居候のクク
翌朝、一ノ瀬家の食卓は、いつも通りでありながら、決定的に狂っていた。
「ククちゃん、お代わりいる? 今朝はいいネギが入ったのよ」
「お、いいねえ。クク、お父さんの分の豆腐もやるぞ」
お母さんが味噌汁の鍋を傾け、お父さんが新聞を片手に目尻を下げている。
その二人の視線の先――食卓の真ん中には、昨日私が拾ってきた謎の生き物がちょこんと座っていた。
ククは、小皿のネギを頭の葉っぱで器用に挟み込むと、シュッと体内に吸い込んだ。口はない。
「……ねえ」
私は箸を止めた。
「なんで普通に朝ごはん一緒に食べてるの? あと、ククちゃんって何。誰が名付けたのよ」
「あら、真昼が昨日『ククがどうの』って言ってたじゃない」お母さんがのんきに言う。「それにしても可愛いわよねぇ。最近の海外のロボットって本当にすごいのねぇ」
「だから! ロボットじゃないって言ってるじゃん! 昨日の夜、リビングのリモコンを体内に埋め込もうとしたロボットがどこにいるのよ!」
私がいくら訴えても、お父さんは「ははは、真昼は相変わらず想像力が豊かだな」と笑うだけ。
会話のレールが、最初から一本も噛み合っていない。
二人が狂ったわけじゃない。普通の一ノ瀬家だ。ただ、彼らの脳内にある『クク』のフォルダだけが、強制的に『無害なペット』に書き換えられ、固定されている。
当のククは、私の心配をよそに、ローテーブルの上のテレビのリモコンをまた両足で挟み込んでいた。
「ちょっと待って! それは食べ物じゃない!」
私が慌てて取り上げると、そいつはビー玉の目で不満そうに私を見た。
『四角い。固い。野菜ではないのか』
「プラスチックだよ!」
『不便だな』
お母さんが「あらあら、仲良しねぇ」と笑う。
家に置いておいたら、そのうち家ごと吸収されそうだ。強烈な危機感を覚えた私は、ククを小脇に抱え、玄関へと飛び出した。
「ちょっと散歩連れてくから!」
外に出て、ククを地面に下ろす。ククはトコトコと私の後ろをついて歩き始めた。
通学路を進むと、すれ違う生徒たちが足を止めた。
「うわ、何あれ……?」
「変な生き物……UMA?」
当然の反応だ。
そこへ、自撮り棒を持った派手な髪色のお兄さん二人組が歩いてきた。地元の動画配信者だ。ククを見つけるなり、目を輝かせてカメラを向けてきた。
「おいおいマジかよ! 世紀の大発見じゃね!? 突撃してみるわ!」
お兄さんがマイクをククの前に突き出す。
「おい、お前何者だよ! 宇宙人?」
私は身構えた。ククの頭の葉っぱがピクンと震える。また空を曲げたような、とんでもない超常現象を起こすんじゃないか。
しかし、ククは短い足で自分の頭をごしごしと掻くと、ぽすん、とマヌケな音を立ててその場に尻餅をついた。そしてカメラを見つめ、
『ウラウラ』
と、気の抜けた声を脳内に響かせた。
お兄さんたちは、一瞬だけぽかんとした。
世界の時間が、コンマ一秒だけ停止したような不思議な感覚。
「……あ、なんだ。ただのククじゃん」
自撮り棒を持ったお兄さんが、急につまらなさそうな顔をしてマイクを引いた。
「なんだよ、びっくりさせんなよ。ネタにもならんわ、行くぞ」
「だなー。ただのクク映してもバズらねえよな」
二人はカメラを切り、歩いていってしまった。
私は、開いた口が塞がらなかった。
ただのククって何だよ。ククって単語、今初めて聞いたはずでしょ。
「……ねえ」
私はしゃがみ込んで、その丸い身体を見つめた。
「あんた、今何したの」
『何も』
ククは平然と答えた。
『お前たちは、世界を並べ替えたがる。犬、猫、ロボット。名札がないと不安になる。だから、名札を置いてやっただけだ。【クク】という名札を。そうすれば、お前たちはもう驚かない。安心するだろう』
「安心するっていうか……思考停止してるだけじゃん……」
目の前を、小学生たちが通り過ぎていく。
彼らはククを見ると、「あ、ククだ」「おはよー、クク」と、昨日からずっと近所にいた野良猫に挨拶するかのような自然さで通り過ぎていく。
怖くて、マヌケで、底が知れない。
この、世界で私だけが正気で、世界で私だけがこいつを警戒しているという、奇妙な同居生活が本格的に始まろうとしていた。




