希望と絶望
急勾配の斜面をひたすらに進み……上り抜けた瞬間、世界が一変した。
髪を靡かせる強い突風に襲われる。
その中には、白い花びらが舞い散り混ざって、視界を塞ぐ。
風が落ち着くと、自然が生み出した花畑とでもいうような、そんな美しい光景が目のまえに広がった。
思わず、息を飲む。
圧倒されるとは、このことを言うのだろう。
けれど、すぐに感情を黒に戻す。
自分には、こんな景色を楽しむ資格はないのだからと――。
自然を愛でるような心の余裕を持つことなんて、今のエルンストに許されるわけがなかった。
聖剣を地面に突き立て、太陽の位置と影の位置を観測。
方角を理解すると、エルンストはまっすぐ――いや、花を踏みつぶさないよう若干遠回りをして、目指す先へ向かった。
聖剣。
通常のロングソード。
投擲用のナイフ三本。
組み立て式の弓と、矢じり数個。
それが、今エルンストが持つ全武装。
本来ならここに少量の毒が混じるのだが……今のエルンストに、毒を精製する勇気はなかった。
たとえ単なる麻痺毒であったとしても。
それは、エルンストの明確な弱さだった。
めっぽう固い干し肉を齧りながら、エルンストは平地を進んでいく。
たぬもちの方には、やわらかいソーセージを与えおり、もきゅもきゅとエルンストの真似をしてちまちまと食べていた。
別に最長でも四日程度の旅なのだから、こんな干し肉を食べる必要はない。
食べるとしても、いくらでも加工する手段がある。
それこそ、カップに水を入れて突っ込み放置するだけで、今よりはるかにマシだろう。
けれど、そんなことをするつもりはない。
時間的猶予とか、予算とか、そういう理由は単なる建前。
単純に、エルンストは自分を罰していた。
リディアを苦しめた自分が、幸せになって良いわけがないと――。
本音は、ただそれだけ。
自罰的で、自虐的で、それでいて自暴自棄。
何もかもが、自分を責める手段に転嫁される。
エルンストは、完全なる自己嫌悪に陥っていた。
それほどまでに、嬉しかったのだ。
リディアが、ついてきてくれたことが。
リディアとの旅が。
これでも、エルンストはサヴァリオンに対し並々ならぬ感情を抱いていた。
一族であることを名誉に思い、恥じないように生き、忠義を持って尽くそうと。
だから……追放された時、世界から切り離されたように感じた。
世界は自分と一匹だけで完結してしまって、後は永劫に孤独を味わうものだと思っていた。
だから、リディアとの時間は楽しかった。
例えすぐに別行動になる単なる同行者であっても、それでも楽しかったから……今のエルンストには、後悔しか残っていなかった。
「たぶんお前も……楽しかったよな」
腕の中のたぬきに声をかける。
返事はない。
けれど、きっとそのはずだ。
短いけれど、そういう旅だったのだから。
だから……。
「死なせるのだけは、嫌だな」
償いきれない詫びがある。
いくら悔やんでも足りない後悔がある。
きっと生きても、もう一緒に冒険してくれないだろう。
それでも、やっぱり生きていて欲しい。
世界は寂しいものじゃないと教えてくれた彼女に、生きて――。
ふわりと、鼻を何かの香りがくすぐった。
嫌な香りではない。
けれど、花のように落ち着くものとは違い、どこか不安になるような香り。
そして、どこかで嗅いだことのあって……。
記憶が、映像として脳裏に蘇る。
それは治療院の中で、自分の腕を治療してもらった時、消毒液と共に香ったもの。
治療に使われた、薬と同じ香り。
はっと我に返り、エルンストは全速力で駆け出した。
緩やかな軽い上り坂を駆け上がり――。
一面が、緑色に染まっていた。
似ているのは、クローバー、もしくはミントハーブ。
けれど、そのどれとも違う独特の形状と、香り。
それははるか太古の書物から記録が残されており、数多くの名前を持っている。
けれど、今その薬草は、希望を込めこう呼ばれる。
ケノイの猛毒に対する薬として、多くの毒を治療する効能を夢見て――。
『ホープ草』
こここそが、その群生地だった。
「は、はは……。あった。……本当にあったんだ。まだ……まだ間に合う……」
感情的になったらいけない。
自分を戒め、心を強く持たないといけない。
それがわかっているのに、涙が止まらなかった……。
「おめでとう。良かったな。見つかって」
声が、聞こえた。
ここにいるはずのない、声が。
その男は、木の上でくつろぎ、空を見ていた。
遠くを、穏やかな瞳で。
そのはずなのに……妙に不安になる。
いつの間にか、獣の気配が完全になくなっていた。
「リシャール。どうしてここに……」
「なんだ。前のことを根に持っているのか? リシャで良いよ。俺とお前の仲だろ?」
リシャールは軽い苦笑いを浮かべ、親しみを込め、そう言った。
ゾワリと、身体中の毛穴が逆立つような恐怖が駆け巡る。
怖い。
以前、憎しみをぶつけられた時の、何倍も怖い。
何故ここにいるのか、何がこんなに怖いのか、何もかもがわからない。
けれど、危険なことだけは間違いなかった。
何も理解出来ていないのに……エルンストの身体は、震えが止まらなくなっていた。
ありがとうございました。




