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思い出のオークション  作者: 冬馬美沙
第1章 記憶を売る店
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14/46

第14話 待ち続ける記憶

 閉店前、扉の鈴が鳴った。


 入ってきたのは、七十代くらいの男性だった。

 杖はついていないが、歩みはゆっくりしていた。隣には白い老犬がいた。毛並みはところどころ薄くなっていたが、きれいに手入れされている。犬は主人の歩幅に合わせるように、静かに歩いていた。


 私は思った。

 犬連れのお客さんは、珍しい。


 店主は驚いた様子もなく、男を迎えた。


「お待ちしていました」


 男性は少し笑った。


「予約なんてした覚えはないんですがね」


「ええ。ですが、来ることはわかっていました」


 男は首をかしげたが、それ以上は聞かなかった。

 白い犬は、まっすぐ店主を見ていた。


 店主は帳簿を開く。


「本日は、売却ですね」


 私は思わず顔を上げた。


「え?」


 男性も同じように驚いた。


「私は売りませんよ」


 店主は静かに首を振った。


「売るのは、この子です」


 男性は一瞬きょとんとして、それから声を立てずに笑った。


「そんな冗談を」


 けれど、犬は笑わなかった。

 ただ静かに、店主を見ていた。


 私は状況が飲み込めず、犬と店主を交互に見た。


「犬の記憶も、売れるんですか」


 店主はうなずいた。


「言葉を持たないものでも、記憶は持っています。強く結ばれた記憶なら、扱えます」


 私は白い犬を見た。

 犬は伏せもせず、落ち着いたまま座っていた。年を取った犬特有の静けさがあった。騒がず、甘えず、ただ主人のそばにいることに慣れた気配だった。


 店主は犬から目を離さないまま言った。


「待ち続ける記憶を売りたいそうです」


 男性は困ったように笑った。


「最近、玄関で待たなくなったんですよ。昔は、私が買い物に出ただけでも大騒ぎだったのに」


 店主は静かに首を振った。


「違います」


 男の笑みが少しだけ薄れた。


「あなたを待つ記憶ではありません」


 店の中が、急に静かになった気がした。


 男性は犬を見下ろした。

 犬は見上げなかった。ただ、主人の靴の先のあたりを見ていた。


「……どういうことですか」


 店主は少し間を置いてから答えた。


「この子は、わかっているのでしょう」


「何をです」


「あなたが、いなくなる日が近いことを」


 男性の顔から、表情が消えた。


 私は息をのんだ。


 男はしばらく何も言わなかった。

 やがて、観念したように小さく笑った。


「医者にも、家族にも、まだそんなにはっきり言っていないんですがね」


 その声は、妙に穏やかだった。


「余命半年だそうです」


 私は言葉を失った。


 白い犬は、何も知らないように静かに座っている。

 けれど、何も知らないわけではないのだと、もうわかってしまった。


「最近、夜中に何度も起きるんです」


 男性は犬を見ながら言った。


「私の寝息を確かめるみたいに、顔を寄せてくる。散歩でも、前みたいに先へ行かない。いつも私の歩幅に合わせる。少し咳き込んだだけでも、すぐ振り返る」


 男はそこで言葉を切った。


「そういうことだったのか」


 店主は静かに言った。


「犬は未来を言葉では考えません」


 少し間を置いて、続ける。


「ですが、別れの気配にはとても敏感です」


 白い犬は、ようやく主人を見上げた。

 その目は穏やかで、ただそこにいた。


 店主は低い声で言った。


「この人が帰らなくなる日を、待ちたくない」


 男性の喉が、かすかに動いた。


「こいつ……そんなことを考えてるのか」


「考える、とは少し違うのでしょう」


 店主は言った。


「ただ、わかっているのです。待っても帰らない日が来ることを」


 男性は犬の頭に手を置いた。

 白い毛を、ゆっくり撫でる。


「おまえは、賢すぎるな」


 その声は、少しだけ震えていた。


 しばらくして、男性は顔を上げた。


「売るのは、何なんです」


 店主は答えた。


「あなたを待ち続ける記憶です」


 男性はすぐに言った。


「そんなことをしたら、私を忘れてしまうんじゃないですか」


「忘れません」


 店主の声は静かだった。


「忘れるのは、待ち続ける苦しみだけです」


 男性は黙った。


「あなたの足音を覚えている記憶は残ります。名前を呼ばれた記憶も、撫でられた記憶も、散歩した道も残ります」


 店主は白い犬を見たまま続けた。


「失うのは、帰らない相手を玄関で待ち続ける形だけです」


 男性は目を閉じた。

 そのまま、犬の頭に手を置いていた。


「……この子が、それを望むなら」


 私はその横顔を見ていた。

 自分がいなくなったあとのことを、こんなふうに決めなければならない顔だった。


「お願いします」


 店主は小さくうなずいた。


「承りました」


 棚の奥から、細いガラス瓶がひとつ取り出される。

 人のときより少し小さい瓶だった。


 店主が犬の前にしゃがむ。

 白い犬は逃げなかった。じっと店主を見ていた。


「では、抽出します」


 店の空気が、やわらかく張りつめた。


