第10話 返事のない名前
会社を出て、そのまま家に帰る気になれない夜がある。
そんな夜、私はこの店へ寄る。
その日も、店主の淹れたコーヒーを飲みながら、取り留めのない話をしていた。
扉の鈴が鳴って振り向くと、ひとりの男が入ってきた。
年は四十代半ばくらいだろうか。痩せた頬に深い隈が落ちていて、きちんとした身なりをしているのに、どこか整いきらない印象があった。ネクタイの結び目が少しだけずれている。
「連絡していた者です」
男はそう言って、店主を見た。
「お名前を」
「結城直人」
店主は帳簿にその名を書きつけた。
「本日は、売却ですか。落札ですか」
「落札で」
低い声だった。
よく通るのに、どこか乾いている。
「どのような記憶をお探しですか」
結城は少しだけ間を置いてから答えた。
「子どもを亡くした記憶を」
思わず、カップを持つ手が止まった。
店主は表情を変えない。
ただ、いつもより少しだけ静かな声で言った。
「理由を伺っても」
結城はうなずいた。
「私は小児科医です」
その言葉に、私は男の顔を見直した。
白衣を着ていなくても、たしかにそういう人に見えた。何かを告げる側の人間にだけ残る、静かな疲れのようなものがあった。
「長く、子どもを診てきました。助かった子もいます。助けられなかった子もいる」
結城の視線は、私たちではなく、店の奥のどこかに向いていた。
「最初の頃は、一人亡くなるたびに眠れませんでした。名前も顔も忘れられなかった。家に帰っても、その子のことばかり考えていた。あのとき別の判断ができたのではないか、もっと早く気づけたのではないかと」
そこで結城は一度言葉を切った。
「でも、何年も続けるうちに、変わりました。変わらなければ、続けられなかったんです。いちいち全部を抱えていたら、壊れる。だから少しずつ、心が鈍くなっていった」
店主は黙って聞いている。
「泣かなくなりました。もちろん、何も感じないわけではない。つらいとは思う。気の毒だとも思う。親御さんの前では、できる限り誠実であろうと努めてきました。でも、昔のようには眠れなくならない。家に持ち帰らない。そうやって、私は仕事を続けてきた」
結城はそこで、初めて少しだけ目を伏せた。
「そして、三週間前に、自分の子どもが死にました」
店の空気が、わずかに沈んだ気がした。
「七歳でした。肺炎でした。急変して、あっという間でした」
私は息を詰めたまま、黙っていた。
「葬儀も終わりました。親族も帰った。妻は毎日泣いています。私の母も、妻の母も、娘の話をするたびに泣く。なのに、私は泣けない」
その「泣けない」は、ひどく小さな声だった。
「周囲には、気丈だと言われます。お父さんがしっかりしていてよかった、と。医者だから冷静でいられるんですね、とも言われた」
結城はそこで、ゆっくりと息を吐いた。
「違うんです。平気なんじゃない。冷静なんでもない。ただ、泣けないんです」
乾いた声だった。
けれど、その乾き方がかえって痛々しかった。
「娘が死んだと、頭ではわかっている。もう帰ってこないことも、わかっている。写真を見れば、かわいいと思う。いなくなったことも理解している。なのに、どこか現実じゃない。病院で亡くなった子どもたちのときと同じように、私はそれを処理してしまっている」
結城は膝の上で手を組み直した。
その指先が、ほんの少し震えていた。
「私は父親なのに」
その言葉は、責めるようでもあり、縋るようでもあった。
「娘を失ったのに、泣けない。そのことが、何より苦しい」
しばらく沈黙が落ちた。
やがて店主が静かに口を開く。
「あなたが欲しいのは、子どもを亡くした記憶そのものですか」
「……違うかもしれません」
「では、何です」
「わかりません。ただ、ちゃんと失いたいんです」
その言葉に、胸の奥が重くなった。
失った事実はもうある。
けれど心だけが、そこに追いついていないのだ。
「悲しみたいんです」
結城は言った。
「苦しみたいわけじゃない。けれど、このままでは、娘が死んだことすら自分の中で本当にならない気がする。私はあの子の父親だったのに、その喪失に届いていない」
