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思い出のオークション  作者: 冬馬
第1章 記憶を売る店
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12/46

第12話 引退する勇気

 閉店間際、扉の鈴が鳴った。


 入ってきたのは、背の高い男だった。

 帽子を目深にかぶっていたが、肩幅の広さと立ち姿だけで、何かの競技を長くやってきた人間だとわかった。年齢は四十を少し過ぎたくらいだろうか。動きに無駄はないのに、どこか慎重だった。体をかばう癖が、もう染みついているように見えた。


「連絡していた者です」


 低い声だった。


 店主がうなずく。


「お名前を伺ってもよろしいですか」


 男は帽子を取った。


「速水聡太です」


 その顔には見覚えがあった。

 テレビで何度も見たことがある。スポーツニュースでも、特集番組でも。

 オールスターに二十年連続で出場している、現役のプロ野球選手――速水聡太だった。


 私が息をのむより先に、速水は少しだけ苦笑して言った。


「体力を売りたいんです」


 店主は静かに答えた。


「申し訳ありません。当店で扱うのは記憶だけです」


「そうですよね」


 速水は小さく笑った。

 冗談を言ったつもりではなく、わかっていて口にしたのだろうと思った。売れたらどんなに楽か、という願いが、そのまま言葉になっただけなのだ。


 店主は帳簿を開く。


「本日は、売却でよろしいですか。それとも落札でしょうか」


「売却で」


 速水は椅子に腰を下ろした。

 座る動作ひとつにも、わずかな時間がかかった。痛みを隠すことに慣れた人間の動きだった。


「何を売りたいのか、お聞かせください」


 速水はすぐには答えなかった。

 視線を落とし、しばらく自分の手を見ていた。節の太い、硬い手だった。何度も握り、投げ、耐えてきた手だと思った。


「期待される喜びです」


 私は思わず顔を上げた。


 店主は静かに、その言葉を繰り返した。


「期待される喜び、ですか」


 速水は少しだけ困ったように笑った。


「変な言い方ですよね。でも、たぶんそれなんです」


 店主は小さくうなずいた。


「正確には、その喜びを何度も積み重ねてきた記憶、ということでしょうか」


 速水は、そこで初めて少しだけ表情を緩めた。


「……ええ。たぶん、そうです。歓声とか、応援歌とか、名前を呼ばれることとか。そういうものに支えられてきた記憶です」


 店主は何も言わず、続きを待った。


「四十を過ぎました。朝起きると、まずどこかが痛い。肩だったり、腰だったり、膝だったり、その日によって違います。試合に出れば動けるんです。数字も、まだ残せている。だから誰も辞めろとは言わない」


 速水はそこで一度言葉を切った。


「監督も、球団も、ファンも、家族も、まだできると言うんです」


 その声に、責める響きはなかった。

 むしろ、ありがたさに近いものがあった。

 だからこそ重いのだとわかった。


「駄目なら、辞めやすかったんです」


 その一言が、店の中に静かに落ちた。


「もう無理だって、誰かに言われたほうが楽だったかもしれない。でも、まだやれる。まだ必要だって言われると、降りる理由がなくなる」


 私は黙って聞いていた。


「好きだったんです、野球が」


 速水はそう言って、少しだけ笑った。


「今も嫌いじゃない。球場に入って、土と芝の匂いを嗅ぐと、少し落ち着く。グラブをはめると、体が勝手に準備を始める。でも、最近はそれより先に思うんです。今日も応えなきゃいけないって」


 店主が目を上げる。


「誰の期待に応えたいのでしょうか」


「全部です」


 速水は即答した。


「監督の期待。球団の期待。ファンの期待。家族の期待。昔の自分に期待している人たちの期待。たぶん、自分自身も含めて」


 速水は息を吐いた。


「子どもの頃、期待されるのが嬉しかったんです。試合で活躍すると褒められる。強い球を投げれば、すごいって言われる。もっと上に行けるって言われる。そのたびに、自分が何かになっていく気がした」


 その目は、少し遠くを見ていた。


「プロに入ってからも、ずっとそうでした。スタメンに選ばれた日も、満員の球場も、応援歌も、ヒーローインタビューも。毎年、まだ選ばれる。まだ名前を呼ばれる。そのたびに、もう少し応えなきゃいけない気がしてしまう」


 速水は少しだけ目を伏せた。


「オールスターに出るたび、ありがたいと思っていました。こんな年齢になっても、まだ期待してもらえるんだって。でも、選ばれ続けると、自分から降りる理由が見えなくなるんです」


 店主は静かに言った。


「期待は力になります」


 少し間を置いてから、続ける。


「けれど、人を降ろさない鎖にもなり得ます」


 速水は苦く笑った。


「まさに、それです」


 しばらく沈黙が落ちた。


「引退したいのですか」


 店主の問いに、速水はすぐには答えなかった。


「……わかりません」


 その答えが、いちばん正直なのだろうと思った。


「辞めたいのか、逃げたいのか、休みたいのか、自分でもよくわからない。ただ、期待に応えるためだけに続けるのは、もう違う気がするんです」


 速水は両手を組んだ。


「歓声を聞くと、今でも嬉しいです。応援歌が流れると、背筋が伸びる。子どもにサインを求められれば、ちゃんとしなきゃと思う。そういう気持ちがあるから、まだやれる気がしてしまう」


