表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
思い出のオークション  作者: 冬馬美沙
第1章 記憶を売る店
PR
16/46

第16話 結婚写真

 午後の遅い時間、扉の鈴が鳴った。


 入ってきたのは、八十歳近い男性だった。

 背筋はまっすぐだったが、歩みはゆっくりしていた。濃い灰色の上着をきちんと着て、手には古びた革の鞄を持っている。顔立ちは穏やかで、どこか几帳面そうな印象の人だった。


 店主が静かに迎える。


「いらっしゃいませ」


 男性は一礼した。


「酒井佐一と申します」


 その声は落ち着いていた。

 けれど、長く迷った末にここへ来た人の声でもあった。


 店主は帳簿を開く。


「本日は、売却でしょうか」


 酒井さんは少しだけ間を置いてから、うなずいた。


「ええ」


 椅子に腰を下ろす動作も丁寧だった。

 急ぐ人ではないのだろうと思った。あるいは、急いでもどうにもならないことを知っている人なのかもしれなかった。


「何をお売りになりますか」


 酒井さんは膝の上の鞄に手を置いたまま、しばらく黙っていた。

 それから、静かに言った。


「妻との結婚式の日を売りたいんです」


 私は思わず顔を上げた。


「結婚式の日、ですか」


 酒井さんはうなずいた。


「はい」


 私は口をついて出そうになった言葉を、少しだけためらった。

 けれど、結局そのまま聞いてしまった。


「一番大切な思い出じゃないですか」


 酒井さんは、私のほうを見て静かに笑った。

 責めるでもなく、困るでもなく、ただその問いが自然だとわかっているような笑い方だった。


「そうですね」


 少し間を置いて、続ける。


「だからこそ、つらいんです」


 店の中が静かになった。


「妻は今、施設にいます」


 酒井さんは、まるで天気の話でもするような穏やかな口調で言った。


「認知症でしてね。毎日、面会に行っています」


 私は黙って聞いていた。


「行くたびに、ちゃんと挨拶はしてくれるんです。『こんにちは』って」


 酒井さんはそこで、ほんの少しだけ笑った。


「礼儀正しい人だったものですから」


 その笑い方が、かえって胸に痛かった。


「でも、私のことはもう、夫だとはわからない」


 私は何も言えなかった。


「昔の話をしても、曖昧に笑うだけです。写真を見せても、首をかしげることが多い。私が誰なのか、どういう人だったのか、もうほとんど届いていないんでしょう」


 酒井さんは膝の上の鞄を、そっと撫でた。


「向こうは忘れたのに、私だけ覚えているのはつらいんです」


 その言葉は静かだった。

 静かすぎて、かえって重かった。


 店主は何も言わず、酒井さんを見ていた。


「結婚式の日のことは、今でもよく覚えています。式場の花の色も、妻の手袋の白さも、緊張して指輪を落としかけたことも」


 酒井さんは少し目を細めた。


「覚えているから、面会のたびに比べてしまうんです。あの日の人と、今ここにいる人を」


 私は息をひそめた。


「それが、つらい」


 店主は静かにうなずいた。


「査定いたします」


 店主が目を閉じる。

 店の空気が、わずかに張りつめた。


 しばらくして、店主は目を開いた。


「査定額は、九千万円です」


 酒井さんは驚かなかった。

 むしろ、そうだろうと思っていたような顔だった。


「そうでしょうね」


 私は店主が棚へ向かうものと思った。

 けれど、店主は動かなかった。


 帳簿を閉じる音だけが、小さく響いた。


 酒井さんが顔を上げる。


「……どうかなさいましたか」


 店主は静かに言った。


「その前に、ひとつだけ別の提案があります」


 酒井さんは少しだけ眉を上げた。


「提案、ですか」


「あなたは結婚式の日を売れば、少しは楽になるでしょう」


 店主の声は穏やかだった。


「ですが、その記憶は奥様は失い、あなたも失います」


 酒井さんは黙った。


「本当に、それでよろしいですか」


 長い沈黙が落ちた。


 やがて酒井さんは、低い声で言った。


「……では、どうすれば」


 店主は酒井さんをまっすぐ見た。


「結婚式の日を、売るのではなく、もう一度贈りませんか」


 私は意味がわからず、思わず店主を見た。

 酒井さんも同じだった。


「贈る……?」


「はい」


「何を、おっしゃっているのか」


 店主は静かに続けた。


「奥様は、結婚式の日を忘れています」


「ええ」


「ですが、あなたはまだ持っています」


 酒井さんの指先が、膝の上でわずかに動いた。


「ならば、失う前に」


 店主は少し間を置いた。


「その日を、もう一度奥様に贈ることができます」


 私は息をのんだ。


 酒井さんは、すぐには言葉を返せなかった。

 その提案が、あまりにも突飛で、けれどどこか理解できるものでもあったからだろう。


「……今さら、ですか」


「今だからです」


 店主は答えた。


「思い出せないのなら、思い出させる必要はありません」


 酒井さんが顔を上げる。


「その日を、もう一度生きればいいのです」


 店の中が静かだった。

 外を通る車の音が、遠くに聞こえた。


「大げさなことをする必要はありません」


 店主は言った。


「古い写真を持っていく。花を一輪持っていく。指輪を、もう一度きちんとはめる。それだけでもいい」


 酒井さんは、何かを考えるように目を伏せた。


「今日は結婚式ですよ、と話しかけてもいいでしょう」


 店主の声は、いつもと変わらず静かだった。


「奥様が覚えていなくても構いません」


「でも」


 酒井さんの声は、少しかすれていた。


