信じて下さいたぬきなんです
久しぶりだった。
静かな、静寂の時間は。
音にもならない穏やかな風に包まれ、心地よさに身を委ねながら、リディアは空を見上げる。
月が隠れ、星々の煌めきだけが世界を照らす。深い夜の時間。
星辰。
最も静かで、最も魔力の安定する夜であった。
ただし……魔族にとって。
人の魔法は、星々の影響を受けない。
影響を受けるほどに、魔法は成熟していない。
リディアは傍にエルンストがいないことを再確認する。
時間的に眠ってはいるはずだが、最悪を想定し、油断はせずに。
そして――擬態を解除し、己が翼を露わにした。
人では決してありえない、巨大な黒い翼。
リディアが唯一持つ、人ならざる魔族的特徴。
まともに空も飛べないその翼だけが、彼女が人でない証明。
たとえ落ちこぼれで、魔族らしいことが何もできなかったとしても、それだけが彼女のアイデンティティであった。
とはいえ、人間の世界に来て少しだけ考え方は変わったが。
「まさか人間は、神の助力なければ魔法一つ使えないとは……」
苦笑しながら、そうぼやく。
魔族にとって魔法なんてのは、単なる技術の一つに過ぎない。
たとえ苦手であっても、攻撃魔法の一つくらいは子供のうちに習得できる。
人間と魔族は、それほどまでに種族格差があった。
実のことを言えば、リディアが人間の現物を見たのはつい最近のことだった。
人間と魔族はほとんど休戦状態に入っており、交流はない。
リディアのような若い魔族は、人間のことを何もわかっていなかった。
だからきっと、エルンストに出会わなければ今でも、『人間は知能の低いサルの魔物』だと思っていただろう。
人間の中にもぐりこんだ後さえも、下心を隠そうともしない下劣な人間ばかりであった。
けれど、今はそうは思わない。
エルンストはそんな下劣なサル共ともは違ったからだ。
彼は――化物だ。
高い理性と知性があり、自己を後回しにする道徳性を持つ。
優れた能力を持ちながら自慢せず、勤勉で己を磨くことを常とする。
まったくもって正しい。
正しいけれど、人はあそこまで正しく生きられるものなのだろうか。
環境・家族・運・世界。すべてに裏切られて、破滅を願わずに生きられるものなのだろうか。
だからこそ、化物だった。
報われて欲しい。
そう、敵であるリディアが願うくらいには――。
「それでも……私は彼とは違う。確かに私は落ちこぼれだけど……それでも……」
呟き、意識を集中する。
星辰正しき森閑なる朔の月。
この瞬間だけ、彼女は遠く離れた魔王と交信することが叶った。
『よくぞ連絡した。報告を聞こう』
脳内に、声が響く。
威厳のある、力強い声。
それで、傍に誰かがいるのだとリディアは気づく。
誰もいないと、魔王様は親戚のおじさんみたいになるからだ。
まあ、割とすぐボロが出て、業務中でも親戚のおじさんみたいになるけど。
「はっ。ただ、何から話せば良いか……」
『ふむ? まず、勇者と合流は叶ったのか』
「はい。仲間として受け入れて頂きました」
『そうか。それは重々――だが、無理はしなくても良い。勇者の力や祝福など、そういうものは慌てず、おいおいと――』
「いえ。その辺りは全部わかってます」
『わぁ。さすがリディ。優秀だなぁ』
声色は格好つけているものの、もう化けの皮が剝がれた。
相変わらず、抜けた魔王様だとリディアは苦笑した。
「……ただ、それについて……その……相談が……」
『ふむ? 不味い能力だったの? 危なかったらすぐ逃げて良いからね。もしくは、勇者が悪人だとわかったらすぐに――』
リディアは慌てて否定した。
「ち、違います! 間違いなく善人ですし、危ないこともありません!」
そう、違う。
彼を悪人としてはいけない。
彼を悪人として動くなんてことになれば……。
魔王は気の抜けた親戚のおじさんで、臆病者で、情けなくて、ヘタレで、駄目駄目で。
けれど、敵には容赦ない。
リディアはそれを、痛いほどに知っていた。
『……本当に?』
「はい! ただ……」
『ただ……何かな?』
「……その……勇者が……たぬきだった場合はどうすれば……」
しばらく、連絡が返ってこなかった。
沈黙が、静寂となる。
静かな、穏やかな夜だった。
『えっと……ごめん。リディが人間社会に馴染んだのは嬉しいけど、その例えがどういうニュアンスなのか、ちょっとわからないかな。腹黒いってこと?』
見てもいないのに、話し方だけで魔王様がげっそりした顔をしているとわかった。
「いえ。たとえ話や比喩表現ではなく、たぬきです。たぬき」
『――リディ。疲れてないかい?』
「私は、いたって正気です」
気持ちはわかる。
その気持ちは、痛いほどに。
けれど、事実である。
今やリディアのいる場所は、たぬゆうしゃと愉快な仲間たちである。
『……そっか。やはり長距離交信には難があるようだ。どう聞いてもたぬきにしか聞こえなかったよ。あはは』
「いえ、交信の問題ではなく、事実――」
『伝わるかわからないけど、君の思うようにやってほしい。無理をしないで良いし、危ないと思ったらすぐ帰っても良い』
「いや、ちょっ。待っ――」
『本音を言えば、君が勇者と仲良くなることが一番と思っている。けれど、それが難しいなら任せるよ。君が無理だったとしたら、残念だが私達にはまだ早かったということだから』
「えっ。仲良く? どういうことですか? 私は勇者を知り、処分という命令では……」
『それも否定しないよ。けど、判断に任せるっていうのは、その必要が――』
ちょうど、その瞬間だった。
「きゅ~」
間抜けな鳴き声が聞こえ、リディアは反射的に翼を隠す。
そしておそるおそる背後を見ると……たぬきがいた。
うつらうつらと眠そうに、ふらふらしながら。
「ど、どうしたの?」
不安になりながら、リディアは尋ねる。
ベースはたぬきだが、コミュニケーション能力は強化され、ある程度の状況を理解できるようになっている。
裏切っていることがばれてないかと不安になったのだが……。
「うゆぅ」
傍に寄ってきて、上目遣いでこちらを見てくる。
どうやら寝ぼけ眼で彷徨っていた……いや、リディアを探していただろう。
わけもわからず不安な表情でリディアはたぬもちを抱きかかえる。
すると安心したのか、胸の中ですやりと眠りだした。
ちらっと、空を見る。
完全なる時間は、もうほとんど残っていない。
今から交信をするのは無理だ。
何を言いたかったのか、何を望んでいるのか、良くわからない。
それ以前に、重大な使命と言う割にはいまいち魔王のやる気も感じない。
ふわっとしていて、微妙にイラっとくる。
ちょっと裏切ってやろうかと思ったくらいに。
魔王には取り立ててくれた恩義はあるものの、雑な扱いに耐えるほどの恩義ではない。
とはいえ、薄情になりたいわけでもない。
少なくとも、魔王はリディアに対しいつでも誠実であったから。
だからまずは、次の交信でたぬきであることを理解してもらおう。
その上で、どうするか。
とはいえ……次に交信が叶うのは、いつになるかわからないが。
「まあ、しょうがない。出来ることをしましょう」
気持ちを切り替え、リディアは揺らさないよう速足で、エルンストの元に向かった。
自分に抱かれ、たぬもちさんが眠ったことを、自慢するために。
ありがとうございました。




