第9話 はじまりの音
その客の名前を聞いたとき、私は思わず顔を上げた。
もちろん、店主は何も言わなかった。
帳簿に名前を書きつける手も、いつもと同じ速さだった。
けれど私は、その名を知っていた。
神崎玲司。
世界的なピアニストだ。若くして国際コンクールを制し、海外の大きなホールでも演奏してきた。テレビに出るような派手な人ではないが、音楽に少しでも関心があれば、一度は名前を聞いたことがあるはずだった。
ただ、最近は公の場で演奏していない。
体調不良だとか、解釈の見直しだとか、表向きにはいろいろ言われていたけれど、本当の理由はわからなかった。少なくとも、私はそう思っていた。
「今日は、購入で」
神崎はそう言って、椅子に腰を下ろした。
年齢は四十前後だろうか。整った顔立ちをしていたが、目の下には薄く疲れが滲んでいた。指先は細く長く、膝の上で静かに重ねられている。その手だけ見れば、今でも完璧に弾けそうだった。
「どのような記憶をお探しですか」
店主が尋ねる。
神崎は少しだけ黙ってから答えた。
「人前で、弾けるようになりたいんです」
私は息を潜めた。
「弾けないのですか」
「正確には、弾けなくなる」
神崎は自分の言葉を確かめるように、ゆっくり続けた。
「練習室では問題ありません。家でも弾ける。音も、指も、覚えている。けれど、本番になると駄目なんです。舞台に出て、客席の気配を感じた瞬間、指が鍵盤の上で止まる。頭では次の音がわかっているのに、体が拒む」
店主は黙って聞いていた。
「最初は一度だけでした。疲れていたのかもしれないと思った。でも次も、その次も同じだった。今はもう、公演の依頼を断っています」
神崎の声は平坦だった。
感情を抑えているというより、何度も同じ説明をしてきた人間の声だった。
「医者にもかかりました。休養も取った。カウンセリングも受けた。けれど、舞台の上でだけ、どうしても駄目なんです」
そこで神崎は、わずかに視線を落とした。
「弾けない自分を見るのが怖い」
その一言だけが、妙に生々しく響いた。
世界的なピアニスト。
そう呼ばれる人間でも、壊れるときはこんなふうに壊れるのかと思った。
「成功した記憶を買えば、変わるでしょうか」
神崎がそう言ったとき、私は少し前の客のことを思い出した。
成功の記憶を手放した男。
あの記憶が誰かを支えることもあるのだろうかと、考えたばかりだった。
けれど店主は、すぐにはうなずかなかった。
「おすすめはしません」
「なぜですか」
神崎は意外そうに眉を動かした。
「あなたに必要なのは、上手くいった記憶ではないからです」
「では、何が必要なんです」
店主は少しだけ棚のほうへ目を向けた。
それから、静かな声で言った。
「弾けたかどうかより先に、弾きたかった頃の記憶です」
神崎は黙った。
「成功の記憶は、結果を支えにはしてくれます。ですが、結果に怯える人には、かえって重くなることがある」
「……」
「あなたはもう、十分に成功をご存じでしょう。足りないのは、別のものです」
私はその言葉を聞きながら、静かに息をついた。
成功が人を支えることもあれば、縛ることもある。店主はたぶん、それをよく知っている。
「ありますか、そんな記憶が」
神崎が低く尋ねた。
「ひとつだけ」
店主は立ち上がり、棚の奥から小瓶を取り出した。
それは派手な光ではなかった。
賞賛や歓声を閉じ込めた記憶のような強さはない。もっと淡く、やわらかい色をしていた。夕方の窓辺に落ちる光のようにも見えた。
「古いアップライトピアノの記憶です」
「誰の」
「もう売り手の名に意味はありません。ただ、幼い頃の記憶です。習い始めたばかりの子どもが、誰に聴かせるでもなく、ただ音が鳴るのを面白がっていた」
神崎の目が、小瓶に向けられる。
「上手く弾けた記憶ではありません。褒められた記憶でもない。ただ、鍵盤に触れれば音が返ってくることが嬉しかった、その感覚だけが残っている」
「そんなもので……」
神崎は言いかけて、口を閉じた。
そんなもので、と思ったのだろう。
