ケノイの猛毒
翌日――。
エルンストは、診療所のベッドを空虚な瞳で見下ろしていた。
そこには、リディアの姿があった。
彼女は身じろぎもせず目を閉じ、安らかな寝息を立てていた。
まるで、ただ眠っているだけかのように。
その傍らでは、たぬもちが彼女にしがみつくように寄り添っていた。
離れまいとする姿が、妙に痛々しかった。
昏睡状態……というが、状況としては近いだろう。
目覚めることなく衰弱していくという、若干の違いはあるが。
エルンスト自身も無傷というわけではなく、左腕は包帯で巻かれ、三角巾で吊られていた。
あの時。
リディアの身体を貫いた刃は、ほんの僅か、エルンストの左腕にまで届いていた。
痛みを感じなかったのは、その刃に塗られていた毒の所為。
もしもあと一センチ深ければ、エルンストは生きてはいなかっただろう。
それくらい、その毒は危険なものだった。
【ケノイの猛毒】
この周辺地区――特にこの街『ザットル』で猛威を振るった、性質の悪い化合毒である。
リディアを診察し終えた医者は、沈んだ声でこう告げていた。
『何やら、特別な祝福があったようですね。でなければ、即死だったでしょう』
そう、本来ならば貫かれた時点でリディアは即死でなければおかしかった。
彼女の祝福は魔法であるから、医者の推測は違う。
けれど、その理由を聞く手段はなかった。
そう……即死でないとおかしかった。
だから医者はリディアをトリアージ黒、助からないと判断し、"残り一つの解毒薬"を、比較的軽傷だったエルンストへ使う決断を下した。
分けるのではなく、すべてをエルンストに。
その判断が正しかったかどうかは、助かったエルンストが口にする資格はなかった。
例え、本心がどのようなものであったとしても。
即死さえ免れれば、この毒への対処自体はそう難しくない。
薬草を材料にした治療薬を使えば、毒は確実に消える。
この状態からだって、リディアは助かる見込みがまだ残されていた。
精製方法も単純だ。
何なら、材料となる薬草を生で齧るだけでもそれなり以上に効果はある。
問題は……その薬草そのものが、希少なものということ。
エルンストが使った解毒薬だって残っていたことが奇跡に近く、次に入る予定だって未定のまま。
当然、その時までリディアが生きていられる保証も……。
医者の話では、リディアの現状は奇跡に等しいらしい。
こんな状態は過去になく、それゆえにこれからどうなるかもわからない。
わかるのは、薬なしでは目覚める可能性は万が一にもないということくらいなものだった。
ベッドの傍に腰を下ろし、エルンストは静かにリディアを見つめる。
「本当に、眠っているだけにしか見えないのに……」
まるで今にも目を覚ましそうな、安らかな寝顔だった。
だが、呼びかけても絶対に反応はない。
緩やかな呼吸だけが、かろうじて彼女が生きていることを示していた。
「俺なら……良かったのに。俺だったら……」
漏れた言葉に、エルンストはすぐ後悔する。
たぬもちを使役している自分が、口にして良い言葉ではなかった。
「……リディアだったら、どうにか出来ただろうな」
なんとなくだが、魔法を使えば彼女は自分で状況をどうにか出来た気がする。
解毒か、治療か、それ以外の手段かまではわからないが。
短い付き合いだが、そう思えた。
だからこそ――リディア自身が昏睡状態に陥っているこの状況は、最悪だった。
それにもう一つ……最悪が残っている。
彼女の枕元に置かれた、一枚の請求書。
この請求書に記載された部分、つまり二人分の毒の治療費は実行犯が払うことになっているから問題ない。
けれど、払われるのはあくまで昨日分の治療費だけであり、これからの入院費用は別だ。
小さな治療院のため、そこまで高いものではない。
それでも、今回の依頼報酬を含めてさえ、数日もすれば底を突く計算となっていた。
つまるところ、どうしようもなく、状況が詰んでいた。
それから、どれだけの時間が経っただろうか。
待っていても決して状況は改善されない。
それはわかっている。
動かないといけない。
何かしなければなけない。