店主は小さくうなずいた。
「あなたに必要なのは、死の記憶ではありません」
「では」
「喪失が届く記憶です」
結城は黙った。
「人は、出来事そのもので壊れるとは限りません。遅れて壊れることもある。理解が感情に追いつくまで、時間がかかることもある。あなたは壊れていないのではなく、まだ届いていないのでしょう」
「そんな記憶が、あるんですか」
店主は立ち上がり、棚の中ほどからひとつの小瓶を取り出した。
それは暗い色ではなかった。むしろ透明に近く、光の加減でかすかに白く曇る、小さな瓶だった。
「これは、ある母親が売った記憶です」
「子どもを亡くした」
「ええ。ただし、亡くした瞬間ではありません。葬儀の翌朝の記憶です」
「翌朝」
「子どもの名前を呼んで、返事がないと知る記憶です」
結城の表情が、わずかに変わった。
「大きな出来事ではありません。泣き崩れる場面でもない。ただ、いつものように名前を呼んでしまって、それに返事がない。その静けさで、もう二度と返ってこないのだと知る」
結城は小瓶を見つめたまま、しばらく動かなかった。
「それを見れば、私は泣けますか」
店主は首を横に振った。
「保証はできません。ただ、悲しみの形に触れることはできるかもしれない」
「形」
「あなたの中に、すでにあるものの」
長い沈黙のあと、結城は言った。
「……これを、落札します」
店主はうなずき、小瓶を結城の前に置いた。
結城はそれにそっと触れた。
表情はほとんど変わらなかった。
けれど、変わらなかったことがかえって異様だった。
たぶんそこには、何でもない朝があったのだろう。
カーテンの隙間から入る薄い光。片づけきれない食卓。昨日までそこにいた子どもの気配が、まだ部屋のあちこちに残っている朝。
そして、名前を呼ぶ。
起こすために。
朝ごはんだと告げるために。
いつもの癖で、何も考えずに。
呼んでから、返事がないことに気づく。
もう返ってこないのだと、その静けさで知る。
結城はしばらく小瓶に触れたまま動かなかった。
やがて、そっと手を離した。
「……こんなふうに、来るんですね」
声が少しかすれていた。
「死んだ瞬間じゃない。葬儀でもない。もっと、どうでもいいような朝に」
「どうでもいい朝ではありません」
店主が言う。
「失った人にとっては、たいていそこで日常が終わります」
結城は目を伏せた。
「私は、娘の名前を呼んでいません」
その告白は、ひどく静かだった。
「亡くなってから、一度も。妻は何度も口にしているのに、私は避けていた。写真にも、服にも、なるべく触れないようにしていた。そうすれば、まだ現実にならない気がして」
店主は何も言わなかった。
結城は小瓶を見つめたまま、低く続けた。
「私は、ひどい父親でしょうか」
「悲しみ方が遅いだけです」
店主は静かに答えた。
「遅れてくる喪失もあります」
結城はしばらく動かなかった。
それから深く頭を下げ、小瓶を受け取って店を出ていった。
扉が閉まる音を聞いてから、私はようやく息を吐いた。
「泣けるようになるかな」
思わずそう言うと、店主は棚のほうを見たまま答えた。
「わからない」
「でも、あの人はそれを欲しがった」
「痛みを増やしたいわけじゃない。ただ、届きたいんだろう」
私は、もう冷めかけたコーヒーをひと口飲んだ。
苦みだけが、少し強く残った。
数日後、また仕事帰りに店へ寄ると、店主が珍しく先に口を開いた。
「この前の医者から、連絡がありましたよ」
私は思わず顔を上げた。
「何て」
「娘の名前を呼べました、と」
それだけで、胸の奥が詰まった。
「返事はありませんでした」
店主は静かに続けた。
「だから、ようやく泣けました、と」
私は何も言えなかった。
返事のない名前。
それはたぶん、失った人だけが知る静けさだ。
呼べば返ってくると思っていた声が、もうどこにもないと知ること。
その当たり前の残酷さが、遅れて心に届くこと。
悲しみは、いつもすぐに来るわけじゃない。
間に合わないこともある。
置き去りにされることもある。
それでも、名前を呼ぶところから始まる喪失があるのだと、私はその日初めて知った。




