第13話 借りものの物語
午後の遅い時間、扉の鈴が鳴った。
入ってきた男を見て、私はすぐに顔を思い出した。
三宅雄星。
人気小説家だった。
書店の平台にいつも新刊が積まれている人だ。
帯には大きく受賞歴が並び、映像化の文字も珍しくない。
私は何冊か読んだことがあった。読みやすいのに、妙に胸の奥へ残る場面を書く人だった。
そして、この店の常連でもあった。
「ご無沙汰しています」
三宅はそう言って、静かに会釈した。
売れっ子作家という印象から想像するより、ずっと地味な人だった。背広も鞄も上等そうなのに、どこか目立たない。自分が見られることに慣れているというより、見られないようにしている人に見えた。
店主がうなずく。
「本日は、売却ですか。落札でしょうか」
「落札で」
三宅は迷いなく答えた。
「今回も、題材になる記憶をください」
私はその言葉を聞いて、少しだけ息を止めた。
今回も、という言い方に慣れがあった。
三宅は椅子に腰を下ろし、続けた。
「恋愛なら失恋。ミステリーなら裏切り。介護を書くなら看取り。そういう、芯になる記憶を」
まるで資料を探すような口調だった。
けれど冷たいわけではない。むしろ切実だった。
「これまで何度も助けてもらいました。今回も、同じように」
私は思わず店主を見た。
店主なら、いつものように棚へ向かうのだと思った。
だが、店主は動かなかった。
「今日は、お売りできません」
三宅が顔を上げた。
私も驚いた。
「どうしてですか」
私が聞きたいことを、三宅が先に口にした。
店主は静かに三宅を見ていた。
「あなたは他人の記憶を書く人になってしまった」
店の空気が、少しだけ変わった気がした。
三宅はすぐには言い返さなかった。
その言葉の意味を、たしかめるように黙っていた。
「読者は本物を求めています」
やがて三宅は言った。
「実際に体験した感情が必要なんです。失恋したことのない人間が失恋を書いても薄い。看取ったことのない人間が看取りを書いても嘘になる。私は、嘘を書きたくないだけです」
店主は答えた。
「あなたは記憶を書いている」
少し間を置いて、続ける。
「物語を書いてはいません」
三宅の眉が、わずかに動いた。
「違いがありますか」
「あります」
店主の声は静かだった。
「他人の記憶は、あなたの文章を豊かにしました。ですが、あなたの人生は一文字も増えていない」
三宅は黙った。
私は、その言葉の意味をすぐには飲み込めなかった。
けれど、三宅の顔を見ていると、彼にはその意味がわかっているように思えた。
「……最近、書けないんです」
しばらくして、三宅はそう言った。
その声は、さっきまでより少し低かった。
「文章は書けます。描写もできます。泣く場面なら泣かせられるし、怒る場面なら怒らせられる。痛みも、喪失も、たぶん前よりうまく書ける」
三宅は自分の指先を見た。
「でも、主人公が動かないんです」
私は黙って聞いていた。
「悲しませることはできる。苦しませることもできる。でも、その先で何を選ぶのかが書けない。立ち去るのか、許すのか、壊すのか、残るのか。最後まで行かないんです」
店主は静かに言った。
「他人の記憶には、その人の理由があります」
三宅は顔を上げた。
「理由のない感情は、物語になりません」
店主は続けた。
「失恋した記憶には、その人が誰を愛し、何を信じ、なぜ失ったのかがある。裏切られた記憶には、裏切られるまで信じた時間がある。看取った記憶には、看取るまで共に生きた日々がある」
店主の声は、いつもより少しだけやわらかかった。
「あなたが買っていたのは、感情の強さです。けれど物語を動かすのは、強さではなく理由です」
三宅は何も言わなかった。
「借りた記憶で、涙は書けるでしょう」
店主は言う。
「ですが、選択は書けません。選ぶ理由を、あなたが生きていないからです」
長い沈黙が落ちた。
私は、三宅雄星の本を読んだ夜のことを思い出していた。
たしかにうまかった。場面は鮮やかで、感情もよく伝わった。
けれど今になって思えば、登場人物たちはいつも、どこか同じ場所で立ち止まっていた気がする。
三宅はゆっくり息を吐いた。
「では、どうすればいいんでしょう」
その問いは、人気作家のものには聞こえなかった。
書けなくなった一人の人間の声だった。
店主は少しだけ考えてから答えた。
「書けないまま、生きることです」
三宅は苦く笑った。
「ずいぶん不親切ですね」
「近道ではありませんから」
三宅は目を伏せた。
「締切があるんです」
「人生にもあります」
その返答に、三宅は一瞬だけ目を見開いた。
それから、ほんの少しだけ笑った。
「……参りました」
店主は何も言わなかった。
三宅は立ち上がった。
今日は何も買わずに帰るのだと、その動きでわかった。
会計の必要もないまま、彼は鞄を持った。
扉の前で一度だけ立ち止まり、振り返る。
「私は、ずっと本物を書いているつもりでした」
店主は静かに答えた。
「本物の感情と、自分の物語は、同じではありません」
三宅は小さくうなずいた。
「覚えておきます」
そう言って、店を出ていった。
扉が閉まったあと、私はしばらく何も言えなかった。
「売らないことも、あるんですね」
ようやくそう言うと、店主は帳簿を閉じた。
「あります」
「常連でも?」
「常連だからこそ、でしょう」
私は店主を見た。
「借りものが長く続くと、自分の空白に気づけなくなることがあります」
その言葉は、三宅に向けたもののようでいて、誰にでも向けられている気がした。
数か月後、店に一冊の本が届いた。
差出人の名前を見て、私はすぐにわかった。
三宅雄星の新刊だった。
表紙はこれまでより地味で、題名も短かった。
けれど、なぜか目が離せなかった。
店主は中を開かず、私に渡した。
「読んでみるといいでしょう」
私は営業が終わったあと、カウンターの隅でその本を開いた。
あとがきは短かった。
今回は、誰の記憶も借りませんでした。
その一文を読んだとき、私はなぜか少しだけ息が詰まった。
それだけだった。
言い訳も、説明も、決意の言葉もなかった。
けれど、その短さの中に、これまでよりずっと大きなものがある気がした。
私は本を閉じた。
「書けたんですね」
そう言うと、店主は窓の外を見たまま答えた。
「ようやく、自分で歩かせたのでしょう」
夜の店内は静かだった。
棚の奥には、誰かの失恋も、誰かの裏切りも、誰かの看取りも、まだ眠っている。
けれど物語になる前のそれらは、ただの記憶だ。
人が生きて、迷って、選んで、ようやく物語になる。
借りられるのは痛みまでで、
その先を書くのは、たぶん自分の人生なのだ。




