第15話 保留
日曜の午後だった。
雨が降りそうで降らない空が、店の窓に鈍い色を落としていた。明るいのに、どこかくすんでいる。通りを歩く人も少なく、扉の鈴は昼過ぎから一度も鳴っていなかった。
店主はカウンターの奥でコーヒーを淹れていた。
湯の落ちる音だけが、静かな店の中に細く続いている。
私は棚に並ぶ小瓶をぼんやり眺めていた。
光るものもあれば、ほとんど色を持たないものもある。誰かが手放した記憶たちが、今日も何事もなかったように並んでいた。
「最近、静かですね」
私が言うと、店主はコーヒーを注ぎながら答えた。
「静かな日もあります」
それだけのことなのに、その言い方は妙にこの店らしかった。
客が来る日もあれば、来ない日もある。
売る人もいれば、買う人もいる。
決める人もいれば、決められない人もいる。
私は棚を見たまま、これまでここを訪れた人たちのことを思い返していた。
泣きながら帰った人がいた。
少し軽くなった顔で帰った人もいた。
忘れられないものを手放した人もいれば、借りものの記憶では足りないと知って帰った人もいた。
過去の栄光に縛られたサラリーマン。
引退を決められなかった選手。
待ち続けることだけを手放した白い犬。
何かを売って帰っていった人たち。
たぶん少しずつ前へ進いた。
自分だけが、違った。
私は棚のいちばん奥を見た。
そこには瓶ではなく、一枚の査定票がしまわれている。
透花との思い出。
査定だけしてもらって、まだ売っていない記憶だった。
売るとも言わない。
残すとも言わない。
ただ、保留のまま、そこにある。
私は視線を落とした。
「迷ってる人って、多いですか」
店主はカップを二つ持ってきて、片方を私の前に置いた。
湯気の向こうで、静かにうなずく。
「ええ」
私はカップに手を添えた。
まだ少し熱かった。
「でも、あなたほど長く保留にしている人は、あまりいません」
私は思わず苦笑した。
「……そんなにですか」
「査定から、一年近くになります」
言われてみれば、そうだった。
季節は一度巡っていた。
あの日と同じような雨の匂いを、もう一度嗅いでいる。
私はコーヒーをひと口飲んだ。
少し苦かった。
「苦しいんです」
言葉にすると、思っていたより素直に出た。
「でも、苦しいから売るっていうのも違う気がして」
店主は何も言わない。
ただ、続きを待っている。
「透花がいなかった人生になるのも嫌なんです」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。
透花と過ごした時間は、もう戻らない。
けれど、なくなってしまっていいものでもなかった。
苦しいからといって消してしまえば、それは楽になる代わりに、何か別のものまで失ってしまう気がした。
店主は静かにカップを置いた。
「苦しみには二種類あります」
私は顔を上げた。
「二種類?」
「持ち続ける苦しみと」
店主はそこで一度言葉を切った。
「手放した苦しみです」
私は黙った。
そのどちらも、たしかに想像できた。
持ち続ければ、思い出すたびに痛む。
手放せば、もう思い出せないことが痛む。
「どちらも消えません」
店主の声は静かだった。
「形が変わるだけです」
私はカップの中を見た。
黒い液面に、窓の光が鈍く映っていた。
「じゃあ、どうすればいいんですか」
自分でも、少し子どもっぽい問いだと思った。
けれど、ほかに言いようがなかった。
店主はすぐに答えた。
「保留です」
私は思わず笑ってしまった。
「逃げじゃないですか」
「逃げではありません」
店主は穏やかに言った。
「今のあなたには、まだ決める理由がないのでしょう」
私は何も言えなかった。
決められないのではなく、決める理由がない。
その言い方は、少し意外だった。
「決められないということは、まだその記憶があなたの中で生きているということです」
店主は棚の奥へ目を向けた。
「記憶は、急いで始末するものではありません」
その言葉は、静かだった。
けれど、妙に深く残った。
私は透花のことを思い出した。
笑った顔。
怒った顔。
駅までの道。
何気なく交わした言葉。
もう細部は曖昧になっているのに、失った感覚だけはまだ鮮明だった。
もし売れば、少しは軽くなるのかもしれない。
でも、その軽さを今の自分が望んでいるのかは、まだわからなかった。
店主はそれ以上、何も言わなかった。
私も何も言わなかった。
客の来ない午後は、そのまま静かに過ぎていった。
結局、その日も扉の鈴は一度も鳴らなかった。
夕方になって、私は店を出た。
外は薄い夕暮れだった。
雨は結局降らなかったらしい。空気だけが少し湿っていて、アスファルトに夜の気配が落ち始めていた。
駅へ向かう道を、私はゆっくり歩いた。
透花と一緒に歩いたことのある道だった。
あの頃あった店は、もう別の店に変わっていた。
角の花屋はなくなり、代わりに小さなコインランドリーができている。
よく立ち寄った喫茶店も、看板が変わっていた。
景色は少しずつ入れ替わっていく。
街は、思い出に付き合ってはくれない。
それでも、思い出だけは変わらなかった。
私は立ち止まらずに歩き続けた。
今日も売らなかった。
売れなかった、ではない。
売らなかった。
それが今の私の答えだった。
店ではたぶん、店主がもう片づけを始めている頃だろう。
棚の奥の査定票も、また帳簿の中へ戻されるのかもしれない。
保留のまま。
けれど、それでいいのだと、今日は少しだけ思えた。
決めないまま持っていることも、
まだ失いたくないと認めることも、
たぶんひとつの答えなのだ。
その夜、店主は棚の奥から査定票を取り出し、いつものように帳簿へ戻した。
「保留にも、期限はありません」
誰に聞かせるでもない声が、静かな店の中に落ちた。




