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処刑台から消えた泥棒猫、夜の帝王に拾われて狂愛の檻に堕ちる 〜喉元の傷は、蜜の味〜  作者: ましろゆきな


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序章 陽光の葬送

 空が、遠い。

 リリスの背中が虚空を切り裂いた瞬間、最初に感じたのは痛みではなく、奇妙な静寂だった。風が耳元で唸りを上げ、金色の髪が炎のように広がる。眼下には灰色の岩肌と、白く泡立つ川面。それらがゆっくりと、しかし確実に迫ってくる。

 ああ、と思った。声にならない、ただの息の形をした言葉。

 もう、声は出ない。

 喉元が疼いた。あの夜から、ずっとそうだ。


 三日前。地下牢。

 石造りの壁が滲む湿気の中で、リリスは鎖に繋がれていた。両手首に食い込む鉄の冷たさよりも、目の前に立つ女の笑顔の方が、ずっと寒かった。

「ねえ、リリス。あなたの声、本当に綺麗だったわよね」

 モニカが、そう言った。後妻の連れ子。義姉と呼ぶには、その瞳に宿るものがあまりにも歪んでいた。

 手の中で、細い金属棒が赤く輝いている。暖炉の火で、念入りに熱されたそれを、モニカはまるで宝石でも扱うように指先で回した。

「カイル様があなたの歌声を褒めていたから、ずっと気になっていたの。どんな声が出るのかしら、今」

 リリスは叫ぼうとした。助けを呼ぼうとした。しかし次の瞬間、灼熱が喉元を襲い、言葉も悲鳴も、何もかもが焼き潰された。

 残ったのは、沈黙だけだ。

 モニカの笑い声が、遠くなった。近くなった。リリスの意識は痛みの波に攫われながら、それでも一点だけを掴もうとしていた。

 ――カイルが来る。カイルが来れば、きっと。

 その希望だけが、あの夜のリリスを繋ぎ止めていた。


 二日前。断罪の広場。

 希望は、あっさりと踏み潰された。

 騎士団の白い外套。磨き上げられた剣の柄。カイルは、かつてリリスが愛した通りの凛々しい姿で、そこに立っていた。

 ただ、その目が違った。

 リリスを見る目が、――ひどく、汚いものを見るような色をしていた。

「証拠は揃っている。伯爵殺し、国宝の横領。お前がやったことだ」

 リリスは首を振った。違う、と口の形だけで訴えた。声はもう、出なかった。

「言い訳か。声も出ないくせに」

 カイルの言葉は、静かだった。静かであるほど、深く刺さった。

「お前のような泥棒猫に、これ以上関わるつもりはない」

 泥棒猫。

 その言葉が、リリスの胸の中で何かを砕いた。陶器が割れるような、小さくて、取り返しのつかない音がした。

 処刑台へと続く石畳を歩かされながら、リリスはもう泣かなかった。涙を流すための何かが、すでに枯れ果てていた。


 落下が、続いている。

 回想が霧散し、リリスは再び現実の中にいた。冷たい風。迫る水面。全身を叩く衝撃の予感。

 可笑しい、とどこかで思った。

 父を愛していた。カイルを愛していた。この国を、この空を、この自分の声を愛していた。それがすべて、一枚の偽りの告発状と、一本の焼けた金属棒で、塵になった。

 生きていたい、とは思わなかった。

 ただ。

 ただ、悔しかった。

 その感情だけが、落下する身体の中心で、小さく、しかし消えずに燃えていた。

 水面が、砕けた。


 どれほどの時が経ったのか、分からない。

 気がつけば、リリスは岸辺に横たわっていた。異国の香りがする土。見知らぬ星空。全身が軋み、喉が燃えるように痛む。指先に力が入らない。

 死んで、いないのか。

 瞼を開けるだけで、膨大な体力を消耗した。濡れた髪が頬に貼り付いている。その色が、目の端に映った。

 ――銀色だった。

 あれほど誇らしかった金色が、嘘のように消えていた。月光を溶かしたような白銀が、泥と水に濡れながら、夜の岸辺に静かに広がっている。

 リリスは、それを見ても何も感じなかった。

 何も感じないほど、空っぽだった。

 砂を掴もうとした指が、力なく落ちた。意識が遠のいていく。このまま眠れば、もう目が覚めなくてもいい、とさえ思った。

 その時。

 足音が、した。

 一歩、また一歩。急がず、しかし迷いもなく、こちらへ近づいてくる足音。

 重い瞼を持ち上げると、夜の闇を背負った人影が見えた。漆黒の髪。静かに燃える深紅の瞳が、倒れたリリスを見下ろしている。

 その男は、ひどく退屈そうな顔をしていた。

 しかしおもむろに膝を折り、泥まみれのリリスの手を取ると、その手の甲に、静かに唇を落とした。

「珍しいものを拾った」

 低い声が、夜に溶けた。

 リリスには、もう抗う力も、理解する力も残っていなかった。ただ、その深紅の瞳だけが、落ちていく意識の最後に焼きついた。

 陽光の淑女は、この夜に死んだ。

 月の魔女が、今、産声を上げる――声なき、沈黙の産声を。

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