第17話 帰る場所
雨の降りそうな日だった。
空は朝からずっと曇っていて、店の前の通りを歩く人たちも、どこか足早に見えた。私は棚の瓶を拭きながら、何度目かのため息を飲み込んでいた。
透花の査定票は、まだ店の奥にある。
売るとも決めていない。
残すとも決めていない。
保留、という言葉は便利だ。
けれど便利な言葉は、ときどき心をその場に縫い止める。
扉の鈴が鳴った。
入ってきた男は、まるでこの店の空気を知っているような顔をしていた。
三十代半ばくらいだろうか。紺のジャケットに白いシャツ。雨を警戒して持ってきたらしい黒い折りたたみ傘を、入口の脇の傘立てに迷いなく差し込む。靴はきれいに磨かれていて、髪も整っていた。営業職にでもいそうな、感じのいい男だった。
「こんにちは」
その言い方が、初めての客のものではなかった。
店主は帳簿を開きながら、静かに応じる。
「いらっしゃいませ」
男はカウンターの前の椅子に腰を下ろした。
動作にためらいがない。店の中を見回すこともない。まるで、何度も来たことのある喫茶店にでも入るような自然さだった。
「今日は何をお売りになりますか」
店主が尋ねると、男は少しだけ考えるふりをしてから笑った。
「そうですね」
軽い調子だった。
「最初に一人暮らしを始めた春にします」
私は思わず顔を上げた。
「春、ですか」
「ええ」
男は肩をすくめた。
「駅前の古いアパートに住んでた頃のことです。狭くて、壁も薄くて、でも妙に楽しかった」
そう言って笑ったが、その笑い方には懐かしさより整理の気配があった。
「もう戻ることもないですしね。持っていても、今さら役に立たないでしょう」
持っていても役に立たない。
この店に来る人の多くが、似たようなことを言う。
けれどこの男の言葉には、苦しさや迷いよりも、不要な書類を処分するような軽さがあった。
店主は帳簿に目を落としたまま、静かに言った。
「承知しました」
私は何気なく、その手元を見た。
開かれた帳簿の端に、同じ名前が何度も並んでいるのが見えた。
駿河靖。
同じ名前。
同じ筆跡。
日付だけが違う。
私は小さく息をのんだ。
この男は、初めての客ではなかった。
それどころか、何度も来ている。
店主が目を閉じる。
査定のための、あの短い沈黙が落ちた。
やがて店主は目を開いた。
「二十万円です」
男は少しだけ口角を上げた。
「今月も、そのくらいですか」
私は思わず男を見た。
今月も。
男はそれを、まるで家賃の話でもするように言った。
「ええ」
店主はそれ以上何も言わなかった。
「助かります」
駿河はそう言って笑った。
その笑い方は明るかった。明るいのに、どこか空っぽだった。
店主は棚へ向かい、小さな瓶を取り出した。
淡い光が、瓶の底に静かに沈んでいる。
駿河はそれを受け取ると、慣れた手つきで眺めた。
初めて見る人のような戸惑いも、畏れもない。
「きれいですね」
その言い方に、私はまた引っかかった。
きれいだと言う目が、そこに入っているものを見ていない気がした。
代金を受け取り、駿河は瓶を店主へ返した。
それで終わるはずだった。
けれど、そのとき店主が珍しく駿河を見たまま言った。
「ずいぶん頻繁にいらしていますね」
駿河は少しだけ笑った。
「そうでしたっけ」
「前回は先月です」
店主は帳簿に目を落としたまま言う。
「その前は、二か月前」
「そうかもしれませんね」
駿河はあっさりとうなずいた。
「何をお売りになったか、覚えていらっしゃいますか」
私は一瞬、その問いに身構えた。
けれど店主の声は、確かめるというより、見ているような響きだった。
駿河は少しだけ考え、それから笑った。
「いいえ」
あまりにも軽い返事だった。
「細かくは覚えていません」
私は黙った。
「でも、売ったあとは少し楽になるんです」
駿河は指先でカウンターを軽くなぞった。
「身軽になるというか。部屋の荷物を減らしたみたいに、呼吸がしやすくなる」
店主は何も言わない。
「だから、また来るんでしょうね」
駿河は自分でそう言って、少し笑った。
その笑い方を見て、私はようやくわかった。
この人は明るいのではない。
軽くしていないと、立っていられないのだ。
「あなたは、何から逃げているのですか」
店主が静かに言った。
私は思わず顔を上げた。
駿河も、一瞬だけ目を瞬かせた。
けれどすぐに笑った。
「逃げてませんよ」
その笑い方は自然だった。
自然すぎて、かえって用意されたもののようにも見えた。