それなのに、椅子から立つことすら出来なかった。
陰鬱とした気持ちが、じっとりと身体に纏わりつき、のしかかる。
まるで世界が折れろ、諦めろと言っているかのように。
そんな時だった。
乱雑な、ノックの音が響いたのは――。
医者かもしれない。
そう思い、重たい身体を持ち上げ、扉の前に立つ。
そして、ゆっくりと扉を開いて――。
「よっ」
クリキが、そこに立っていた。
妙に軽い態度で、悪びれもせず。
エルンストは後ろのリディアとたぬもちに目を向けた後、部屋の外へ出て、すぐ扉を閉めた。
「……何の用だ?」
「は? 何その態度。無能の癖に弁えてくれない? せっかく人が下手に出てやったってのに」
「良いから……何の用か言え」
鋭い目を、エルンストは向けた。
びくりと、クリキは身体を震わせる。
それでもなお、ヘラヘラとした態度のまま彼は話し始めた。
「あの後さ、リシャールは逮捕されたよ。どうも、思ったよりこの街じゃあの毒は不味いみたいでさ……」
少し気まずそうに、それでも軽薄な態度でクリキはそう言った。
逮捕のことは、エルンストも知っている。
ケノイの猛毒はこのザットルの街で生まれた。
そのためか、製法は比較的容易い。
安価で作れる上、薬草一つで完全に無効化できることから元は狩猟に使われていたのだが、いつからか毒を使った犯罪が後を絶たなくなり、やむを得ず、使用禁止毒物に指定された。
そういう経緯があるため、破った者は容赦なく重罪となる。
だからこそ、どうしてリシャールが使っていたのか、よくわからないが。
「つーわけで、ちょっと釈放同意書にサインと、許すって一筆書いてくれよ。被害者が無罪って言えば効果あるらしいからさ」
「――は?」
「ほら、あの騒ぎだってお互い様だろ? 俺たちには未来があるんだよ。無能のお前とは違うさ。だから――」
次の言葉は、聞き取れなかった。
何を吐いたか聞くよりも先に、エルンストはその顔面の真ん中に、拳を叩き込んでいた。
目の裏が真っ赤に染まる。
怒りで、脳がおかしくなりそうだった。
バキッ、と軽い音と共に、クリキは地面に倒れた。
殴ったその手が、痛い。
握りしめすぎて、血が滲んでいた。
「お、お前……。僕に手を。お前みたいな無能のく――」
エルンストは倒れたクリキの胸倉を掴み、そのまま吊り上げ、宙に浮かせた。
「俺がどうなろうと恨みはしない。だがな……無関係の彼女を巻き込んでおいて、何がお互い様だ。何が未来だ! ふざけるな!」
「ま、待って。待てって。お前、僕に手を挙げたこと、許してやるから。ほ、ほら……とりあえず下ろせって。な?」
「てめぇに許して欲しいことなんざねぇんだよ……。次、舐めたこと言ってみろ。俺がお前を殺してやる」
そう言ってから、エルンストはその手を離し……えぐるように、その腹を蹴り込んだ。
「がはっ!」
まるでボールのように飛び跳ね、地面に倒れるクリキ。
それを見下ろした後、エルンストは扉を開け、リディアの元へ戻ろうとして――。
「や、薬草の在処を知っている!」
クリキの一言で、エルンストの手は止まった。
腹部を押さえながら、反対の手を前に出し、よろよろとクリキは立ち上がる。
それを、エルンストはじっと見ていた。
「薬草があれば助かるんだろ、そいつ。俺はその場所を知っているぞ?」
動きを止めたエルンストを見て、再びクリキはニヤついた笑みに変わる。
自分が有利になったと思った途端、調子に乗る。
いつだって、クリキはそうだった。
だから、空気が読めない。
いつだって、本気の奴のことがわからない。
気づいた時には、クリキは再び床に倒れていた。
今度は、エルンストの右腕がクリキの顔面を掴んだまま。
中指が、頭蓋骨を軋ませる。
親指と小指が、頬にめり込み、歯を歪ませる。
怒りと必死さで、エルンストの力は制御できない状態になっていた。
「サインでも何でもしてやるから、早く言え。このまま握りつぶすぞ」
ここまで来て、ようやくクリキも理解した。
目の前にいるこいつは、追放された無能ではない。
どこまでも人間で、そして……ただ、必死なだけだだと――。
ありがとうございました。




