のとこに残るって」
数日後、学校の帰り道。
結が、ぽつりと言った。ちゃんと手続きしたら、ほかの親戚は恐怖のあまり誰も名乗り出てこなかったらしい。当たり前だ。
「結が、いちばんそばにいたんだもん。当然だよ」
「……うん」
結は、すこし笑って、それからカバンから何かを取り出した。
うまい棒と、ふがし。みつ婆ちゃんの店の、売れ残りの在庫だった。
「はい。おまけ」
みつ婆ちゃんの真似をして、結が言う。
私は、ふがしを受け取った。受け取って、二人で、ちょっとだけ泣いて、笑った。
『あの婆さん』
家に帰って、私がカバンを開けると、ククが伸びをしながら言った。
『死んでるのに、ちゃんと怒ってた。生きてる人間より、いい怒り方だった』
「いい怒り方ってなに」
『欲のためじゃなくて、孫のために怒ってた。ああいうのは、カードがよく滑る』
ククは、ビー玉の目で天井のあたりをぼんやり見た。
『……最近、生きてる奴以外の怒りも、拾えるようになってきた。死んだ奴とか。猫とか。あと、土とか』
「土?」
『知らん。なんとなくだ』
ぽてっとベッドの上に寝そべって、ククはそれきり黙ってしまった。
私は、ふがしの最後のかけらを口に入れた。
甘くて、ちょっとだけ、しょっぱかった。
みつ婆ちゃん。あなたの店で育った子は、ちゃんと、あなたのこと忘れないよ。
――それにしても。土が怒るって、なんだろう。
その小さな引っかかりを、私はまだ、本気にしていなかった。




