表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
思い出のオークション  作者: 冬馬
第1章 記憶を売る店
PR
11/46

第11話 見られない時間

 その日は、雨が降りそうで降らない、曖昧な空模様だった。

 こんな日は客も来ないことが多い。私は店主の淹れたコーヒーを飲みながら、窓の外をぼんやり眺めていた。


 扉の鈴が鳴ったのは、日が落ちてしばらくしてからだった。


 入ってきたのは、若い女だった。

 帽子を深くかぶり、黒縁の眼鏡までかけている。顔を隠したいのだろうと思ったが、妙な違和感があった。隠しているのに、見られることに慣れている人の気配がある。


「連絡していた者です」


 女はそう言って、店主を見た。


「お名前を」


 ほんの一瞬ためらってから、女は名乗った。


「篠崎紗良です」


 その名前に、記憶はなかった。


 店主は帳簿にその名を書きつける。


「本日は、売却ですか。落札ですか」


「落札で」


 篠崎は椅子に座る前に店の中を見回した。

 何かを探しているというより、何もないことを確かめているようだった。


「どのような記憶をお探しですか」


 篠崎はすぐには答えなかった。

 膝の上に置いた手を組み直し、それから小さく息を吐く。


「何も発信していなかった頃の記憶が欲しいんです」


 店主は黙って続きを待った。


「私は、インフルエンサーをしています」


 その言葉には、少しだけ苦い響きがあった。

 自分のことを説明しているというより、もうそれ以外の言い方がない、と認めているような声だった。


 篠崎は少しためらってから、言い足した。


「活動名は、ふわさらです」


 その瞬間、私はようやく彼女が誰なのかわかった。

 化粧品や服や、きれいに整えられた部屋。やわらかい色味の写真と、息を吐くみたいに短い言葉。

 たしかに見たことがある。あの、何でも軽やかに見せるのがうまい人だ。


「最初は、ただ楽しかったんです。好きなものを載せて、誰かが反応してくれるのが嬉しかった。こんな小さなことでも、誰かと共有できるんだって思えた」


 篠崎の声は落ち着いていた。

 落ち着いているのに、その奥にひどい疲れが沈んでいるのがわかった。


「でも、気づいたら、何をしていても先に考えるようになっていました。これ、投稿にできるかなって」


 私は黙って聞いていた。


「食事をしても、まず写真を撮る角度を考える。旅行に行っても、景色を見た瞬間に、どの言葉をつければ反応がいいか考える。友達と会っていても、この店は使えるなとか、この会話は書けるなとか、そういうことばかり浮かぶんです」


 篠崎はそこで少し笑った。

 笑ったというより、口元だけがそういう形になった。


「悲しいことがあっても同じです。落ち込んでいる最中に、これをうまく言葉にしたら共感されるかもしれない、って思ってしまう。つらいのに、どこかで冷静に見ている自分がいる。そのことに、もうずっと疲れています」


 店主は表情を変えない。


「休めばいいと、周りは簡単に言います。でも、休んだら忘れられる気がする。何も出さない日が続くと、数字が落ちる。反応が減る。そうすると、私はここにいていいんだろうかって思うんです」


