第14話 待ち続ける記憶
閉店前、扉の鈴が鳴った。
入ってきたのは、七十代くらいの男性だった。
杖はついていないが、歩みはゆっくりしていた。隣には白い老犬がいた。毛並みはところどころ薄くなっていたが、きれいに手入れされている。犬は主人の歩幅に合わせるように、静かに歩いていた。
私は思った。
犬連れのお客さんは、珍しい。
店主は驚いた様子もなく、男を迎えた。
「お待ちしていました」
男性は少し笑った。
「予約なんてした覚えはないんですがね」
「ええ。ですが、来ることはわかっていました」
男は首をかしげたが、それ以上は聞かなかった。
白い犬は、まっすぐ店主を見ていた。
店主は帳簿を開く。
「本日は、売却ですね」
私は思わず顔を上げた。
「え?」
男性も同じように驚いた。
「私は売りませんよ」
店主は静かに首を振った。
「売るのは、この子です」
男性は一瞬きょとんとして、それから声を立てずに笑った。
「そんな冗談を」
けれど、犬は笑わなかった。
ただ静かに、店主を見ていた。
私は状況が飲み込めず、犬と店主を交互に見た。
「犬の記憶も、売れるんですか」
店主はうなずいた。
「言葉を持たないものでも、記憶は持っています。強く結ばれた記憶なら、扱えます」
私は白い犬を見た。
犬は伏せもせず、落ち着いたまま座っていた。年を取った犬特有の静けさがあった。騒がず、甘えず、ただ主人のそばにいることに慣れた気配だった。
店主は犬から目を離さないまま言った。
「待ち続ける記憶を売りたいそうです」
男性は困ったように笑った。
「最近、玄関で待たなくなったんですよ。昔は、私が買い物に出ただけでも大騒ぎだったのに」
店主は静かに首を振った。
「違います」
男の笑みが少しだけ薄れた。
「あなたを待つ記憶ではありません」
店の中が、急に静かになった気がした。
男性は犬を見下ろした。
犬は見上げなかった。ただ、主人の靴の先のあたりを見ていた。
「……どういうことですか」
店主は少し間を置いてから答えた。
「この子は、わかっているのでしょう」
「何をです」
「あなたが、いなくなる日が近いことを」
男性の顔から、表情が消えた。
私は息をのんだ。
男はしばらく何も言わなかった。
やがて、観念したように小さく笑った。
「医者にも、家族にも、まだそんなにはっきり言っていないんですがね」
その声は、妙に穏やかだった。
「余命半年だそうです」
私は言葉を失った。
白い犬は、何も知らないように静かに座っている。
けれど、何も知らないわけではないのだと、もうわかってしまった。
「最近、夜中に何度も起きるんです」
男性は犬を見ながら言った。
「私の寝息を確かめるみたいに、顔を寄せてくる。散歩でも、前みたいに先へ行かない。いつも私の歩幅に合わせる。少し咳き込んだだけでも、すぐ振り返る」
男はそこで言葉を切った。
「そういうことだったのか」
店主は静かに言った。
「犬は未来を言葉では考えません」
少し間を置いて、続ける。
「ですが、別れの気配にはとても敏感です」
白い犬は、ようやく主人を見上げた。
その目は穏やかで、ただそこにいた。
店主は低い声で言った。
「この人が帰らなくなる日を、待ちたくない」
男性の喉が、かすかに動いた。
「こいつ……そんなことを考えてるのか」
「考える、とは少し違うのでしょう」
店主は言った。
「ただ、わかっているのです。待っても帰らない日が来ることを」
男性は犬の頭に手を置いた。
白い毛を、ゆっくり撫でる。
「おまえは、賢すぎるな」
その声は、少しだけ震えていた。
しばらくして、男性は顔を上げた。
「売るのは、何なんです」
店主は答えた。
「あなたを待ち続ける記憶です」
男性はすぐに言った。
「そんなことをしたら、私を忘れてしまうんじゃないですか」
「忘れません」
店主の声は静かだった。
「忘れるのは、待ち続ける苦しみだけです」
男性は黙った。
「あなたの足音を覚えている記憶は残ります。名前を呼ばれた記憶も、撫でられた記憶も、散歩した道も残ります」
店主は白い犬を見たまま続けた。
「失うのは、帰らない相手を玄関で待ち続ける形だけです」
男性は目を閉じた。
そのまま、犬の頭に手を置いていた。
「……この子が、それを望むなら」
私はその横顔を見ていた。
自分がいなくなったあとのことを、こんなふうに決めなければならない顔だった。
「お願いします」
店主は小さくうなずいた。
「承りました」
棚の奥から、細いガラス瓶がひとつ取り出される。
人のときより少し小さい瓶だった。
店主が犬の前にしゃがむ。
白い犬は逃げなかった。じっと店主を見ていた。
「では、抽出します」
店の空気が、やわらかく張りつめた。
最初に浮かんだのは、まだ耳の大きい子犬だった。
玄関先で転ぶように走り回り、帰ってきた主人の靴にじゃれついている。尻尾がちぎれそうなくらい振られていた。
