五枚のカード
夕方の六時。
まだ空はオレンジ色なのに、となりの春川さんちの蓮兄ちゃんが、よれよれのスーツで坂をのぼってきた。
肩が、なかった。
正確には肩はあるんだけど、首も背中もぜんぶしぼんで、そういう風に見えた。ネクタイは片手にぶら下げて、地面に引きずるみたいに歩いている。前髪の隙間から見える目が、魚屋の発泡スチロールに並んでる魚みたいに、つるっと光を失っていた。
昔は、こんなんじゃなかった。
私の自転車の補助輪を外してくれたのも、夏にコンビニのアイスを二本買って一本くれたのも、蓮兄ちゃんだった。「真昼ちゃんは将来モテるぞ〜」とか適当なことを言って、私の頭をぐしゃぐしゃに撫でてくる、近所でいちばん優しいお兄ちゃん。
それが、就職してからたった一年で、こうなった。
「……蓮兄ちゃん、おかえり」
声をかけると、兄ちゃんは一拍おくれて私を見た。
焦点が合うまでに、たっぷり二秒。
「……あ。真昼ちゃん。ただいま」
笑った。笑おうとしてうまく筋肉が動かなくて、それでも無理に笑った。
その不器用な笑顔を見たら、胸の奥が、ぎゅうっと絞られた。
部長のパワハラがどうとか。月の残業が三桁とか。まともに寝てないとか。前にお母さんが、春川さんちの奥さんから聞いた話の断片が、頭の中でちらちらした。
ムカついた。
蓮兄ちゃんじゃなくて、蓮兄ちゃんをこんなにした“どこか”に。顔も知らない部長とか、会社とかいう四角い箱に。
その瞬間だった。
足元で、ククの頭の葉っぱが、ポコッと膨らんだ。
三枚の肉厚な葉の真ん中から、あのどす黒い紫の花が、ぬるりと開く。
「うわ、ちょっ……今っ?」
『ウプッ』
猫が毛玉を吐くようなマヌケな音。
そして、ククの平らな顔から、シュルシュルとカードが飛び出してきた。
一枚、二枚、三枚……四枚、五枚。
「……五枚」
鬼頭さんのときは、三枚だった。
なんで今日は、五枚なんだろう。
そんな疑問を抱く間もなく、五枚のカードが私と兄ちゃんの目の前に、扇みたいに広がって浮かんだ。
『左から説明する』
ククの冷たい声が、脳に落ちてくる。
一枚目が裏返る。ごつごつした「岩」の絵。
『【岩】。あの会社のビルを、上から岩で潰す。圧死。更地になるから、修繕費もかからん』
「合理性の方向が変っ!」
二枚目。青い「氷」。
『【氷】。社内の人間を全員、氷漬けにする。春になれば溶ける。命は奪わん。良心的だ』
「氷漬けを良心的って言うな!」
三枚目。光る「剣」。
『【剣】。お前の言う『部長』の首を、ここから飛ばす。痛みはない。一瞬だ』
「物騒すぎるでしょ!!」
四枚目。牙をむく「虎」。
『【虎】。社長を、虎が頭から食う。骨は残る』
「なんで骨だけ残すの!? こわいわ!!」
私がツッコミで息を切らしていると――
ふっ、と。となりで、空気が変わった。
蓮兄ちゃんが、五枚のカードを見ていた。
私と同じように、普通の人には見えないはずのカードが、ちゃんとその目に“視えて”いた。
つるっと死んでいたはずの兄ちゃんの目に、じわり、と血の色が滲んでいく。乾いた唇が、ゆっくり動いた。
「……会社、消すか」
ぼそっと。本当に、独り言みたいに。
蓮兄ちゃんの手が、ふらりと「剣」のカードへ伸びる。
その瞬間、私の胸の奥が、どくんと跳ねた。
(……あ、でも。蓮兄ちゃんをあんなにした会社なんて、本当に消えちゃえばいいのに。あの部長の首なんて、飛んじゃえばいいのに)
どす黒い同意が、0.1秒だけ、私の脳裏をよぎってしまった。
自分の心の中の怪物の存在に、私は血の気が引いた。ダメだ。そんなの絶対にダメだ!
