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思い出のオークション  作者: 冬馬美沙
第1章 記憶を売る店
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15/46

第15話 保留

 日曜の午後だった。


 雨が降りそうで降らない空が、店の窓に鈍い色を落としていた。明るいのに、どこかくすんでいる。通りを歩く人も少なく、扉の鈴は昼過ぎから一度も鳴っていなかった。


 店主はカウンターの奥でコーヒーを淹れていた。

 湯の落ちる音だけが、静かな店の中に細く続いている。


 私は棚に並ぶ小瓶をぼんやり眺めていた。

 光るものもあれば、ほとんど色を持たないものもある。誰かが手放した記憶たちが、今日も何事もなかったように並んでいた。


「最近、静かですね」


 私が言うと、店主はコーヒーを注ぎながら答えた。


「静かな日もあります」


 それだけのことなのに、その言い方は妙にこの店らしかった。

 客が来る日もあれば、来ない日もある。

 売る人もいれば、買う人もいる。

 決める人もいれば、決められない人もいる。


 私は棚を見たまま、これまでここを訪れた人たちのことを思い返していた。


 泣きながら帰った人がいた。

 少し軽くなった顔で帰った人もいた。

 忘れられないものを手放した人もいれば、借りものの記憶では足りないと知って帰った人もいた。


 過去の栄光に縛られたサラリーマン。

 引退を決められなかった選手。

 待ち続けることだけを手放した白い犬。


 何かを売って帰っていった人たち。

 たぶん少しずつ前へ進いた。


 自分だけが、違った。


 私は棚のいちばん奥を見た。

 そこには瓶ではなく、一枚の査定票がしまわれている。


 透花との思い出。


 査定だけしてもらって、まだ売っていない記憶だった。


 売るとも言わない。

 残すとも言わない。

 ただ、保留のまま、そこにある。


 私は視線を落とした。


「迷ってる人って、多いですか」


 店主はカップを二つ持ってきて、片方を私の前に置いた。

 湯気の向こうで、静かにうなずく。


「ええ」


 私はカップに手を添えた。

 まだ少し熱かった。


「でも、あなたほど長く保留にしている人は、あまりいません」


 私は思わず苦笑した。


「……そんなにですか」


「査定から、一年近くになります」


 言われてみれば、そうだった。

 季節は一度巡っていた。

 あの日と同じような雨の匂いを、もう一度嗅いでいる。


 私はコーヒーをひと口飲んだ。

 少し苦かった。


「苦しいんです」


 言葉にすると、思っていたより素直に出た。


「でも、苦しいから売るっていうのも違う気がして」


 店主は何も言わない。

 ただ、続きを待っている。


「透花がいなかった人生になるのも嫌なんです」


 その言葉を口にした瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。


 透花と過ごした時間は、もう戻らない。

 けれど、なくなってしまっていいものでもなかった。

 苦しいからといって消してしまえば、それは楽になる代わりに、何か別のものまで失ってしまう気がした。


 店主は静かにカップを置いた。


「苦しみには二種類あります」


 私は顔を上げた。


「二種類?」


「持ち続ける苦しみと」


 店主はそこで一度言葉を切った。


「手放した苦しみです」


 私は黙った。


 そのどちらも、たしかに想像できた。

 持ち続ければ、思い出すたびに痛む。

 手放せば、もう思い出せないことが痛む。


「どちらも消えません」


 店主の声は静かだった。


「形が変わるだけです」


 私はカップの中を見た。

 黒い液面に、窓の光が鈍く映っていた。


「じゃあ、どうすればいいんですか」


 自分でも、少し子どもっぽい問いだと思った。

 けれど、ほかに言いようがなかった。


 店主はすぐに答えた。


「保留です」


 私は思わず笑ってしまった。


「逃げじゃないですか」


「逃げではありません」


 店主は穏やかに言った。


「今のあなたには、まだ決める理由がないのでしょう」


 私は何も言えなかった。


 決められないのではなく、決める理由がない。

 その言い方は、少し意外だった。


「決められないということは、まだその記憶があなたの中で生きているということです」


 店主は棚の奥へ目を向けた。


「記憶は、急いで始末するものではありません」


 その言葉は、静かだった。

 けれど、妙に深く残った。


 私は透花のことを思い出した。


 笑った顔。

 怒った顔。

 駅までの道。

 何気なく交わした言葉。

 もう細部は曖昧になっているのに、失った感覚だけはまだ鮮明だった。


 もし売れば、少しは軽くなるのかもしれない。

 でも、その軽さを今の自分が望んでいるのかは、まだわからなかった。


 店主はそれ以上、何も言わなかった。

 私も何も言わなかった。


 客の来ない午後は、そのまま静かに過ぎていった。

 結局、その日も扉の鈴は一度も鳴らなかった。


 夕方になって、私は店を出た。


 外は薄い夕暮れだった。

 雨は結局降らなかったらしい。空気だけが少し湿っていて、アスファルトに夜の気配が落ち始めていた。


 駅へ向かう道を、私はゆっくり歩いた。


 透花と一緒に歩いたことのある道だった。


 あの頃あった店は、もう別の店に変わっていた。

 角の花屋はなくなり、代わりに小さなコインランドリーができている。

 よく立ち寄った喫茶店も、看板が変わっていた。


 景色は少しずつ入れ替わっていく。

 街は、思い出に付き合ってはくれない。


 それでも、思い出だけは変わらなかった。


 私は立ち止まらずに歩き続けた。


 今日も売らなかった。


 売れなかった、ではない。


 売らなかった。


 それが今の私の答えだった。


 店ではたぶん、店主がもう片づけを始めている頃だろう。

 棚の奥の査定票も、また帳簿の中へ戻されるのかもしれない。


 保留のまま。


 けれど、それでいいのだと、今日は少しだけ思えた。


 決めないまま持っていることも、

 まだ失いたくないと認めることも、

 たぶんひとつの答えなのだ。


 その夜、店主は棚の奥から査定票を取り出し、いつものように帳簿へ戻した。


「保留にも、期限はありません」


 誰に聞かせるでもない声が、静かな店の中に落ちた。


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