第二章 沈黙の食卓
翌朝、ヴェラが新しいドレスを持ってきた。
深い紺碧の生地に、銀糸の刺繍。故国では喪服に近い色合いだったが、この国では違うのかもしれない。リリスは鏡の前でそれを纏いながら、ぼんやりとそんなことを考えた。
鏡の中の自分が、他人のように見えた。
銀髪。青い瞳。纏うものだけが上等になって、中身は岸辺に打ち上げられた死体も同然。そのちぐはぐさが、どこか可笑しかった。笑う気力もなかったが。
「喉の包帯を、チョーカーに替えましょう」
ヴェラが言った。
細い黒革のチョーカーを、リリスの首に沿わせる。傷がすっぽりと隠れた。鏡の中で、それはまるで最初からそこにあったかのように馴染んでいた。
「目立ちません。ただ、外見上は」
ヴェラが静かに付け加えた。その言葉の意味を、リリスはすぐに理解した。隠れるのは、傷だけだ。傷を作った者への憎しみは、どこにも収まらない。
リリスは頷き、立ち上がった。
食堂へと続く廊下は、長かった。
城の規模を、リリスはまだ正確に把握していなかった。回復したとはいえ遠出をする気力はなく、与えられた部屋とその周辺だけが、今のリリスの世界だった。しかしこの廊下を歩くだけで、この城がいかなる場所かは十分に伝わってきた。
天井まで届く窓から差し込む朝の光。磨き上げられた大理石の床。飾られた絵画や彫刻は、いずれも一目で高価と分かるものばかりだった。しかしそれ以上に、すれ違う使用人たちの所作が雄弁だった。誰もが完璧に訓練されており、誰もが表情を殺していた。この城に仕える者たちは、余計なものを見せない術を身につけている。
それでも、リリスの姿を見た者たちが、微かに目を見張るのは隠せていなかった。
銀髪への驚き。あるいは、この城に場違いな存在への戸惑い。
どちらでもよかった。他人の目など、もうずっと前から。
ヴェラが扉を開けた。
食堂は、二人で使うには広すぎた。
長い卓の一方の端にソルが座っており、その右手側に席が用意されていた。向かいではなく、隣。その配置の意味を考えながら、リリスは音もなく着席した。
ソルは書類に目を落としていた。リリスが座っても顔を上げない。広い食堂に、紙をめくる微かな音だけが響いた。
やがて、静かに書類を伏せ、ソルはリリスを見た。
「待たせた」
謝罪ではなく、確認だった。
リリスは首を振った。気にしていない、という意味で。
料理が運ばれてきた。湯気の立つスープ、焼いた肉、色とりどりの野菜。故国でも裕福な暮らしをしていたリリスだが、この食卓の質は明らかに格上だった。
食事が始まっても、会話はなかった。
ソルは淡々と食べていた。無駄のない動作。食事を楽しんでいるのか、ただこなしているのか、表情からは読み取れない。リリスも、無言でスプーンを動かした。声が出ないのだから、沈黙は当然だ。しかし、この男との沈黙は不思議と息苦しくなかった。
ただ、視線は感じた。
食事をしながら、ソルが時折リリスを見ていた。品定めするような、あるいは何かを測るような目。リリスはその視線を正面から受け取らず、ただスープを飲み続けた。
見るなら見ればいい。
どうせこの男にとって、リリスは珍しい拾い物に過ぎない。興味が尽きれば捨てられる。それまでに、この男の持つ力を使って復讐を果たせばいい。感謝もいらない。情も要らない。利用し、利用される。それだけの関係だ。
そう思った矢先、ソルが口を開いた。
「故国に、敵がいるな」
リリスの手が止まった。
スープの中を見つめたまま、動けなかった。一瞬だけ。しかしその一瞬で十分だったらしく、ソルは続けた。
「岸辺で拾った時から、そんな顔をしていた。死を望みながら、しかし何かへの執着で辛うじて繋がっている目だ」
リリスはゆっくりと顔を上げた。
ソルの深紅の瞳が、真っ直ぐこちらを向いていた。好奇心とも同情とも違う。もっと乾いた、しかし奇妙なほど正確な観察眼。