 篠崎は眼鏡の奥で目を伏せた。


「見られているのが苦しいのに、見られなくなるのはもっと怖い」


 その言葉は、思っていたよりずっと重かった。


「だから、何も発信していなかった頃の記憶が欲しいんです。誰にも見られていなかった頃の」


 しばらく沈黙が落ちた。


 やがて店主が静かに口を開く。


「あなたが欲しいのは、記憶というより思い出に近いのでしょう」


 篠崎は顔を上げた。


「……違うんですか」


「記憶は品物になりますが、思い出は本来、そうではありません」


 篠崎は黙った。


「あなたが欲しいのは、発信していなかった頃そのものではない。誰にも差し出さないまま持っていられた時間の感触です」


 その言葉に、篠崎の指先がわずかに動いた。


「そんなもの、記憶で買えるんですか」


「似たものなら」


 店主は立ち上がり、棚の下のほうから小さな瓶をひとつ取り出した。


 それは淡い乳白色をしていた。

 曇ったガラスの向こうに、やわらかな光が閉じ込められているように見える。


「これは、ある会社員が売った記憶です」


「会社員」


「ええ。特別な出来事ではありません。残業の帰り、深夜にコンビニでアイスを買って、家の台所で立ったまま食べる記憶です」


 篠崎は少しだけ眉を寄せた。


「それだけですか」


「それだけです」


 店主は穏やかに言った。


「誰かに見せるためでもない。記録するためでもない。ただ、そのとき食べたかったから食べる。おいしいと思って、少しだけ気が緩む。それだけの記憶です」


 私はその情景を思い浮かべた。

 たしかに、何でもない。

 何でもないのに、今の篠崎にはひどく遠いもののように思えた。


「写真は撮らないんですか」


 篠崎がぽつりと聞いた。


「撮りません」


「誰かに送ったりも」


「しません」


「……どうして」


「その人にとって、それは誰かに渡すものではなかったからです」


 篠崎――いや、ふわさらは、小瓶を見つめたまま、しばらく動かなかった。


「そんな時間、私にもありました」


 声が少しだけ揺れた。


「コンビニでお菓子を買って、家でだらだら食べて、くだらない動画を見て、眠くなったら寝るだけの夜。何も残らないし、誰にも褒められないけど、ちゃんと楽しかった」


 店主は何も言わない。


「今は、何かを食べても、先に思うんです。これ、撮ったほうがいいかなって。撮らなかったら、もったいない気がする。きれいなものを見ても、残さないと消えてしまう気がする。でも、残した瞬間に、それはもう私だけのものじゃなくなる」


 ふわさらはそこで目を閉じた。


「疲れました」


 その一言だけが、いちばん本当の声に聞こえた。


「これを見れば、少しは戻れますか」


 店主は首を横に振る。


「戻るのではありません」


「じゃあ」


「思い出すだけです。見せなくても過ごせる時間が、たしかにあったことを」


 長い沈黙のあと、ふわさらは小さくうなずいた。


「……それでいいです」


 店主は小瓶を彼女の前に置いた。


 ふわさらはそっと手を伸ばし、瓶に触れた。


 その瞬間、彼女の表情がわずかにほどけた気がした。


 たぶんそこには、狭い台所があったのだろう。

 蛍光灯の白い光。少し散らかった流し台。買ってきたばかりのアイス。冷凍庫の匂いがまだ指先に残っている夜。


 誰も見ていない。

 見せるつもりもない。

 ただ蓋を開けて、ひと口食べる。


 冷たい、甘い、おいしい。

 それだけで少しだけ救われる夜。


 写真はない。

 言葉もない。

 残す必要もない。


 ふわさらはしばらく小瓶に触れたまま、じっとしていた。

 やがて、ゆっくりと手を離す。


「……静かですね」


 彼女はそう言った。


「ええ」


「何も起きない」


「はい」


「なのに、すごく、羨ましい」


 その言葉に、胸の奥が少し痛んだ。


「私、たぶんずっと、何か起こさなきゃいけないと思っていました」


 ふわさらは小さく笑った。


「楽しいことも、きれいなものも、悲しいことも、全部ちゃんと形にしなきゃいけないって。そうしないと、なかったことになる気がして」


「形にしなくても、なくなりはしません」


 店主が言う。


「誰にも見せなかった時間も、その人のものです」


 ふわさらは眼鏡を外し、目元を押さえた。

 泣いているのかどうかは、よくわからなかった。


「……これを、落札します」


 店主はうなずいた。


 会計を済ませ、ふわさらは立ち上がる。

 帰る前に、彼女は一度だけ店の中を見回した。


 入ってきたときとは違う目だった。

 何か撮るものがないか探す目ではなく、ただ見ているだけの目だった。


「ありがとうございました」


 そう言って、彼女は店を出ていった。


 扉が閉まってから、私はようやく息をついた。


「少しは楽になるかな」


 思わずそう言うと、店主はカップを拭きながら答えた。


「なるだろう」


「それなら、よかった」


 店主は返事をしなかった。


 数日後、また店に寄ると、店主が珍しく先に口を開いた。


「この前の客から、連絡があった」


 私は顔を上げた。


「何て」


「よく眠れるようになったそうだ」


 それは、いいことのように聞こえた。


「夜中に食べたいものを食べて、眠くなったらそのまま寝る。朝は起きられたり起きられなかったりで、部屋も散らかってきたが、不思議と前ほど苦しくない、と」


 私は少し黙った。


「……それ、いいのかな」


「本人には、必要な緩みだったんだろう」


 店主はそう言ったが、声はいつもより淡々としていた。


 さらに数週間後、また連絡があった。


 案件をいくつか落としたこと。

 返事をしていない連絡が増えていること。

 何日も外に出ない日があること。

 鏡を見る回数が減ったこと。

 それでも、前より楽だと思ってしまうこと。


「戻れなくなってるんじゃない」


 思わずそう言うと、店主は少しだけ間を置いた。


「かもしれない」


 窓の外は暗かった。

 店のガラスに映る自分の顔が、少しだけ曖昧に見えた。


「見られない時間は、人を休ませることもあるが、ほどくこともある」


 店主は静かに言った。


「張りつめていた糸が切れたあと、元の形に戻るとは限らない」


 私は、あの乳白色の小瓶を思い出した。

 深夜の台所。立ったまま食べるアイス。誰にも見せない夜。

 あれはたしかに救いだったのだろう。


 けれど救いは、ときどき人を立たせる力ではなく、

 もう立たなくてもいいと教えてしまう。


 それがその人にとって優しさなのか、破滅なのか、

 私には最後までわからなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