「――ッ、ダメ!!」
考えるより先に、体が動いた。
私は通学カバンを放り出して、蓮兄ちゃんの腰に全力でタックルした。プロレスの、なんかすごい技みたいに。
「うおっ!?」
「金っ!! 金にして蓮兄ちゃん!! いちばん右っ!! 金ぇええ!!」
兄ちゃんの腕にしがみついて、ぐいぐいと右へ引っぱる。
五枚目のカード。そこには、ぴかぴかと光る、小判みたいな「金」が描かれていた。
『【金】』
ククが、淡々と言う。
『他の四枚は「会社」に向けたものだ。だがこれは、その男自身に向ける。状況を変える。発生源は何も壊れん』
「それでいい! それがいい!」
『……ふん。この男に【金】が出たのは、まだ腐ってないからだ。徳の糸が、けっこう残っている』
そんな解説、今はどうでもいい。
「蓮兄ちゃん、金!! お願い金にして!!」
血走った目のまま、兄ちゃんが私を見た。
私の必死の顔を見て、何かのスイッチが、かちっと戻ったみたいに。
「……っ、ごめん。真昼ちゃん。……金で。金、で頼む」
その声を合図に、私は「金」のカードに手を伸ばした。
指先がカードに触れた瞬間、五枚のカードは、霧みたいにふわっと溶けて消えた。
それから、三日後。
蓮兄ちゃんが、年末に会社の付き合いでなんとなく買って、財布の奥で忘れていた宝くじが、当たった。
三億円。
春川家は大騒ぎになって、その勢いのまま、蓮兄ちゃんは次の日、会社に退職届を叩きつけてきたらしい。
夕方、私の家のチャイムが鳴った。
玄関を開けると、そこに蓮兄ちゃんが立っていた。
つるっと死んでいた目に、ちゃんと光が戻っていた。背中もしゃんと伸びて、肩が、あった。
「真昼ちゃん。これ」
差し出されたのは、コンビニのアイスだった。二本入りの、ソーダ味の棒のやつ。一本を、私にくれる。
「……このあいだ、なんか、助けてもらった気がして。よく覚えてないんだけど」
照れくさそうに笑うその顔が、私の大好きな、昔の蓮兄ちゃんだった。
「うううん。なんも」
私もアイスをかじりながら、なんも、と答えた。
胸の奥が、じんわり、あったかかった。
『つまんねーの』
家に戻ると、ククが学習机の上で消しゴムを足に挟みながら、ぼそっと言った。
『虎なら、社長を頭からいけたのに』
「いかなくていいから! 平和がいちばんでしょ!」
ククはビー玉の目で、しばらく私を見た。それから、興味なさそうに、こう言った。
『人間は、自分で作った数字で死にかけて、自分で作った数字で生き返る。あの男も、会社も、何も変わってない。ただ、数字がちょっと動いただけだ』
「……」
それは、たぶん、本当だった。
蓮兄ちゃんを潰した会社は、今日もどこかで誰かを潰している。部長も、社長も、無事だ。何も解決していない。
ただ、蓮兄ちゃんの足元の地面が、すこしだけずれた。それだけ。
でも。
溶けかけのアイスの、甘い棒を口の中で転がしながら、私は思った。
蓮兄ちゃんが、笑ってた。アイスを二本買う、昔の蓮兄ちゃんに戻ってた。
それで、いい。ぜんぶは解決しなくても、今日のところは、それでいい。
「ね、クク」
「……」
「あんた、ほんとに優しくないよね」
『知らん』
そっけない返事が、脳に落ちてくる。
私は、ちょっとだけ笑った。
――それにしても、なんで今日は、五枚だったんだろう。
その小さな引っかかりを、私はまだ、本気にしていなかった。




