再びその手を差し出すために
エルンストはたぬもちをそっと逃がし、剣を抜いて左手で構えた。
これまでのように右手で――などという余裕はない。
毒と単純な切創の後遺症で、なるべく物を持ちたくない、などという我儘さえ口にはできなかった。
相手が未だ木の上で悠々自適に構えて戦う意思を見せていないことすら、この状況では何の意味も持たない。
全身を襲う恐怖が、自分が今どれほど危機的状況に置かれているのかを物語っていた。
エルンストが剣を構えて、ようやくリシャールはエルンストへと顔を向ける。
そうしてようやく……エルンストは、その変化に気づく。
リシャールの白目は黒く反転し、瞳は深い深紅へと染まっていた。
「お前……それ……」
リシャールは微笑を浮かべながら、「よっと」なんて言って木の上から飛び降りた。
「さて、何から話そうか……。いや、必要ないな。蛇足でしかない。俺たちの間には、これは無関係だ」
そう言って、リシャールはうんうんと納得したかのように頷いた。
対面したら、理解できる。
こいつは何も変わっていない。
こいつから放たれる殺気は、悪意は、憎しみは、依然変わらず。
けれど同時に、かつてのような親しみも今は宿っていた。
端的に言えば、わけがわからない。
「かといって、それなら何を話すべきか。案外、俺たちの間にある共通の話題って少なかったな。サヴァリオンがどれだけ糞かってことくらいか?」
リシャールは笑いながら、両手を広げ、袂を開くように話し出した。
それはまるで、親友との語らいのよう。
エルンストは迷うことなく踏み込み、斬撃を放った。
まるで、卑怯なんて言葉を忘れているかのような行為。
けれど、エルンストにはこれしかなかった。
エルンストは、リシャールの有能さを嫌というほど理解していた。
今のこの不気味な状態など関係ない。
リシャールが剣を抜いた瞬間、エルンストに勝ちの目はなくなる。
そもそもの話なのだが、エルンストとリシャールは同格に等しい。
つまり、オーバーロードをフルに活用したエルンストでようやく対等ということだ。
当然、たぬもちではなくちゃんとした相手で。
二対一という数の暴力を持って、ようやく。
それが、かつてのリシャールとエルンストの力量差だった。
斬撃に対し、リシャールは反応を見せず、それどころか微動だにしない。
剣を抜くのは間に合わずとも、腕を盾にするなり、回避行動に出るなりあるはずなのに。
そして斬撃が肩に触れ――ぴたりと、止まった。
「……えっ?」
手応えが、奇妙だった。
勢いをつけて全力で振り抜いたのに……すっと、衝撃が霧散した。
まるで、斬撃そのものが吸われたかのようにさえ感じる。
慣性も含めてすべてが消失した手応えは、ただただ気持ち悪かった。
「なるほど。こういうカラクリだったのか……。まあ、今となってはどうでも良いか。そう、どうでも良いことだ」
にっこりと、少年のような笑みを浮かべるリシャール。
それは、本当に楽しそうだった。
エルンストは何度も斬撃を放った。
何度も何度も。
何度も何度も何度も何度も……。
けれど、リシャールの身体には一筋たりとも傷は生まれない。
すべて、不思議な力で斬撃は吸い取られ、消滅していた。
どれだけ全力で振り抜いても、エルンストにさえ反動は戻ってこない。
顔に苦渋が滲むエルンストとは反対に、リシャールの表情は笑みから喜び、そして恍惚へと変わっていく。
「ああ……そう。その表情だ! それで良いんだ。エル。君は……そうでなければならなかったんだから」
「何をわけのわからないことを!」
距離を取り、エルンストはリシャールの心臓めがけ、ナイフを投擲する。
その恐怖と嫌悪が、エルンストの殺人への忌避を失わせていた。
ナイフが胸に触れた瞬間……すっと動きが止まる。
そのまま、重力の影響だけを残し地面にまっすぐ落下した。
リシャールはナイフをしゃがんで拾ってから、恍惚とした笑みのまま、頬ずりする。
ゾワリとした恐怖が、エルンストに広がった。
さっきまでとはちょっと違う意味で、身の危険を感じていた。
「ん? ああ。安心してくれ。俺は君と同じでノーマルだよ、エル。だから怯えないでくれ」
微笑みながら、リシャールは軽くナイフを投げる。
本当に、軽い動作だった。
なのに、エルンストは動くことができず、気づけば顔に一筋の傷が生まれ、赤いしずくが頬を伝った。
「追放された時……君は堕ちたと思った。どうしようもないほどに、堕ちたと」
「……いいや。堕ちたよ。期待の星は地に堕ちて、存在ごと抹消されたとも」
「いや! いいや! エル、君は堕ちてなかった! 楽しそうに仲間と冒険していた。それも……聖剣を持って……」
リシャールはエルンストの腰に携えられた聖剣に目を向けた。
「お前は、これが……」
「ああ。欲しかった。お前に勝てるのはそれだけだと思ったからな。けどまあ……もう、どうでも良い」
そう、どうでも良い。
リシャールにとって聖剣は、もはや何の価値もない。
なにせ――聖剣なんてものじゃどうしようもないところまで、堕ちてしまったんだから。
一族を追放されたエルンストと比べるまでもない。
今のリシャールは、自分が人間かどうかさえ定かではなかった。
堕ちてしまった。
どうしようもない、最悪の底に。
だからこそ――ああ、だからこそ――ついにようやく、答えに至った。
あの日、あの時……エルンストを化物と思ってしまった。
それで、手を差し伸べられなかった。
あの時、手を差し出して二人で逃げていれば、きっと二人とも人類の英雄になれたというのに……。
「だけど、もう大丈夫だ。エル。怖くない。だって俺は――【本物の化物】になったからな!」
そう言って、笑った。
笑った。笑った。笑った。笑った。笑った笑った笑った笑った笑った。
――嗤った。
「堕ちたと思ったお前を、本当の底から見て、ようやくわかったんだ。俺たちは二人で一つの翼だったんだ!」
音もなく緩やかにリシャールは――否、リシャールであった化物は、剣を抜く。
「絶望して、後悔して、嫉妬して、空を見上げて……。汚れて、狂って、もがいて、足掻いて……。俺と同じになり果てて――そしてその時こそ、俺たちは本当の兄弟になるんだ」
空気が、変わった。
一人の男が生涯を費やしたその剣が、この地を戦場へと変える。
変わったのは、空気だけじゃない。
雲もないのに世界が暗くなっていた。
「だからさ――堕ちて来いよ、弟」
リシャールは、静かに剣を振り下ろす。
けれどその一閃は、荒れ狂っていた。
それはまるで暴風。
荒れ狂う海原を襲うよう。
それはまるで灼熱。
爆弾による轟音と閃光のよう。
純粋に鍛え上げた剣技ではない。
それを言葉にするならば、魔技であった。
掻き鳴らすような剣戟の音と共に、衝撃が腕に響く。
不味い。
そう思った時には何もかもが遅く、手元の剣は粉々に砕け、それでもなお衝撃は消えず、エルンストは吹き飛ばされた。
どんっと、背中を地面に叩きつけられ、呼吸が止まる。
「ひゅっ……がはっ! げほっ!」
息が通った瞬間、むせ返る。
その様子を、リシャールは追撃もせずただ微笑ましく見守っていた。
ありがとうございました。




