第11話 見られない時間
その日は、雨が降りそうで降らない、曖昧な空模様だった。
こんな日は客も来ないことが多い。私は店主の淹れたコーヒーを飲みながら、窓の外をぼんやり眺めていた。
扉の鈴が鳴ったのは、日が落ちてしばらくしてからだった。
入ってきたのは、若い女だった。
帽子を深くかぶり、黒縁の眼鏡までかけている。顔を隠したいのだろうと思ったが、妙な違和感があった。隠しているのに、見られることに慣れている人の気配がある。
「連絡していた者です」
女はそう言って、店主を見た。
「お名前を」
ほんの一瞬ためらってから、女は名乗った。
「篠崎紗良です」
その名前に、記憶はなかった。
店主は帳簿にその名を書きつける。
「本日は、売却ですか。落札ですか」
「落札で」
篠崎は椅子に座る前に店の中を見回した。
何かを探しているというより、何もないことを確かめているようだった。
「どのような記憶をお探しですか」
篠崎はすぐには答えなかった。
膝の上に置いた手を組み直し、それから小さく息を吐く。
「何も発信していなかった頃の記憶が欲しいんです」
店主は黙って続きを待った。
「私は、インフルエンサーをしています」
その言葉には、少しだけ苦い響きがあった。
自分のことを説明しているというより、もうそれ以外の言い方がない、と認めているような声だった。
篠崎は少しためらってから、言い足した。
「活動名は、ふわさらです」
その瞬間、私はようやく彼女が誰なのかわかった。
化粧品や服や、きれいに整えられた部屋。やわらかい色味の写真と、息を吐くみたいに短い言葉。
たしかに見たことがある。あの、何でも軽やかに見せるのがうまい人だ。
「最初は、ただ楽しかったんです。好きなものを載せて、誰かが反応してくれるのが嬉しかった。こんな小さなことでも、誰かと共有できるんだって思えた」
篠崎の声は落ち着いていた。
落ち着いているのに、その奥にひどい疲れが沈んでいるのがわかった。
「でも、気づいたら、何をしていても先に考えるようになっていました。これ、投稿にできるかなって」
私は黙って聞いていた。
「食事をしても、まず写真を撮る角度を考える。旅行に行っても、景色を見た瞬間に、どの言葉をつければ反応がいいか考える。友達と会っていても、この店は使えるなとか、この会話は書けるなとか、そういうことばかり浮かぶんです」
篠崎はそこで少し笑った。
笑ったというより、口元だけがそういう形になった。
「悲しいことがあっても同じです。落ち込んでいる最中に、これをうまく言葉にしたら共感されるかもしれない、って思ってしまう。つらいのに、どこかで冷静に見ている自分がいる。そのことに、もうずっと疲れています」
店主は表情を変えない。
「休めばいいと、周りは簡単に言います。でも、休んだら忘れられる気がする。何も出さない日が続くと、数字が落ちる。反応が減る。そうすると、私はここにいていいんだろうかって思うんです」
篠崎は眼鏡の奥で目を伏せた。
「見られているのが苦しいのに、見られなくなるのはもっと怖い」
その言葉は、思っていたよりずっと重かった。
「だから、何も発信していなかった頃の記憶が欲しいんです。誰にも見られていなかった頃の」
しばらく沈黙が落ちた。
やがて店主が静かに口を開く。
「あなたが欲しいのは、記憶というより思い出に近いのでしょう」
篠崎は顔を上げた。
「……違うんですか」
「記憶は品物になりますが、思い出は本来、そうではありません」
篠崎は黙った。
「あなたが欲しいのは、発信していなかった頃そのものではない。誰にも差し出さないまま持っていられた時間の感触です」
その言葉に、篠崎の指先がわずかに動いた。
「そんなもの、記憶で買えるんですか」
「似たものなら」
店主は立ち上がり、棚の下のほうから小さな瓶をひとつ取り出した。
それは淡い乳白色をしていた。
曇ったガラスの向こうに、やわらかな光が閉じ込められているように見える。
「これは、ある会社員が売った記憶です」
「会社員」
「ええ。特別な出来事ではありません。残業の帰り、深夜にコンビニでアイスを買って、家の台所で立ったまま食べる記憶です」
篠崎は少しだけ眉を寄せた。
「それだけですか」
「それだけです」
店主は穏やかに言った。
「誰かに見せるためでもない。記録するためでもない。ただ、そのとき食べたかったから食べる。おいしいと思って、少しだけ気が緩む。それだけの記憶です」
私はその情景を思い浮かべた。
たしかに、何でもない。
何でもないのに、今の篠崎にはひどく遠いもののように思えた。
「写真は撮らないんですか」
