第12話 引退する勇気
閉店間際、扉の鈴が鳴った。
入ってきたのは、背の高い男だった。
帽子を目深にかぶっていたが、肩幅の広さと立ち姿だけで、何かの競技を長くやってきた人間だとわかった。年齢は四十を少し過ぎたくらいだろうか。動きに無駄はないのに、どこか慎重だった。体をかばう癖が、もう染みついているように見えた。
「連絡していた者です」
低い声だった。
店主がうなずく。
「お名前を伺ってもよろしいですか」
男は帽子を取った。
「速水聡太です」
その顔には見覚えがあった。
テレビで何度も見たことがある。スポーツニュースでも、特集番組でも。
オールスターに二十年連続で出場している、現役のプロ野球選手――速水聡太だった。
私が息をのむより先に、速水は少しだけ苦笑して言った。
「体力を売りたいんです」
店主は静かに答えた。
「申し訳ありません。当店で扱うのは記憶だけです」
「そうですよね」
速水は小さく笑った。
冗談を言ったつもりではなく、わかっていて口にしたのだろうと思った。売れたらどんなに楽か、という願いが、そのまま言葉になっただけなのだ。
店主は帳簿を開く。
「本日は、売却でよろしいですか。それとも落札でしょうか」
「売却で」
速水は椅子に腰を下ろした。
座る動作ひとつにも、わずかな時間がかかった。痛みを隠すことに慣れた人間の動きだった。
「何を売りたいのか、お聞かせください」
速水はすぐには答えなかった。
視線を落とし、しばらく自分の手を見ていた。節の太い、硬い手だった。何度も握り、投げ、耐えてきた手だと思った。
「期待される喜びです」
私は思わず顔を上げた。
店主は静かに、その言葉を繰り返した。
「期待される喜び、ですか」
速水は少しだけ困ったように笑った。
「変な言い方ですよね。でも、たぶんそれなんです」
店主は小さくうなずいた。
「正確には、その喜びを何度も積み重ねてきた記憶、ということでしょうか」
速水は、そこで初めて少しだけ表情を緩めた。
「……ええ。たぶん、そうです。歓声とか、応援歌とか、名前を呼ばれることとか。そういうものに支えられてきた記憶です」
店主は何も言わず、続きを待った。
「四十を過ぎました。朝起きると、まずどこかが痛い。肩だったり、腰だったり、膝だったり、その日によって違います。試合に出れば動けるんです。数字も、まだ残せている。だから誰も辞めろとは言わない」
速水はそこで一度言葉を切った。
「監督も、球団も、ファンも、家族も、まだできると言うんです」
その声に、責める響きはなかった。
むしろ、ありがたさに近いものがあった。
だからこそ重いのだとわかった。
「駄目なら、辞めやすかったんです」
その一言が、店の中に静かに落ちた。
「もう無理だって、誰かに言われたほうが楽だったかもしれない。でも、まだやれる。まだ必要だって言われると、降りる理由がなくなる」
私は黙って聞いていた。
「好きだったんです、野球が」
速水はそう言って、少しだけ笑った。
「今も嫌いじゃない。球場に入って、土と芝の匂いを嗅ぐと、少し落ち着く。グラブをはめると、体が勝手に準備を始める。でも、最近はそれより先に思うんです。今日も応えなきゃいけないって」
店主が目を上げる。
「誰の期待に応えたいのでしょうか」
「全部です」
速水は即答した。
「監督の期待。球団の期待。ファンの期待。家族の期待。昔の自分に期待している人たちの期待。たぶん、自分自身も含めて」
速水は息を吐いた。
「子どもの頃、期待されるのが嬉しかったんです。試合で活躍すると褒められる。強い球を投げれば、すごいって言われる。もっと上に行けるって言われる。そのたびに、自分が何かになっていく気がした」
その目は、少し遠くを見ていた。
「プロに入ってからも、ずっとそうでした。スタメンに選ばれた日も、満員の球場も、応援歌も、ヒーローインタビューも。毎年、まだ選ばれる。まだ名前を呼ばれる。そのたびに、もう少し応えなきゃいけない気がしてしまう」
速水は少しだけ目を伏せた。
「オールスターに出るたび、ありがたいと思っていました。こんな年齢になっても、まだ期待してもらえるんだって。でも、選ばれ続けると、自分から降りる理由が見えなくなるんです」
店主は静かに言った。
「期待は力になります」
少し間を置いてから、続ける。
「けれど、人を降ろさない鎖にもなり得ます」
速水は苦く笑った。
「まさに、それです」
しばらく沈黙が落ちた。
「引退したいのですか」
店主の問いに、速水はすぐには答えなかった。
「……わかりません」
その答えが、いちばん正直なのだろうと思った。
「辞めたいのか、逃げたいのか、休みたいのか、自分でもよくわからない。ただ、期待に応えるためだけに続けるのは、もう違う気がするんです」
速水は両手を組んだ。
「歓声を聞くと、今でも嬉しいです。応援歌が流れると、背筋が伸びる。子どもにサインを求められれば、ちゃんとしなきゃと思う。そういう気持ちがあるから、まだやれる気がしてしまう」
「だから、それを売りたいのですね」
