昏い炎(前編)
その依頼は一般には出回っていなかった。
それは非公式というわけではない。
むしろ、その逆の理由。
危険度が高いのもそうなのだが、依頼内容という情報が世間に出回ることのリスクが、あまりにも高かった。
時代と言えば時代なのだろう。
今現在では、多くの人が『魔族』という存在を見たことがない。
空想上の生き物だなんて思うような人さえいる。
今は、そういう平和な時代となっていた。
『魔族』
それは、人と争い続ける意志ある化物の総称。
けれど、その存在はもはやおとぎ話に等しい。
最後に魔族が現れたのも、数百年前の前の話。
そういうふうに、歴史では綴られている。
けれど、実情は違う。
確かに昔のような戦争状態にはなっていない。
けれど、ごく小規模だが魔族の存在は今なお確認されている。
彼らは人の住処に入り込み、紛れ、暮らす。
おそらく、スパイ活動のために。
それを国は極秘裏に処理していた。
リシャールたちに任せられたのは、そういう依頼だった。
依頼書も指示通り燃やした。
これで、外に漏れる心配はない。
唯一の不安は、クリキの馬鹿が依頼書を持って女に自慢しないかだが、その可能性もあまり高くない。
あれはすぐ調子に乗るが、同時に国家権力だとか、そういうものにすこぶる弱い。
これだけ脅しがあれば、きっと誰よりも早く燃やすだろう。
むしろ、ビビって合流せずに逃亡する可能性の方が高いくらいだ。
けれど、それならそれで良い。
リシャールだって別に、仲良しごっこがしたくて仲間を集めたわけではないのだから。
「……ここか」
スラム街の奥で、リシャールは小声で囁く。
大して規模の大きくないスラム街だったが、それでもここに来るまでの間スラムの住民に一度も襲われなかったというのは少々拍子抜けだった。
それは国が依頼のためにこの地区より彼らを遠ざけたのか、それとも彼らでさえ、ここには寄り付かないのか……。
どちらにせよ、依頼が眉唾の可能性は低そうだと、リシャールは感じた。
後ろを向き、追従するロランとオーレルに目を向ける。
彼らが頷いたのを確認して……リシャールは、目の前の扉を蹴破った。
驚くほどあっけなくドアは壊れ、ぼわっと埃が舞う。
その埃が消えるよりも先に、リシャールは剣を構えたまま中に押し入った。
警戒を解かず、意識を集中させ……。
けれど、魔族らしき存在はどこにも見えない。
そこに居たのは、みすぼらしい姿をした、痩せこけた男だった。
着ている物はほとんど単なるボロ布で、年齢も中年というより老人に近い。
背も曲がり、中途半端に禿げ散らかして、何もかもが醜い。
そんな男は「わっひゃあ!」なんて情けない悲鳴を上げ、背負っていた袋を落とした後、頭を抱えて部屋の隅で蹲り震えだした。
「お助けをぉ……お助けをぉ……」
背を向けて縮こまり、祈るように繰り返す。
男が落とした袋の中には、釘などの金属製のゴミが入っていた。
「物取り……いや、コソ泥か」
オーレルは中身を見て、そう口にした。
「ひ、ひひっ! み、見ての通り、火事場泥棒のコソ泥でさぁ。どうかご勘弁してくだされ!」
ロランとオーレルは互いに顔を見合わせ、脱力したように苦笑する。
魔族との戦いなんて、英雄譚の中でしか語られない世界に足を踏み入れたと思った。
けれど、目の前にいたのは見ずぼらしいゴミ漁り。
その落差が、彼らの緊張を削ぎ落とす。
――リシャール以外。
「お前は……いったい何だ?」
リシャールは怪訝な表情で、コソ泥を名乗った男に尋ねる。
依然、剣を構えたままだった。
警戒……いや、緊張している。
リシャールの背を見て、ロランとオーレルは嫌な汗を流した。
「ど、どうかご勘弁を。ご勘弁を! 命ばかりは……どうか。へ、へへ。あっしのような小物を殺せば、立派な剣が汚れてしまいますので! どうか……」
がたがたと、その背が大きく震えていた。
「な、なあリシャール。やめないか、そんな脅すような真似……」
ロランはその肩をぽんと叩く。
リシャールは、殺気の籠もった目でロランを睨んだ。
それは脅すというのも違う。
『切羽詰まっているから邪魔するな』
そう伝えるような、怯えの混じった目だった。
「本物のコソ泥なら、さっさと逃げてる。怯えて震えて命乞いなんてしない。……そんな、善性を期待して良いほど、スラムは温くないんだよ」
「で、でも……こいつ、こんな外見で……」
「そうだ。汚すぎるんだよ、こいつは。一目で不快になるくらいにな」
スラム街というのは、ただ汚いだけじゃない。
普通の街とは違うルールと秩序が存在する。
むしろ、法の目をかいくぐれる分、外見の重要度はずっと高い。
小汚いのはしょうがない。
スラムで毎日風呂に入れとか無茶を言いたいわけでもない。
だが、身だしなみを気にせずに生きていけるほど、スラムは快適な環境ではない。
醜さが際立つ者は、容赦なく迫害される。
つまり、逆なのだ。
険しいスラムという環境の中、こんな酷い外見で、それも高齢に差しかかる年齢で、平然と生き続けているなんてのは、"ありえない"。
それが、リシャールには恐ろしかった。
がたがたとした男の震えは止まらない。
だが、その震えは恐怖なんかじゃなく――。
「ひ、ひひっ。ひひ……ひーひひひひひひひ!」
それは、笑い声だった。
リシャールの警戒が強まる。
剣を握る手に、力が入った。
「いや、失礼。あっしは別に嘘は言っておりませんよ? 旦那がた。旦那がたみたいな立派なもんじゃなく、ちんけな木っ端でございますよ。きひっ」
こちらを向き、男は立ち上がる。
下卑た……いや、ひねた笑みだった。
リシャールは男に剣を叩き込む。
その行動に一切の迷いはない。
いや、この状況で迷えるような余裕はなかった。
こいつは――人じゃあない。
ありがとうございました。