 最初に浮かんだのは、まだ耳の大きい子犬だった。

 玄関先で転ぶように走り回り、帰ってきた主人の靴にじゃれついている。尻尾がちぎれそうなくらい振られていた。


 次に、晴れた日の散歩道が現れた。

 川沿いの道。少し先を歩いては振り返り、ちゃんとついてきているか確かめる若い犬の足取り。名前を呼ぶ声に、耳がぴんと立つ。


 冬の夜。

 こたつのそばで丸くなりながら、ときどき顔を上げて主人のいる場所を確かめる記憶。


 雨の日。

 散歩に行けず、ふてくされたように寝そべっていたくせに、帰宅の足音がした瞬間に飛び起きる記憶。


 眠る主人の足元。

 新聞を読む手。

 おやつを隠し持っている気配。

 何千回も聞いた「ただいま」の声。

 何千回も返してきた、尻尾と足音だけの「おかえり」。


 それらはどれも、やわらかい光だった。

 あたたかく、少し金色で、長い時間を一緒に過ごしたものだけが持つ色をしていた。


 けれど、瓶に吸い込まれていったのは、それだけではなかった。


 夜の玄関が浮かんだ。

 誰も来ないのに、耳だけが音を待っている。

 朝になっても、足音はしない。

 昼になっても、扉は開かない。

 それでも玄関の前から離れられない、細い背中。


 廊下の暗がり。

 空気の変化に何度も顔を上げる気配。

 帰ってくるはずのない相手を、体だけが待ち続けてしまう未来。


 その光景だけが、ゆっくりとほどけるように犬の中から離れ、細い糸のような光になって瓶へ吸い込まれていった。


 最後に残ったのは、主人の足元で安心して眠る感覚だった。


 それは消えなかった。


 白い犬は一度だけ小さく瞬きをした。

 それから、何事もなかったように主人の足に鼻先を寄せた。


「終わりました」


 店主が言った。


 男性はしばらく犬を見つめていた。

 それから、しゃがみこんで両手で犬の顔を包んだ。


「おまえ、そんな先のことまで心配してたのか」


 犬は静かに尻尾を振った。

 大きくではなく、ほんの少しだけ。


 男性は笑った。

 笑ったまま、目元をぬぐった。


「ありがとうな」


 その言葉が、誰に向けられたものなのか、私にはわからなかった。

 犬に向けたものかもしれないし、店主に向けたものかもしれない。

 あるいは、自分がいなくなったあとも生きていくこの小さな相手に向けた、最後の願いだったのかもしれない。


 会計を済ませると、男性は立ち上がった。

 白い犬もゆっくり立ち上がる。


 帰る前に、男は店主を見た。


「この子は、私がいなくなっても大丈夫でしょうか」


 店主は少しだけ考えてから答えた。


「寂しがるでしょう」


 男性は苦く笑った。


「そうでしょうね」


「ですが、待ち続けはしないでしょう」


 男は静かにうなずいた。


「それで十分です」


 そう言って、犬と一緒に店を出ていった。


 扉が閉まったあと、私はしばらく何も言えなかった。


「犬が、自分で売りに来るなんて」


 店主は瓶を棚の奥へ戻しながら言った。


「待つことは、愛の形になりやすいものです」


 私は白い毛の残り香がまだ店にある気がして、扉のほうを見た。


「でも、同じではないんですね」


 店主はうなずいた。


「ええ。待つことと、愛することは、同じではありません」


 半年後、ひとりの女性が店を訪れた。


 四十代くらいだろうか。

 どこかあの男性に似た目元をしていた。


「父が、お世話になったそうです」


 そう言って頭を下げたあと、彼女は少し迷うように言葉を選んだ。


「父は、春の終わりに亡くなりました」


 私は黙って聞いていた。


「この子、最初の数日は家の中を探していました。父の部屋にも行ったし、いつも座っていた椅子の下にも潜りこんでいました。でも……」


 女性は小さく笑った。


「ずっと玄関で待ち続けることは、なかったんです」


 私はそっと息をついた。


「今は、母の隣で眠っています。孫が散歩に連れていくと、ちゃんと歩くんです」


 女性は少しだけ目を伏せた。


「父の部屋の前で立ち止まることはあります。でも、そのまま戻ってくるんです」


 忘れたわけではない。

 けれど、囚われてもいないのだとわかった。


「それで」


 女性は鞄から一枚の写真を取り出した。

 そこには、あの白い犬と、穏やかに笑う男性が写っていた。


「父の写真を見ると、ちゃんと尻尾を振るんです」


 私は写真を見つめた。

 胸の奥が、少しだけ熱くなった。


 女性が帰ったあと、私はしばらくその言葉を反芻していた。


「忘れなかったんだ」


 店主は窓の外を見たまま答えた。


「ええ」


 少し間を置いて、続ける。


「愛着は残ります。苦しみの形だけが、薄れたのでしょう」


 夜の店は静かだった。


 私は、玄関の前で誰かを待つことを思った。

 帰ってくると信じて待つこと。

 帰らないと知りながら、それでも待ってしまうこと。


 似ているようでいて、その二つはきっと違う。


 犬は、人より早く悲しみを越えるのではないのかもしれない。

 ただ、生きている者の隣へ戻ることを、愛した相手が望んでいると知っているだけなのだ。


 店の奥で、小さな瓶がかすかに光っていた。

 そこにはきっと、帰らない足音を待たずにすむようになった、ひとつのやさしさが眠っていた。


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