「はい」
速水はうなずいた。
「期待されることが嬉しいままだと、たぶん私は降りられない」
店主は帳簿を閉じた。
「売れば、期待されることの喜びは薄れます」
速水は黙って聞いている。
「もう歓声を求めなくなるかもしれません。必要とされることに、以前ほど価値を感じなくなるかもしれません。競技を続ける理由そのものが、変わる可能性もあります」
少し間を置いて、店主は続けた。
「査定額は、一億二千万円です」
私は思わず店主を見た。
これまで聞いた中でも、桁違いに高い金額だった。
速水はわずかに眉を動かしただけだった。
「……そこまでですか」
「ええ」
店主の声は静かだった。
「そのくらいの値はつきます」
速水は小さく笑った。
「そうですか。じゃあ、なおさら手放す価値がある」
「十分ご理解いただけたなら、進めます」
「お願いします」
店主は立ち上がった。
棚の奥から、細長いガラス瓶をひとつ取り出す。
「では、抽出いたします」
店の空気が、わずかに張りつめた。
速水は目を閉じた。
最初に浮かび上がったのは、若い頃の球場だった。
試合後、初めてヒーローインタビューを受けた夜。
まぶしい照明の下で名前を呼ばれ、何を話したのかも曖昧なまま、ただ胸の奥だけが熱かった記憶。
次に、別の光景が重なった。
打席に入る直前、初めて自分の応援歌が球場に流れた日。
あの瞬間、自分のためだけの音がスタンドを満たしていることが信じられず、ほんの一歩だけ足が止まった記憶。
さらに、満員のスタンドが現れた。
守備位置についたとき、客席のどこかから何度も名前を呼ばれた瞬間。
見上げなくても、自分がそこにいることを待っている人たちがいるとわかった記憶。
拍手。
歓声。
応援歌。
フラッシュ。
子どもの高い声。
試合後に差し出された色紙。
勝った日のベンチの熱気。
選ばれた者だけが立てる場所の明るさ。
それらが一つずつ、速水の中からほどけるように浮かび上がり、細い光となって瓶の中へ吸い込まれていった。
最後まで残ったのは、音だった。
大きな歓声ではない。
何度も何度も、自分の名前を呼ばれてきた記憶の余韻だった。
それがゆっくりと瓶の中へ沈み、やがて金色の光になって静かに揺れた。
速水は目を開けた。
少しだけ、ひどく疲れた顔をしていた。
「終わりました」
店主が言う。
速水は小瓶を見つめた。
「きれいですね」
「ええ」
「こんなものに支えられていたんですね、私は」
店主は答えなかった。
速水はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「野球は好きなんです」
「はい」
「でも、期待に応えるためだけには続けたくない」
その言葉には、ようやく自分の声で話したような静けさがあった。
会計を済ませ、速水は立ち上がる。
帰る前に、帽子をかぶり直し、それから店主を見た。
「もし辞めたら、後悔しますかね」
店主は少しだけ考えてから答えた。
「するでしょう」
速水は苦笑した。
「やっぱり」
「後悔のない決断は、あまりないものです」
速水はそれを聞いて、なぜか少しだけ楽になったように見えた。
「ありがとうございます」
そう言って、店を出ていった。
扉が閉まったあとも、しばらく私は何も言えなかった。
「一億二千万円……」
思わず口にすると、店主は帳簿を閉じた。
「高すぎると思いますか」
「少し」
「二十年です」
私は店主を見た。
「二十年、期待され、選ばれ、必要とされることで支えられてきた記憶です。才能そのものではありません。才能を支え続けた記憶です。それを手放す代価としては、むしろ安いくらいでしょう」
私は黙った。
金額の大きさより、その言葉のほうが重かった。
数週間後、店に手紙が届いた。
差出人の名前を見て、私はすぐにわかった。
店主は無言で封を切り、中の便箋を一度読んでから、私にも見せた。
内容は短かった。
ユニフォームを脱ぐことにしました。
近々、球団から発表があると思います。
それだけでも十分だったのに、もう一文だけ添えられていた。
最後に見た景色は、歓声ではなく、芝生でした。
私はその一文を、しばらく見つめていた。
歓声ではなく、芝生。
見られている自分ではなく、立っている自分。
期待の中心ではなく、ただその場所にいた一人の選手としての景色。
「後悔しないかな」
私がそう言うと、店主は便箋をたたみながら答えた。
「するでしょう」
少し間を置いて、続ける。
「それでも、自分で選んだ終わりは、人に終わらされるより静かなものです」
窓の外は、もう夜だった。
私は、誰かに望まれ続けることの重さを考えた。
期待は人を育てる。
けれど、ときにその人が降りるための梯子を外してしまう。
終わることは、負けではないのかもしれない。
ただ、自分の人生を、もう一度自分の手に戻すことなのだ。
店の奥で、さっきの小瓶がかすかに光っていた。
あれはきっと、誰かに必要とされた記憶の色だ。
まぶしくて、あたたかくて、少しだけ残酷な光だった。




