第五章 夜に咲く、復讐の蕾
一ヶ月が、静かに過ぎた。
城での日々は、規則正しかった。夜明けにヴェラが来る。訓練をする。食事をする。書物を読む。夕刻にソルと食卓を囲む。それだけだった。しかしその繰り返しの中で、リリスは少しずつ、確実に変わっていた。
変化は、他者の目に先に映った。
訓練場ですれ違う騎士たちが、最初は怪訝そうにリリスを見ていたが、今は違う目をしていた。視線を交わすだけで道を開ける。廊下を歩けば、自然と人が避ける。リリスが何かを命じるわけではない。ただ歩いているだけで、そうなった。
ヴェラが教えた通りだった。
声がなくても、人は動かせる。
食堂でも変化があった。ソルとの食事は毎日続いていたが、ある夜を境に、ソルが書類を持ち込まなくなった。以前は食事中も政務の書類を手元に置いていたのに、今はただリリスと同じ食卓の空気を共有するだけになった。
それが何を意味するのか、リリスにはまだ分からなかった。
ただ、居心地が悪くはなかった。
それが一番、分からなかった。
その日の夜、ソルの書斎に呼ばれた。
一ヶ月前と同じ扉。同じインクと紙の匂い。しかしリリスの中身は、あの夜とは別のものになっていた。椅子に腰を下ろす所作が、自分でも分かるほど変わっていた。背筋が、視線が、指先の置き方が、すべてヴェラの訓練の痕跡を帯びていた。
ソルは窓際に立っていた。夜の庭園を見下ろしながら、リリスが入ってきても振り返らなかった。
しばらく、沈黙があった。
リリスは待った。この男の沈黙には慣れた。急かしても意味がないことも、急かしたいと思わなくなっていることも、気づいていた。
ソルが口を開いた。
「来月、故国で夜会がある」
リリスの背筋に、微かな電流が走った。表情には出さなかった。
「王家主催の秋の大夜会だ。隣国の貴族も招かれる。私も出席する予定だった」
やっと振り返り、ソルはリリスを見た。
「お前を連れていく」
沈黙。
リリスは、その言葉の重さを静かに測った。故国。かつて自分が生きていた場所。モニカがいる場所。カイルがいる場所。処刑台から崖へ突き落とされた、あの国。
一ヶ月前だったら、その言葉を聞いただけで手が震えていたかもしれない。
しかし今は、震えなかった。
代わりに、胸の奥で何かが静かに燃え上がった。消えていたのではなく、ただ眠っていただけだった炎が。
リリスは机の上に書いた。
――なぜ、私を。
「使えるからだ」
即答だった。
「銀髪の美女。声なき謎の女。私の隣に置けば、場の空気を変える。社交界というのは、見た目と噂で動く。お前はその両方を持っている」
道具として、と言いたいのか。
リリスは一瞬そう思ったが、続くソルの言葉がその解釈を崩した。
「それだけではない」
ソルは机に近づき、引き出しから一枚の書類を取り出した。リリスの前に置く。
文字が並んでいた。名前、日付、金額、取引の記録。見慣れた家名が、いくつも散らばっていた。
リリスは紙を見た。それから、ソルを見た。
「お前の義姉が、お前の父の遺産から横領した金の流れだ」
ソルが静かに言った。
「お前が崖から落ちた夜から、調べていた」
調べていた。
その言葉が、リリスの頭の中で静かに転がった。一ヶ月前から。いや、もっと前から。岸辺で拾った時から、あるいはそれ以前から、この男はリリスの過去を調べていた。
リリスはもう一枚、紙を見た。別の書類だった。そちらには、別の名前があった。
カイル。
騎士団長としての判断記録。リリスへの断罪を承認した署名。そしてその後の動向。モニカとの関係。故国での現在の立場。
すべてが、そこにあった。
リリスは紙から目を上げ、ソルを見た。
「怒っているか」
ソルが聞いた。
リリスは少し考えて、首を横に振った。