世界の舞台に立ってきた人間が、いまさら子どもの記憶ひとつで何か変わるのかと。
けれど店主は、少しも揺れなかった。
「音楽を続ける理由は、人によって違います」
「……」
「ですが、壊れた場所が拍手の中にあるなら、戻る入口は拍手の前にあることが多い」
神崎は長いこと黙っていた。
店の中は静かで、時計の音だけが小さく響いていた。
やがて神崎は、小瓶から目を離さないまま言った。
「それを、見せてください」
店主はうなずいた。
記憶の閲覧は短い。
深く沈むほどではなく、表面に触れる程度のものだ。それでも、人によってはそれだけで十分なことがある。
神崎が小瓶に触れた瞬間、表情がわずかに変わった。
私はその顔を見ていた。
驚いたようでもあり、戸惑ったようでもあった。
けれど、いちばん近いのは、思い出してしまった人の顔だった。
たぶんそこには、古い部屋があった。
少し黄ばんだ鍵盤。窓から差し込む西日。足の届かない椅子。たどたどしく押した鍵盤から、思いがけず大きな音が返ってきて、自分で笑ってしまうような時間。
誰かに認められるより前の音。
上手いかどうかも知らないまま、ただ鳴らすことが楽しかった頃の音。
神崎はそっと手を離した。
「……懐かしい、わけじゃない」
独り言のように言う。
「私の記憶ではないから当然ですが」
「ええ」
「でも、わかる気がする」
神崎は小さく息を吐いた。
「昔、確かにこういう時間があった。誰かに聴かせるためじゃなく、コンクールのためでもなく、ただ音が好きだった時間が」
その声は、さっきまでより少しだけ柔らかかった。
「これを、落札します」
店主は静かにうなずいた。
手続きは淡々と進んだ。
神崎は最後まで大きく感情を見せなかったが、小瓶を受け取る指先だけは、最初よりわずかに力が抜けていた。
帰り際、扉の前で神崎はふと立ち止まった。
「これで、また弾けるようになるでしょうか」
店主は少しだけ考えてから答えた。
「保証はできません」
「そうでしょうね」
神崎は苦く笑った。
「ですが」
店主は続けた。
「最初の一音を、怖がらずに済むかもしれません」
神崎はその言葉を聞いて、しばらく黙っていた。
それから、ほんのわずかにうなずいた。
「それで十分です」
そう言って、店を出ていった。
扉が閉まり、静けさが戻る。
私はしばらく何も言えなかった。
世界の舞台に立ってきた人が求めたのが、栄光でも自信でもなく、ただ楽しかった頃の音だったことが、妙に胸に残っていた。
「意外そうな顔をしている」
店主が帳簿を閉じながら言った。
「成功した記憶を勧めるのかと思ってた」
「場合による」
「今回は違った」
「あの人は、弾けないのではなく、弾く前に負けていた」
私は棚のほうを見た。
そこには、まだいくつもの記憶が眠っている。
成功の記憶も、後悔の記憶も、誰かにとっては救いになるかもしれない光も。
「じゃあ、あの記憶で治るの」
「治るとは限らない」
店主はいつもの調子で言った。
「記憶は薬ではない。ただ、忘れていた入口を思い出させることはある」
入口。
その言葉が、妙にしっくりきた。
大きな舞台へ戻るための入口ではない。
もっと手前の、音に触れたいと思った最初の場所へ戻るための入口だ。
数日後、店に一通の封書が届いた。
差出人の名を見て、私はすぐにわかった。
神崎玲司だった。
店主は封を切り、中の便箋に目を通した。
私は黙って待った。
「何て」
「短い」
店主はそう言って、便箋を畳んだ。
「久しぶりに、音が怖くありませんでした、と」
それだけだった。
公演を再開したとも、イップスが治ったとも書かれていない。
けれど、その一文だけで十分な気がした。
私は窓の外を見た。
薄い午後の光が、通りの端に静かに落ちている。
拍手のない部屋で鳴った最初の一音を、私は知らない。
けれどきっとそれは、どんな喝采よりも小さく、どんな喝采よりも大事な音だったのだろう。
はじまりの音とは、たぶんそういうものだ。
誰にも気づかれない場所で、ひっそりと戻ってくる。