リリスは、テーブルの上の指で、ゆっくりと文字を書いた。
――なぜ、そう思う。
「お前は食事をしながら、一度もこの料理を見ていない」
ソルは淡々と言った。
「視線が遠い。ここではないどこかを見ている。そういう目は、過去に囚われているか、未来の何かを待っているかのどちらかだ」
リリスは答えなかった。
「どちらだ」
長い沈黙。
リリスはテーブルの指先に、一文字だけ書いた。
――後者。
ソルの口の端が、わずかに上がった。笑みと呼ぶには冷たすぎる、しかし確かな反応だった。
「そうか」
それだけ言って、ソルは再び食事に戻った。追及も、助言も、余計な言葉も何もない。ただ「そうか」の一言で、この話題を閉じた。
リリスは、その反応を測った。
踏み込んでこない。しかし興味は失っていない。この男は、リリスが何を考えているかを知りながら、あえて聞かない。なぜだ。道具として使うつもりなら、もっと詳しく事情を聞き出そうとするはずだ。
では、何のために。
答えが出ないまま、食事は続いた。
食後、ソルが立ち上がりかけた時、リリスはテーブルに指を走らせた。
――なぜ、拾った。
ソルは動きを止めた。振り返り、リリスを見る。少しの間、何かを考えるように間があった。
「退屈だったからだ」
やがて、そう答えた。
「岸辺に銀髪の女が倒れていた。珍しかった。それだけだ」
それだけ、か。
リリスは静かにソルを見た。その答えが本当かどうか、確認する術がなかった。しかしこの男が嘘をつく必要もないだろう、という感覚もあった。権力も財力も持つ者が、死にかけの流れ者を拾う理由として、「退屈」は案外正直な答えかもしれなかった。
ソルは続けた。
「お前が望むなら、この城に置いてやる。望まないなら、今すぐ出ていけ」
淡々とした声だった。
「ただし」
一歩、こちらへ近づいてきた。
「私の城にいる間は、私の言葉に従え。それだけが条件だ」
リリスはソルを見上げた。深紅の瞳が、真上から注がれている。威圧感があった。しかしそれは暴力的なものではなく、ただこの男が持つ重力のようなものだった。逃げることを許さない、しかし無理に縛りもしない。
リリスは少しの間考え、頷いた。
ソルの目が、また微かに細くなった。
「賢い選択だ」
それだけ言って、今度こそ食堂を出ていった。
一人残されたリリスは、しばらくテーブルの上の食器を眺めていた。
条件は、従うこと。それだけ。
この男は、リリスの事情を知ろうとしなかった。復讐の相手が誰かも、なぜ喉に傷があるかも、なぜ岸辺に倒れていたかも、何一つ聞かなかった。ただ「従え」とだけ言った。
道具として使うにしては、扱いが雑すぎる。
飼い殺すにしては、自由が多すぎる。
この男の意図が、リリスにはまだ読めなかった。
チョーカーの端を、指先でそっと触れた。革の冷たさが、喉元の傷を思い出させる。モニカの笑顔。カイルの蔑んだ目。すべてを焼き尽くしてやると、あの夜に誓った怒り。
それはまだ、消えていなかった。
ならば、ここにいよう。
この男が何者であれ、何を求めているのであれ、今のリリスには行く場所がない。そしてこの城には、リリスが欲しいものがある。力と、情報と、故国へ届く手が。
ソルを利用する。
そう決めた。
しかし食堂を出る際、廊下でヴェラとすれ違った時、ヴェラが静かに言った。
「ソル様が、お客様と二度食事をされるのも、初めてのことです」
リリスは立ち止まり、ヴェラを見た。
「あの方は、一度興味を持った相手を手放しません」
それだけ言って、ヴェラは深々と一礼し、廊下の奥へと消えていった。
リリスは一人、その言葉の重さを測りながら、自室への廊下を歩いた。
利用するつもりだった。
しかし今、どちらが誰を利用しようとしているのか、少しだけ、分からなくなっていた。