「妻は、私を夫だとわからないんです」


「だからこそです」


 店主は言った。


「あなたは、失うことばかり考えています」


 少し間を置いて、続ける。


「一度だけ、奥様に初めて会うつもりで行ってみませんか」


 私はその言葉を聞いて、胸の奥が少しだけ揺れた。


「結婚式の日を贈る、というのは」


 店主は酒井さんを見たまま言う。


「記憶を渡すことではありません」


「……では」


「その日にあったやさしさを、もう一度差し出すことです」


 酒井さんは、しばらく黙っていた。


 膝の上の鞄を見つめる。

 その中にはたぶん、写真か、指輪か、あるいは何か、まだ捨てられないものが入っているのだろうと思った。


「私は」


 やがて酒井さんは言った。


「ずっと、妻に思い出してほしいと思っていました」


 店主は何も言わない。


「私が誰か。どんなふうに生きてきたか。どうして一緒にいたのか」


 酒井さんは小さく息を吐いた。


「でも、そればかりでした」


 私は黙って聞いていた。


「向こうが忘れたことばかり数えていた」


 酒井さんは、少しだけ笑った。

 その笑い方は、さっきよりも弱かった。


「もう一度、初めて会うつもりで、ですか」


「ええ」


 店主はうなずいた。


「思い出を取り戻すためではありません」


 少し間を置いて、続ける。


「今日、あなたがもう一度選ぶためです」


 酒井さんは目を閉じた。

 長い時間をかけて、何かを胸の中で整えているようだった。


 やがて、ゆっくりとうなずく。


「……売るのは、やめます」


 その声は静かだった。

 けれど、来たときよりも少しだけはっきりしていた。


「そうなさるのがよいでしょう」


 店主は帳簿を閉じた。


「写真を、一枚持っていくといい」


 酒井さんは鞄を開いた。

 中から、少し色あせた結婚写真を取り出す。


 若い酒井さんと、白いドレス姿の奥様が並んでいた。

 奥様は少し緊張したように笑い、酒井さんは今よりずっと細い顔で、けれど同じ目をしていた。


「これを、持っていきます」


 写真を見つめる酒井さんの顔は、懐かしさよりも、これから何かをしに行く人の顔に見えた。


「花も買っていこう」


 誰に言うでもなく、そうつぶやく。


 店主は小さくうなずいた。


「白い花がよいかもしれません」


 酒井さんは、ほんの少しだけ笑った。


「妻は、白が好きでした」


 その言い方に、私は少しだけ救われた気がした。

 まだ覚えていることがある。

 まだ贈れるものがある。


 酒井さんは立ち上がった。


「ありがとうございました」


「どういたしまして」


 扉の前で、酒井さんは一度だけ振り返った。


「もし、何も起きなかったとしても」


 店主は静かに答えた。


「それでも、無駄ではありません」


 酒井さんは小さくうなずいた。


「そうですね」


 そう言って、店を出ていった。


 扉が閉まったあと、私はしばらく黙っていた。


「思い出すんでしょうか」


 店主はコーヒーの残りをひと口飲んでから答えた。


「わかりません」


「でも、行かせたんですね」


「ええ」


 店主は窓の外を見た。


「記憶は、失ったものを数えるためだけにあるわけではありません」


 私はその言葉を、すぐには飲み込めなかった。


「では、何のために」


 店主は少しだけ考えてから言った。


「もう一度、やさしくするためのこともあります」


 数週間後、店に手紙が届いた。


 差出人は酒井佐一さんだった。


 店主は封を切り、中を読んでから、私にも見せてくれた。


 便箋には、整った字でこう書かれていた。


 あの日、写真を持って施設へ行きました。

 白い花も一輪だけ持っていきました。

 妻は、私の名前は思い出しませんでした。


 私はその一文を読んで、胸の奥が少し沈んだ。


 けれど、その先があった。


 それでも、私の顔を見て、

 「素敵な人ですね」

 と笑ってくれました。


 私は息を止めた。


 さらに、続きがあった。


 写真を見せると、不思議そうに眺めていました。

 それから、自分の左手を見つめていました。

 そこには指輪があります。


 結婚したばかりの人みたいな顔でした。


 私は便箋を持ったまま、しばらく動けなかった。


 思い出したわけではない。

 名前も、年月も、関係も戻ってはいない。


 それでも、その一瞬だけ、何かがそこにあったのだとわかった。


「思い出したんでしょうか」


 私は小さく言った。


 店主は首を振った。


「いいえ」


 少し間を置いて、続ける。


「もう一度、初めて恋をしたのでしょう」


 私は黙った。


 窓の外は、もう夕方だった。

 通りを歩く人たちの影が長く伸びている。


 忘れないことと、もう一度誰かを好きになることは、別のことだと思っていた。

 ひとつを選べば、もうひとつは失われるのだと。


 けれど、そうではないのかもしれなかった。


 思い出を持ち続けたままでも、

 人は新しく心を動かされることがある。


 それは裏切りではなく、

 取り戻しでもなく、

 ただ、もう一度はじまるということなのだろう。


 店の奥には、今日もたくさんの記憶が眠っている。

 売られたもの。

 買われたもの。

 保留されたもの。


 けれど、どれほど大切な記憶でも、

 人の心が次に誰かを好きになることまでは、止められないのかもしれない。


 恋は、思い出の中にだけあるものではない。


 ときどき人は、

 忘れたあとにさえ、

 もう一度、誰かに惹かれることがあるのだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