「だから、それを売りたいのですね」


「はい」


 速水はうなずいた。


「期待されることが嬉しいままだと、たぶん私は降りられない」


 店主は帳簿を閉じた。


「売れば、期待されることの喜びは薄れます」


 速水は黙って聞いている。


「もう歓声を求めなくなるかもしれません。必要とされることに、以前ほど価値を感じなくなるかもしれません。競技を続ける理由そのものが、変わる可能性もあります」


 少し間を置いて、店主は続けた。


「査定額は、一億二千万円です」


 私は思わず店主を見た。

 これまで聞いた中でも、桁違いに高い金額だった。


 速水はわずかに眉を動かしただけだった。


「……そこまでですか」


「ええ」


 店主の声は静かだった。


「そのくらいの値はつきます」


 速水は小さく笑った。


「そうですか。じゃあ、なおさら手放す価値がある」


「十分ご理解いただけたなら、進めます」


「お願いします」


 店主は立ち上がった。

 棚の奥から、細長いガラス瓶をひとつ取り出す。


「では、抽出いたします」


 店の空気が、わずかに張りつめた。


 速水は目を閉じた。


 最初に浮かび上がったのは、若い頃の球場だった。

 試合後、初めてヒーローインタビューを受けた夜。

 まぶしい照明の下で名前を呼ばれ、何を話したのかも曖昧なまま、ただ胸の奥だけが熱かった記憶。


 次に、別の光景が重なった。

 打席に入る直前、初めて自分の応援歌が球場に流れた日。

 あの瞬間、自分のためだけの音がスタンドを満たしていることが信じられず、ほんの一歩だけ足が止まった記憶。


 さらに、満員のスタンドが現れた。

 守備位置についたとき、客席のどこかから何度も名前を呼ばれた瞬間。

 見上げなくても、自分がそこにいることを待っている人たちがいるとわかった記憶。


 拍手。

 歓声。

 応援歌。

 フラッシュ。

 子どもの高い声。

 試合後に差し出された色紙。

 勝った日のベンチの熱気。

 選ばれた者だけが立てる場所の明るさ。


 それらが一つずつ、速水の中からほどけるように浮かび上がり、細い光となって瓶の中へ吸い込まれていった。


 最後まで残ったのは、音だった。


 大きな歓声ではない。

 何度も何度も、自分の名前を呼ばれてきた記憶の余韻だった。


 それがゆっくりと瓶の中へ沈み、やがて金色の光になって静かに揺れた。


 速水は目を開けた。

 少しだけ、ひどく疲れた顔をしていた。


「終わりました」


 店主が言う。


 速水は小瓶を見つめた。


「きれいですね」


「ええ」


「こんなものに支えられていたんですね、私は」


 店主は答えなかった。


 速水はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。


「野球は好きなんです」


「はい」


「でも、期待に応えるためだけには続けたくない」


 その言葉には、ようやく自分の声で話したような静けさがあった。


 会計を済ませ、速水は立ち上がる。

 帰る前に、帽子をかぶり直し、それから店主を見た。


「もし辞めたら、後悔しますかね」


 店主は少しだけ考えてから答えた。


「するでしょう」


 速水は苦笑した。


「やっぱり」


「後悔のない決断は、あまりないものです」


 速水はそれを聞いて、なぜか少しだけ楽になったように見えた。


「ありがとうございます」


 そう言って、店を出ていった。


 扉が閉まったあとも、しばらく私は何も言えなかった。


「一億二千万円……」


 思わず口にすると、店主は帳簿を閉じた。


「高すぎると思いますか」


「少し」


「二十年です」


 私は店主を見た。


「二十年、期待され、選ばれ、必要とされることで支えられてきた記憶です。才能そのものではありません。才能を支え続けた記憶です。それを手放す代価としては、むしろ安いくらいでしょう」


 私は黙った。

 金額の大きさより、その言葉のほうが重かった。


 数週間後、店に手紙が届いた。


 差出人の名前を見て、私はすぐにわかった。

 店主は無言で封を切り、中の便箋を一度読んでから、私にも見せた。


 内容は短かった。


 ユニフォームを脱ぐことにしました。

 近々、球団から発表があると思います。


 それだけでも十分だったのに、もう一文だけ添えられていた。


 最後に見た景色は、歓声ではなく、芝生でした。


 私はその一文を、しばらく見つめていた。


 歓声ではなく、芝生。

 見られている自分ではなく、立っている自分。

 期待の中心ではなく、ただその場所にいた一人の選手としての景色。


「後悔しないかな」


 私がそう言うと、店主は便箋をたたみながら答えた。


「するでしょう」


 少し間を置いて、続ける。


「それでも、自分で選んだ終わりは、人に終わらされるより静かなものです」


 窓の外は、もう夜だった。


 私は、誰かに望まれ続けることの重さを考えた。

 期待は人を育てる。

 けれど、ときにその人が降りるための梯子を外してしまう。


 終わることは、負けではないのかもしれない。

 ただ、自分の人生を、もう一度自分の手に戻すことなのだ。


 店の奥で、さっきの小瓶がかすかに光っていた。

 あれはきっと、誰かに必要とされた記憶の色だ。

 まぶしくて、あたたかくて、少しだけ残酷な光だった。


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