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処刑台から消えた泥棒猫、夜の帝王に拾われて狂愛の檻に堕ちる 〜喉元の傷は、蜜の味〜  作者: ましろゆきな


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第一章 帝王の檻

 最初に感じたのは、温もりだった。

 冷たい岸辺で意識を失ったリリスにとって、それはひどく場違いで、ひどく罪深いものに思えた。柔らかな寝台。清潔なシーツ。肌に触れる空気さえ、どこか甘い香りを含んでいる。

 ここは、どこだ。

 重い瞼を持ち上げると、天蓋の白い布が視界に広がった。見たことのない紋様の刺繍。見たことのない意匠の燭台。揺れる炎が、室内を柔らかな金色に染めている。

 金色。

 その色を見た瞬間、何かが胸の底で疼いた。かつての自分の髪の色。もう、存在しない色。

 ゆっくりと首を動かした時、リリスは気づいた。

 部屋の中に、人がいる。

 窓際の椅子に、男が座っていた。脚を組み、頬杖をつき、こちらへ視線を向けたまま、微動だにしない。漆黒の髪が、窓から差し込む朝の光を吸い込んでいる。深紅の瞳が、まるで標本でも眺めるように、静かにリリスを見ていた。

 あの夜の男だ、とすぐに分かった。

 岸辺で膝を折り、泥まみれの手に唇を落とした男。その行為の意味を問う余裕も気力もなかったが、この瞳だけは記憶に残っていた。

 男は何も言わなかった。

 リリスも、言えなかった。声が出ないから、ではない。この沈黙の中で何かを発しようとする気力が、まだ戻っていなかった。

 二人はしばらく、ただ見つめ合っていた。

 先に動いたのは男の方だった。ゆっくりと立ち上がり、一歩、また一歩と近づいてくる。リリスは身体を起こそうとしたが、全身が軋んでそれを拒んだ。逃げることも、抗うことも、今の自分にはできない。

 男はリリスの傍らに立ち、無言のまま見下ろした。

 長い沈黙の後、低い声が落ちてきた。

「生きているな」

 感慨も、安堵も、喜びもない。ただの確認だった。まるで壊れ物が無事かどうかを検める職人のような、乾いた声。

 リリスは、頷いた。

 男の深紅の瞳が、わずかに細くなった。

「名は」

 リリスは口を開いた。声は出なかった。唇だけが、かつての名前の形を作った。

 男はそれを見て、少しの間だけ黙った。

「声が出ないのか」

 頷く。

「喉か」

 また、頷く。

 男の視線がリリスの喉元へと落ちた。そこには、まだ包帯が巻かれているはずだった。男は特に表情を変えることなく、しかしその視線だけが、一瞬だけ鋭くなった。

「ソルだ」

 唐突に、男は言った。

「この国の王。お前を拾った者の名だ。覚えておけ」

 王。

 その言葉がリリスの頭の中で転がった。隣国の王。夜の世界の帝王、という噂は、故国にいた頃にも耳にしたことがあった。残酷で、冷徹で、退屈を何より嫌うと言われる男。

 しかし目の前にいるのは、ただ静かに、しかし確実にこちらを値踏みしている男だった。

 ソルはリリスが何か反応を示すのを待つこともなく、踵を返した。

「ヴェラ」

 扉の外へ向けて、短く呼んだ。

 すぐに扉が開き、一人の女が入ってきた。黒い侍女服。感情を映さない、涼やかな目。年齢はリリスより少し上だろうか。その所作には、一切の無駄がなかった。

「お目覚めになりましたか」

 ヴェラはリリスへ視線を向け、静かに一礼した。その目が、ほんの一瞬だけ、何か複雑なものを含んだように見えた。

「世話をしろ。必要なものはすべて与えよ」

 ソルはそれだけ言うと、部屋を出ていった。

 扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。


 ヴェラは有能だった。

 リレスが口を開かずとも、視線と指先の動きだけで必要なものを察した。湯浴みの手配、清潔な衣服、消毒し直された喉の傷への新しい包帯。すべてが滞りなく、しかし押しつけがましくなく進んでいった。

