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処刑台から消えた泥棒猫、夜の帝王に拾われて狂愛の檻に堕ちる 〜喉元の傷は、蜜の味〜  作者: ましろゆきな


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第四章 月の刃、研がれる

 夜明けとともに、ヴェラが来た。

 ノックも挨拶もなく、扉を開け、リリスの肩を軽く叩いた。まだ薄暗い部屋の中で、ヴェラの目だけが冷静に覚めていた。

「起きてください。訓練です」

 それだけ言って、衣装棚から動きやすい服を取り出し、寝台の端に置いた。有無を言わせない手際だった。

 リリスは寝台の上で、しばらくヴェラを見た。

 この女は、ソルの腹心だ。第一章の頃から分かっていた。感情を見せず、しかし観察眼は鋭く、どんな状況でも乱れない。リリスが警戒していた相手の一人だったが、今はその印象が少し変わっていた。

 敵ではない。しかし友でもない。

 では何か。

 まだ言葉が見つからないまま、リリスは起き上がり、差し出された服に手を伸ばした。


 訓練場は、城の裏手にあった。

 石畳の広場。四方を高い壁に囲まれた、外から見えない空間。夜明けの光が壁の上から細く差し込んでいた。

 ヴェラは剣を二本持っていた。一本をリリスに差し出す。

「まず、持ち方から」

 リリスは受け取り、構えた。故国でも多少の護身術は習っていた。しかしヴェラはリリスの構えを一瞥しただけで、静かに首を振った。

「違います」

 剣を持つリリスの手首を、後ろから掴んだ。角度を修正する。

「力を入れすぎています。剣は握るものではなく、添えるものです。力んだ瞬間、相手にそれが伝わる」

 言いながら、ヴェラ自身は剣を構えた。同じ姿勢に見えるのに、その佇まいが全く違った。まるで剣が体の一部であるかのように、自然に、しかし一切の隙なく存在していた。

「剣の稽古は長くかかります。今日教えるのは、別のことです」

 ヴェラは剣を下ろし、リリスの正面に立った。

「視線の使い方です」

 リリスは首を傾けた。

「声を持つ者は、言葉で相手を制します。しかし声を持たない者が相手を制するには、視線だけで意図を伝えなければならない。それは訓練で身につくものです」

 ヴェラがリリスの目を、真っ直ぐに見た。

 圧があった。物理的な力ではない。しかしその視線の中に、明確な意志が込められていた。退け、と言われているような、しかし脅しとは違う、静かで確実な圧力。

「今、私はあなたに『動くな』と伝えました。言葉なしで。分かりましたか」

 リリスは頷いた。確かに、動けなかった。

「これを、あなたも使えるようになります。声がないことを、弱さにしないために」


 訓練は、三刻続いた。

 視線の訓練。扇の動かし方。指先の所作。立ち姿。歩き方。ヴェラは一つひとつを丁寧に、しかし妥協なく教えた。出来ていなければ何度でもやり直させた。褒めることはほとんどなかったが、貶すこともなかった。ただ淡々と、水準に達するまで繰り返させた。

 リリスは黙って従った。

 声を出せない分、不満も疑問も言葉にできない。指で宙に書けばヴェラは答えてくれたが、訓練の流れを止めることへの抵抗が、いつしかリリスの中に生まれていた。

 集中している時、余計なことを考えなかった。

 モニカの顔も、カイルの声も、崖の感触も、何もかもが遠のいた。視線の角度と、指先の緊張と、呼吸のリズムだけが世界になった。それが、奇妙なほど心地よかった。

 三刻目に入った頃、ヴェラが初めて言った。

「良くなりました」

 リリスは一瞬、その言葉の意味を測った。この女が「良くなった」と言う時、それは本当に良くなった時だけだ。お世辞でも励ましでもない。

 胸の中で、何かが微かに温かくなった。

 それが何なのか分からなくて、リリスは視線を壁に向けた。


 訓練が終わり、水を飲んでいた時だった。

 気配を感じた。

 壁の上、というより、城の二階の窓。そちらへ視線を向けると、影があった。一瞬だけ。すぐに消えた。

 ヴェラは何も言わなかった。

 リリスも何も書かなかった。

 しかしその影の輪郭に、見覚えがあった。漆黒の髪。静かに燃える深紅の瞳。

 見ていた。

 どのくらい前から、どのくらいの時間、見ていたのかは分からない。しかしその視線の重さだけは、確かに感じた。剣を構えている時も、視線の訓練をしている時も、あの気配はそこにあったのかもしれない。

 リリスは水の入った椀を持ったまま、しばらく動かなかった。

 見られることは、慣れていた。故国では社交界の華として、常に視線の中にいた。しかしあれは、「伯爵令嬢のリリス」を見る目だった。ドレスと笑顔と美声という包み紙ごと、品定めされる視線だった。

 ソルの視線は、違った。

 包み紙など最初からないかのように、中身だけを見ようとする目。それが、リリスには未だに慣れなかった。

 慣れたくない、と思う自分と、慣れてしまいたいと思う自分が、静かに綱を引き合っていた。


 夕刻、自室に戻ったリリスは、鏡の前に立った。

 毎日立っているはずの鏡だ。しかし今日は、少し違って見えた。

 銀髪は相変わらずだった。冷たい青の瞳も。チョーカーも。しかし何かが、変わっていた。

 姿勢、だと気づいた。

 訓練の前と後で、自分の立ち方が変わっている。背筋が、以前より自然に伸びていた。視線が、以前より定まっていた。ヴェラに何度も修正された結果が、知らないうちに染み込んでいた。

 鏡の中の自分が、少しだけ他人に見えた。

 以前の他人とは違う種類の他人。崖から落ちた直後の、何もかも失った抜け殻のような他人ではなく。もっと、芯のある。静かな、しかし何かを持っている目をした他人。

 この顔は、誰だ。

 リリスは鏡から目を逸らした。

 変わっていくことが、怖かった。変わった先に何があるのか、まだ見えないから。復讐を果たした後の自分が、どんな形をしているのか、想像できないから。

 それでも。

 訓練中に、余計なことを考えなかったあの時間が、頭から離れなかった。

 ノックがあった。

 扉を開けると、使用人が盆を持って立っていた。夕食ではなく、小さな包みだった。

「ソル様から」

 それだけ言って、去っていった。

 リリスは包みを開けた。

 中にあったのは、チョーカーだった。

 今まで使っていた黒革のものより、少し幅が広い。留め金の部分に、細かな細工が施されていた。月を模した銀の意匠。シンプルだが、一目で上質と分かる作りだった。

 一緒に、小さな紙が入っていた。

 書かれていたのは、一行だけだった。

 ――明日の訓練にも、着けていけ。

 命令だった。相変わらず、問いでも提案でもない。

 リリスは紙とチョーカーを交互に見た。

 傷を隠すためなら、今のもので十分だった。わざわざ新しいものを用意する必要はない。では、なぜ。

 答えは出なかった。

 リリスはチョーカーを手のひらに載せたまま、しばらく月の意匠を眺めた。

 銀色の月。プラチナシルバーの髪。この城では不吉ではなく、高貴だと言われる色。

 ソルは最初からそう扱っていた。リリスの銀髪を、一度も厭うような目で見たことがなかった。

 それが何を意味するのか、まだ分からなかった。

 ただ、チョーカーを首に当ててみた時、鏡の中の自分の目が、今日の訓練中と同じ色をしていた。

 定まった、静かな目。

 リリスは、そっと留め金を閉めた。

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