篠崎がぽつりと聞いた。
「撮りません」
「誰かに送ったりも」
「しません」
「……どうして」
「その人にとって、それは誰かに渡すものではなかったからです」
篠崎――いや、ふわさらは、小瓶を見つめたまま、しばらく動かなかった。
「そんな時間、私にもありました」
声が少しだけ揺れた。
「コンビニでお菓子を買って、家でだらだら食べて、くだらない動画を見て、眠くなったら寝るだけの夜。何も残らないし、誰にも褒められないけど、ちゃんと楽しかった」
店主は何も言わない。
「今は、何かを食べても、先に思うんです。これ、撮ったほうがいいかなって。撮らなかったら、もったいない気がする。きれいなものを見ても、残さないと消えてしまう気がする。でも、残した瞬間に、それはもう私だけのものじゃなくなる」
ふわさらはそこで目を閉じた。
「疲れました」
その一言だけが、いちばん本当の声に聞こえた。
「これを見れば、少しは戻れますか」
店主は首を横に振る。
「戻るのではありません」
「じゃあ」
「思い出すだけです。見せなくても過ごせる時間が、たしかにあったことを」
長い沈黙のあと、ふわさらは小さくうなずいた。
「……それでいいです」
店主は小瓶を彼女の前に置いた。
ふわさらはそっと手を伸ばし、瓶に触れた。
その瞬間、彼女の表情がわずかにほどけた気がした。
たぶんそこには、狭い台所があったのだろう。
蛍光灯の白い光。少し散らかった流し台。買ってきたばかりのアイス。冷凍庫の匂いがまだ指先に残っている夜。
誰も見ていない。
見せるつもりもない。
ただ蓋を開けて、ひと口食べる。
冷たい、甘い、おいしい。
それだけで少しだけ救われる夜。
写真はない。
言葉もない。
残す必要もない。
ふわさらはしばらく小瓶に触れたまま、じっとしていた。
やがて、ゆっくりと手を離す。
「……静かですね」
彼女はそう言った。
「ええ」
「何も起きない」
「はい」
「なのに、すごく、羨ましい」
その言葉に、胸の奥が少し痛んだ。
「私、たぶんずっと、何か起こさなきゃいけないと思っていました」
ふわさらは小さく笑った。
「楽しいことも、きれいなものも、悲しいことも、全部ちゃんと形にしなきゃいけないって。そうしないと、なかったことになる気がして」
「形にしなくても、なくなりはしません」
店主が言う。
「誰にも見せなかった時間も、その人のものです」
ふわさらは眼鏡を外し、目元を押さえた。
泣いているのかどうかは、よくわからなかった。
「……これを、落札します」
店主はうなずいた。
会計を済ませ、ふわさらは立ち上がる。
帰る前に、彼女は一度だけ店の中を見回した。
入ってきたときとは違う目だった。
何か撮るものがないか探す目ではなく、ただ見ているだけの目だった。
「ありがとうございました」
そう言って、彼女は店を出ていった。
扉が閉まってから、私はようやく息をついた。
「少しは楽になるかな」
思わずそう言うと、店主はカップを拭きながら答えた。
「なるだろう」
「それなら、よかった」
店主は返事をしなかった。
数日後、また店に寄ると、店主が珍しく先に口を開いた。
「この前の客から、連絡があった」
私は顔を上げた。
「何て」
「よく眠れるようになったそうだ」
それは、いいことのように聞こえた。
「夜中に食べたいものを食べて、眠くなったらそのまま寝る。朝は起きられたり起きられなかったりで、部屋も散らかってきたが、不思議と前ほど苦しくない、と」
私は少し黙った。
「……それ、いいのかな」
「本人には、必要な緩みだったんだろう」
店主はそう言ったが、声はいつもより淡々としていた。
さらに数週間後、また連絡があった。
案件をいくつか落としたこと。
返事をしていない連絡が増えていること。
何日も外に出ない日があること。
鏡を見る回数が減ったこと。
それでも、前より楽だと思ってしまうこと。
「戻れなくなってるんじゃない」
思わずそう言うと、店主は少しだけ間を置いた。
「かもしれない」
窓の外は暗かった。
店のガラスに映る自分の顔が、少しだけ曖昧に見えた。
「見られない時間は、人を休ませることもあるが、ほどくこともある」
店主は静かに言った。
「張りつめていた糸が切れたあと、元の形に戻るとは限らない」
私は、あの乳白色の小瓶を思い出した。
深夜の台所。立ったまま食べるアイス。誰にも見せない夜。
あれはたしかに救いだったのだろう。
けれど救いは、ときどき人を立たせる力ではなく、
もう立たなくてもいいと教えてしまう。
それがその人にとって優しさなのか、破滅なのか、
私には最後までわからなかった。