「毎日、新しい自分になりたいだけです」
店主は黙っている。
駿河は続けた。
「過去って、重いでしょう。昔の失敗とか、人間関係とか、あのとき別の選択をしていたらっていう後悔とか。持ってると、どうしても引っぱられる」
私は黙って聞いていた。
「だったら、いらないものは置いていけばいい」
駿河はそう言って、少し肩をすくめた。
「そのほうが自由だ」
店主は静かに尋ねた。
「自由になれましたか」
駿河は少しだけ笑みを深くした。
「ええ、まあ」
けれど、その返事は妙に軽かった。
軽すぎて、どこにも着地していないように聞こえた。
店主は帳簿に手を置いたまま言った。
「記憶を売るたび、人は少し自由になります」
駿河は黙った。
「ですが、自由になるたびに、帰る場所も失います」
駿河の笑みが、ほんのわずかに止まった。
「帰る場所?」
「ええ」
店主は続ける。
「つらいときに戻る場所。自分が誰だったかを確かめる場所。好きだったもの、嫌いだったもの、許せなかったこと、許されたこと」
私は黙って聞いていた。
「それらは、重荷であると同時に、帰る場所でもあります」
駿河は視線を逸らした。
初めてだった。
「私は、前に進みたいだけですよ」
「前に進むことと、帰る場所をなくすことは同じではありません」
店主の声は静かだった。
「人は、どこにも帰れなくなると、どこへ進んでいるのかもわからなくなります」
駿河は何も言わなかった。
その沈黙の中で、店の外を一台の車が通り過ぎた。
窓の向こうの曇り空が、少しだけ暗くなっていた。
「……大げさですね」
やがて駿河は笑った。
けれど、その笑い方は最初より少しだけ弱かった。
「たかが記憶でしょう」
「そうかもしれません」
店主は否定しなかった。
「ですが、人はたかが記憶でできています」
駿河は返す言葉を探すように、少しだけ口を開き、それから閉じた。
店主はそれ以上、引き止めなかった。
説得もしなかった。
ただ帳簿を閉じた。
ぱたり、という小さな音が、店の中に落ちた。
駿河は立ち上がった。
「また来ます。次は学生時代かな」
その言い方は、来月の支払いを考えるような気軽さだった。
「ええ」
店主は静かにうなずいた。
駿河は会計を済ませ、扉へ向かった。
帰り際、棚の瓶を一度だけ見た。
その視線には、懐かしさも未練もなかった。
ただ、次に何を置いていけるかを探すような目だけがあった。
扉の鈴が鳴る。
駿河は曇った通りへ出ていった。
しばらく、私は何も言えなかった。
店の中には、駿河が座っていた場所の空気だけが、まだ少し残っている気がした。
「また来ますかね」
私が尋ねると、店主は棚の瓶を整えながら答えた。
「来るでしょう」
「どうしてですか」
店主は手を止めなかった。
「帰る場所を探しに」
私は黙った。
さっきの駿河には、帰る場所がないのだろうか。
それとも、もうどこにも帰れないことに、まだ気づいていないのだろうか。
「記憶を売ることは、悪いことなんですか」
気づけば、そんなことを聞いていた。
店主は少しだけ考えてから首を振った。
「いいえ」
その答えは、いつもの店主らしかった。
「売ることで救われる人もいます」
「でも」
「ええ」
店主は静かに言った。
「売りすぎれば、自分がどこから来たのかも、わからなくなる」
私は棚の奥を見た。
そこには、まだ瓶になっていない査定票がある。
透花との思い出。
売るとも、残すとも決めていないままの、一枚。
私はずっと、それを持て余しているのだと思っていた。
前へ進めない理由のように感じていた。
けれど、そうではないのかもしれなかった。
まだ帰れる場所がある、ということなのかもしれない。
外では、とうとう雨が降り始めていた。
窓に細い筋がいくつも走る。
店主は帳簿を棚へ戻しながら、誰に言うでもなくつぶやいた。
「人は、軽くなるためだけに生きているわけではありません」
私はその言葉を、雨音の向こうで聞いていた。
軽くなること。
忘れること。
自由になること。
それらはきっと、間違いではない。
けれど、重さがあるからこそ帰れる場所もあるのだと、
その日の私は、少しだけ思った。
透花の記憶は、まだ痛い。
思い出せば苦しい。
それでも、あれを失った自分が、今より自由だとは思えなかった。
雨は静かに降り続いていた。
帰る場所は、
いつもやさしいものではない。
ときには痛みの形をしていて、
それでも人は、
そこがあったから自分だったのだと知るのだ。