怒っていない。怒る理由がない。この男が調べていたのは、リリスを陥れるためではない。それは分かった。では何のために。
リリスは書いた。
――いつから、こうするつもりだったのか。
「お前が生き残ると確信した夜から」
ソルは答えた。
「岸辺で拾った時、お前は死にかけていたが、目が死んでいなかった。何かへの執着を持った目だった。そういう人間は、使える」
使える。
その言葉は、一ヶ月前には冷たく響いただろう。しかし今、リリスはその言葉の裏側を読んでいた。この男が「使える」と言う時、それは道具として消費するという意味ではない。対等な駒として認める、という意味だ。
リリスはもう一度、書類を見た。
モニカが横領した金額は、想像より大きかった。カイルの関与も、想像より深かった。しかしそれ以上に、この情報網の精度が、リリスの想像を遥かに超えていた。
一ヶ月で、これだけ集めた。
この男は、夜の世界で何をしているのか。
リリスは書いた。
――あなたの目的は何か。私の復讐を助けることで、あなたは何を得る。
ソルは少し間を置いた。
これまでで一番長い間だった。
「故国の王は、私に対して長年、敵対的な姿勢を取っている。夜会でお前を使って揺さぶりをかければ、王の周辺が動く。その隙に、私が欲しい情報が手に入る」
淡々とした答えだった。
「お前の復讐と、私の政略が、たまたま同じ方向を向いている。それだけのことだ」
たまたま。
リリスはその言葉を噛み締めた。この男は「助けてやる」とは言わない。「お前のために」とも言わない。互いの利益が一致しているという事実だけを、乾いた言葉で提示する。
それが、奇妙なほど誠実に感じた。
同情でもなく、施しでもなく、ただ対等な取引として扱われている。
リリスは一度だけ、深く息を吸った。
それから書いた。
――条件を聞かせろ。
ソルの口の端が、わずかに上がった。今まで見た中で、一番はっきりとした笑みだった。
「夜会では、私の隣に立て。私が動く時は、お前も動け。それだけだ」
隣に、立て。
その言葉の重さを、リリスはしばらく静かに受け取った。
後ろではなく、前でもなく、隣。この男が他者をそこに置くことが、どれほど稀なことか。ヴェラの言葉が蘇った。手放したことがない、という言葉が。
リリスは頷いた。
ソルは書類を引き取り、机の引き出しに戻した。話は終わり、というように。
リリスは立ち上がり、扉へと向かった。
しかし途中で、足が止まった。
振り返らずに、リリスは空中に指を走らせた。ソルには見えない。それでも書かずにはいられなかった。
――ありがとう。
声に出せない言葉だった。指先にしか存在しない言葉だった。
ソルに届いたかどうかは、分からない。
自室に戻る廊下で、リリスは一人、夜の庭園を窓越しに見た。
月が出ていた。
来月、あの国へ戻る。
モニカがいる。カイルがいる。かつて自分を葬った者たちが、何も知らずに生きている場所へ。
怖いか、と自分に問うた。
答えは、出なかった。怖くないとは言えなかった。しかし一ヶ月前の、ただ復讐の炎だけで動いていた自分とも、今は違う。
ソルの言葉が頭にあった。
隣に立て。
この男が何を考えているのか、まだすべては分からない。感情を見せない。本心を語らない。しかし一つだけ確かなことがあった。
この男はリリスを、「可哀想なリリス」として見ていない。「失われた陽光の令嬢」としても見ていない。今のリリスを、今のまま、隣に置こうとしている。
それが何を意味するのか、まだ言葉にならなかった。
ただ、胸の中の炎が、復讐の色だけではなくなっていることに、リリスは静かに気づいていた。
チョーカーの月の意匠を、指先でそっと触れた。
銀色の月が、窓の外で静かに輝いていた。