 食事を運んできたのは、若い使用人の少女だった。少女はリリスの顔を見た瞬間、微かに息を呑んだ。

 銀髪のせいだ、とリリスは思った。

 この国では不吉な色とされているのか。あるいは単純に驚いているのか。どちらでもよかった。他人の視線など、もうずっと前から気にならなくなっていた。

 少女が去り際に、廊下にいた別の使用人と小声で言葉を交わすのが聞こえた。

「……まだいらっしゃるの? ソル様が、あの方の部屋に?」

「夜明け前からよ。ずっと、ただ見ておられるだけで」

「そんなこと、今まで一度もなかったじゃない。拾ってきた人間にあれほど……」

 声が遠ざかった。

 リリスは静かに食事の椀を見下ろした。

 一晩中、見ていた。

 その事実は、恐怖でも安堵でもなく、ただ奇妙な重さとしてリリスの胸に沈んだ。この男が何を考えているのか、まだ何も分からない。しかし少なくとも、今すぐ殺されるわけではないらしい、ということは分かった。

 それで十分だった。今のリリスには。


 数日が経った。

 リリスの身体は少しずつ回復していった。傷の痛みは引き、食事も取れるようになった。ただ声だけは、戻らなかった。戻ることは、もう永遠にないだろうとリリスは思っていた。あの夜、モニカが焼いたものは、声帯だけではなかった気がしていた。

 ソルは毎日来た。

 決まった時間があるわけではなく、朝のこともあれば深夜のこともあった。長い時には一刻ほど滞在し、短い時には扉を開けてリリスの顔を確認するだけで去っていった。会話らしい会話はほとんどなかった。ソルが短く問い、リリスが頷くか首を振るか、あるいは指で文字を宙に書いて答える。それだけだった。

 ヴェラが、着替えを手伝いながら静かに言った。

「驚いていらっしゃいますか」

 リリスは視線で問い返した。

「ソル様が、これほどご執心になることは珍しいのです。あの方が自ら岸辺へ出向かれることも、拾ってきた者の部屋へ足を運ばれることも、私がお仕えして以来、初めてのことです」

 ヴェラは淡々と語りながら、リリスの銀髪を丁寧に梳いた。

「何が主の興味を引いたのか、私には分かりません。ただ」

 一瞬だけ、ヴェラの手が止まった。

「あなたが並大抵の方ではないことは、分かります」

 リリスは鏡の中の自分を見た。

 銀髪。冷たい青の瞳。喉元を覆う包帯。どこからどう見ても、生きることを半分諦めた女の顔だった。並大抜ではない、と言われる理由が、リリスには分からなかった。


 その夜、ソルが来た時、リリスは窓際に座って外を見ていた。

 夜の庭園。整然と並ぶ木々。遠くに見える城壁の向こうに広がる、見知らぬ国の夜景。ここはもう、自分が生きていた世界ではない。

 ソルはいつものように椅子に腰を下ろし、リリスを見た。

「包帯を、外せるか」

 唐突な言葉だった。

 リリスは振り返り、ソルの顔を見た。何かを試すような、あるいはただ純粋に確認したいだけの、感情の読めない瞳。

 少しの間、迷った。

 しかし結局、リリスは自分で包帯の端を解いた。ゆっくりと、喉元が露わになっていく。焼けただれた痕。醜く引きつれた皮膚。かつて美しいと言われた喉に刻まれた、消えることのない傷。

 ソルは立ち上がり、近づいてきた。

 リリスの顎をわずかに持ち上げ、傷を覗き込む。その指先は、驚くほど静かだった。暴力とも愛撫とも違う、ただ観察するだけの触れ方。

 長い沈黙の後、ソルは言った。

「誰がやった」

 リリスは、答えなかった。

 ソルも、それ以上は問わなかった。ただ、その深紅の瞳の奥に、初めて人間らしい何かが揺れたような気がした。

 怒りとも、好奇心とも、違う何か。

 ソルはリリスの傍らから離れ、扉へと向かった。しかし部屋を出る直前、振り返ることなく言った。

「明日から、食事は私と取れ」

 命令だった。問いでも提案でもない、一方的な命令。

 扉が閉まった後、リリスはしばらくその言葉の意味を考えた。

 利用されるのだろうか。あるいは、珍しい玩具として扱われるのだろうか。どちらでも構わなかった。この男が何らかの思惑を持ってリリスを拾ったのであれば、リリスもそれを利用すればいい。

 復讐のための駒が、一つ増えた。

 そう思おうとした。

 しかし夜が深まるにつれ、ソルの指先の静けさが、何度も頭の中に戻ってきた。

 あの手は、リリスの傷を、醜いものとして見ていなかった。

 それがなぜか、ひどく落ち着かなかった。

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