次に、晴れた日の散歩道が現れた。
川沿いの道。少し先を歩いては振り返り、ちゃんとついてきているか確かめる若い犬の足取り。名前を呼ぶ声に、耳がぴんと立つ。
冬の夜。
こたつのそばで丸くなりながら、ときどき顔を上げて主人のいる場所を確かめる記憶。
雨の日。
散歩に行けず、ふてくされたように寝そべっていたくせに、帰宅の足音がした瞬間に飛び起きる記憶。
眠る主人の足元。
新聞を読む手。
おやつを隠し持っている気配。
何千回も聞いた「ただいま」の声。
何千回も返してきた、尻尾と足音だけの「おかえり」。
それらはどれも、やわらかい光だった。
あたたかく、少し金色で、長い時間を一緒に過ごしたものだけが持つ色をしていた。
けれど、瓶に吸い込まれていったのは、それだけではなかった。
夜の玄関が浮かんだ。
誰も来ないのに、耳だけが音を待っている。
朝になっても、足音はしない。
昼になっても、扉は開かない。
それでも玄関の前から離れられない、細い背中。
廊下の暗がり。
空気の変化に何度も顔を上げる気配。
帰ってくるはずのない相手を、体だけが待ち続けてしまう未来。
その光景だけが、ゆっくりとほどけるように犬の中から離れ、細い糸のような光になって瓶へ吸い込まれていった。
最後に残ったのは、主人の足元で安心して眠る感覚だった。
それは消えなかった。
白い犬は一度だけ小さく瞬きをした。
それから、何事もなかったように主人の足に鼻先を寄せた。
「終わりました」
店主が言った。
男性はしばらく犬を見つめていた。
それから、しゃがみこんで両手で犬の顔を包んだ。
「おまえ、そんな先のことまで心配してたのか」
犬は静かに尻尾を振った。
大きくではなく、ほんの少しだけ。
男性は笑った。
笑ったまま、目元をぬぐった。
「ありがとうな」
その言葉が、誰に向けられたものなのか、私にはわからなかった。
犬に向けたものかもしれないし、店主に向けたものかもしれない。
あるいは、自分がいなくなったあとも生きていくこの小さな相手に向けた、最後の願いだったのかもしれない。
会計を済ませると、男性は立ち上がった。
白い犬もゆっくり立ち上がる。
帰る前に、男は店主を見た。
「この子は、私がいなくなっても大丈夫でしょうか」
店主は少しだけ考えてから答えた。
「寂しがるでしょう」
男性は苦く笑った。
「そうでしょうね」
「ですが、待ち続けはしないでしょう」
男は静かにうなずいた。
「それで十分です」
そう言って、犬と一緒に店を出ていった。
扉が閉まったあと、私はしばらく何も言えなかった。
「犬が、自分で売りに来るなんて」
店主は瓶を棚の奥へ戻しながら言った。
「待つことは、愛の形になりやすいものです」
私は白い毛の残り香がまだ店にある気がして、扉のほうを見た。
「でも、同じではないんですね」
店主はうなずいた。
「ええ。待つことと、愛することは、同じではありません」
半年後、ひとりの女性が店を訪れた。
四十代くらいだろうか。
どこかあの男性に似た目元をしていた。
「父が、お世話になったそうです」
そう言って頭を下げたあと、彼女は少し迷うように言葉を選んだ。
「父は、春の終わりに亡くなりました」
私は黙って聞いていた。
「この子、最初の数日は家の中を探していました。父の部屋にも行ったし、いつも座っていた椅子の下にも潜りこんでいました。でも……」
女性は小さく笑った。
「ずっと玄関で待ち続けることは、なかったんです」
私はそっと息をついた。
「今は、母の隣で眠っています。孫が散歩に連れていくと、ちゃんと歩くんです」
女性は少しだけ目を伏せた。
「父の部屋の前で立ち止まることはあります。でも、そのまま戻ってくるんです」
忘れたわけではない。
けれど、囚われてもいないのだとわかった。
「それで」
女性は鞄から一枚の写真を取り出した。
そこには、あの白い犬と、穏やかに笑う男性が写っていた。
「父の写真を見ると、ちゃんと尻尾を振るんです」
私は写真を見つめた。
胸の奥が、少しだけ熱くなった。
女性が帰ったあと、私はしばらくその言葉を反芻していた。
「忘れなかったんだ」
店主は窓の外を見たまま答えた。
「ええ」
少し間を置いて、続ける。
「愛着は残ります。苦しみの形だけが、薄れたのでしょう」
夜の店は静かだった。
私は、玄関の前で誰かを待つことを思った。
帰ってくると信じて待つこと。
帰らないと知りながら、それでも待ってしまうこと。
似ているようでいて、その二つはきっと違う。
犬は、人より早く悲しみを越えるのではないのかもしれない。
ただ、生きている者の隣へ戻ることを、愛した相手が望んでいると知っているだけなのだ。
店の奥で、小さな瓶がかすかに光っていた。
そこにはきっと、帰らない足音を待たずにすむようになった、ひとつのやさしさが眠っていた。




