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怒りのカード

「おい!! 貴様ら、そこに突っ立って何をしている!」


烏川の土手へ続く三叉路に、耳を突き刺すような大声が響き渡った。

町内の自治会長、鬼頭きとうさんだ。認知症の気があるらしく、自分の古いルールと違うものを見つけると、誰彼構わず怒鳴り散らす。


「ゴミの分別がなってらんと言っとるんだ! 燃えないゴミの日にプラマークを混ぜるな! 叩き出すぞ!」


鬼頭さんは、収集所の前で困り果てていた主婦の佐藤さんに怒鳴り散らし、停めてあった佐藤さんの自転車を、革靴のつま先で思いきり蹴飛ばした。


「ひっ……すみません……」


佐藤さんは涙目になりながら逃げていく。

私はカバンの紐を強く握りしめ、電柱の陰からそれを見ていた。プラは今週からまとめて燃えるゴミで良くなったって、回覧板に書いてあったのに。


この間なんて、私のカバンについていた猫のキーホルダーを見て、「色気づきおって!」とドブに捨てようとした。あのときの悔しさと恐怖は、今思い出しても胸の奥がどす黒く煮えくり返る。


「ムカつく。本当に、いなくなればいいのに」


ぽつりと、本当に小さな声で呟いた。

学校の道徳の授業なら一発で廊下に立たされるような、だけど、中1の私の本音。


すると、後ろをついてきていたククが、ピタリと足を止めた。

その頭のてっぺんの葉っぱが、ポコッと嫌な音を立てて膨らむ。三枚の肉厚な葉っぱの真ん中から、見たこともないどす黒い紫色の「花」が、パッと不気味に開花した。


ククが「ウプッ」と短く鳴く。猫が毛玉を吐き出すときのような、マヌケな仕草。

だけど、その平らな顔からシュルシュルと飛び出してきたのは、カードだった。


「うわあ!?」


私の目の前に、タロットカードのような厚手のカードが三枚、等間隔でピタリと浮かんでいた。


『お前の怒りに同調した。選べ』


「え、何これ、選べって何を?」


『解決策だ。左から説明する』


一番左のカードが裏返った。そこには、すべてを焼き尽くすような「赤い炎」が描かれていた。


『【炎】。あの老人をこの場で灰にする。骨も残らない。最も早い』


「はあ!? 殺すってこと!?」


『次』


真ん中のカードがせり出す。描かれていたのは、暗雲を裂いて咆哮する「巨大な龍」だった。


『【龍】。あの老人に龍の呪いを取り付ける。老人は死ぬまでお前の命令通りに動く。奴隷になる』


「ヤバすぎるでしょ後ろの二つ!!」


『右だ』


最後のカードがめめれる。そこには、満開の桜のような、美しい「ピンクの花」が描かれていた。


『【花】。これが一番穏やかだ。老人は何も変わらない。だが、周囲の認識が書き換わる』


「花……! じゃあこれ! これにするしかないじゃん! 花!!」


私が叫ぶと、ククは『承知した』と答え、頭の花をパタンと閉じた。

三枚のカードが、霧が消えるように一瞬で溶けていく。


鬼頭さんは相変わらず「ったく、どいつもこいつも!」と怒鳴りながら、自分の家の方へ歩いていく。何も変わっていない。ただの脅かしだったんだ。私は肩を落とし、学校へ向かった。


異変が起きたのは、翌日の朝だった。


昨日と同じ三叉路を通りかかったとき、また、鬼頭さんの怒鳴り声が聞こえてきた。

「おい! 誰だここに植木鉢を置いたのは! 通行の邪魔だろうが! どかせ!」


怒鳴られているのは、昨日も泣かされていた佐藤さんだった。

だけど、何かが決定的におかしかった。


佐藤さんは、理不尽に、大声で罵倒されている。

なのに、佐藤さんは怒るでもなく、怯えるでもなく、ただ「ニコニコ」と穏やかに微笑んでいた。


「はいはい、鬼頭さん。本当ですね。すぐにどかしますね」


その笑顔には何の無理もなかった。嫌悪感も、我慢している様子もない。


「え……?」


私は足を止めた。

通りがかった近所のサラリーマンも、犬の散歩中のおじさんも、鬼頭さんの怒声を聞いて、みんな一様にふっと表情を和らげる。


「鬼頭さん、今日も元気だなぁ」

「地域のことをあんなに考えてくれて、ありがたいよねぇ」


狂っている、と思った。

鬼頭さんは昨日と何も変わっていない。変わったのは、周りの人間の方だ。


学校へ行く道すがら、その「狂気」はさらに色を濃くしていった。

コンビニのレジ前で、小銭を出すのが遅いおばあちゃんの後ろのサラリーマンが、仏のような笑みを浮かべている。

「どうぞどうぞ。時間は無限にありますからね」


交差点で、信号無視をした車が泥水を跳ね上げた。

スカートを泥だらけにされた女子高生が、うっとりとした声で呟く。

「あら……可愛い模様がついちゃった。素敵」


誰も怒っていない。

静かだった。

世界から「怒る」という機能だけがスッポリと抜き取られたような、静かで、冷徹な欠損。みんな、本人は普通のつもりでいる。それが、何よりも恐ろしかった。


私は学校を休み、ククをカバンに詰め込んで、全力で家に引き返した。


自分の部屋に飛び込み、ベッドの上にククを放り出す。

ククはポスンと転がり、すぐに起き上がって、学習机の上にあった消しゴムを足で挟み込んでいた。


「ちょっと!!」

私はククを両手で掴み、目の高さまで持ち上げた。


「町がおかしい! みんな変だよ! 解決してないじゃん!!」


『静かになった』

ククは、純粋に疑問を抱いているトーンで言った。本当に、こちらの言っている意味が分からないのだ。


『怒りが消えた』


「だから違うって!! 鬼頭さんは何も変わってないじゃない!」


『なぜあの老人を変える必要がある?』

ククの目が、冷たく光ったように見えた。


『問題はあの老人の存在ではない。お前たちが脳内に発生させる「不快なストレス」だ。だから、発生源(炎)を消すか、支配(龍)するか、受容体(花)を変えるかを選ばせた。お前は受容体を選んだ。合理的な解決だ』


「……っ」


『……お前たちは、怒りが好きなのか?』


ククが、平然と問いかけてくる。


「好き、なわけないじゃん……」


私はククをベッドの上に下ろした。

カバンから、あのドブに捨てられそうになった猫のキーホルダーを取り出す。傷だらけのプラスチックを見つめながら、私は自分の胸の奥に手を当てた。


(私は昨日、本当に『花』が一番マシだと思って選んだのかな)


胸の奥が、チリ、と痛んだ。


(本当は……あのとき一瞬だけ。鬼頭さんを灰にするっていう『炎』のカードを見て、あ、それならスカッとするかも、って……一秒だけ、思わなかったっけ?)


もし、私が昨日、あの誘惑に負けて「炎」を選んでいたら。

私は、自分の手を汚さずに邪魔者を消した全能感に、今頃酔いしれていたかもしれない。


「……不便だな、人間は」

ククが、ベッドのシーツの匂いを嗅ぎながら、ぽつりと言った。


数日後、「花」のカードの効果は嘘のように薄れ、町の人々は「……あれ? なんで私、あのとき怒らなかったんだろ。気持ち悪い」と我に返り、また鬼頭さんにイライラし始めた。


いつも通りの、ギスギスした、でも、ちゃんと人間らしい日常が戻ってきた。

私はそれを見て、生まれて初めて、他人が怒っている姿にホッとしたのだった。

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