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思い出のオークション  作者: 冬馬美沙
第1章 記憶を売る店
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17/46

第17話 帰る場所

 雨の降りそうな日だった。


 空は朝からずっと曇っていて、店の前の通りを歩く人たちも、どこか足早に見えた。私は棚の瓶を拭きながら、何度目かのため息を飲み込んでいた。


 透花の査定票は、まだ店の奥にある。


 売るとも決めていない。

 残すとも決めていない。


 保留、という言葉は便利だ。

 けれど便利な言葉は、ときどき心をその場に縫い止める。


 扉の鈴が鳴った。


 入ってきた男は、まるでこの店の空気を知っているような顔をしていた。


 三十代半ばくらいだろうか。紺のジャケットに白いシャツ。雨を警戒して持ってきたらしい黒い折りたたみ傘を、入口の脇の傘立てに迷いなく差し込む。靴はきれいに磨かれていて、髪も整っていた。営業職にでもいそうな、感じのいい男だった。


「こんにちは」


 その言い方が、初めての客のものではなかった。


 店主は帳簿を開きながら、静かに応じる。


「いらっしゃいませ」


 男はカウンターの前の椅子に腰を下ろした。

 動作にためらいがない。店の中を見回すこともない。まるで、何度も来たことのある喫茶店にでも入るような自然さだった。


「今日は何をお売りになりますか」


 店主が尋ねると、男は少しだけ考えるふりをしてから笑った。


「そうですね」


 軽い調子だった。


「最初に一人暮らしを始めた春にします」


 私は思わず顔を上げた。


「春、ですか」


「ええ」


 男は肩をすくめた。


「駅前の古いアパートに住んでた頃のことです。狭くて、壁も薄くて、でも妙に楽しかった」


 そう言って笑ったが、その笑い方には懐かしさより整理の気配があった。


「もう戻ることもないですしね。持っていても、今さら役に立たないでしょう」


 持っていても役に立たない。


 この店に来る人の多くが、似たようなことを言う。

 けれどこの男の言葉には、苦しさや迷いよりも、不要な書類を処分するような軽さがあった。


 店主は帳簿に目を落としたまま、静かに言った。


「承知しました」


 私は何気なく、その手元を見た。

 開かれた帳簿の端に、同じ名前が何度も並んでいるのが見えた。


 駿河靖。


 同じ名前。

 同じ筆跡。

 日付だけが違う。


 私は小さく息をのんだ。


 この男は、初めての客ではなかった。

 それどころか、何度も来ている。


 店主が目を閉じる。

 査定のための、あの短い沈黙が落ちた。


 やがて店主は目を開いた。


「二十万円です」


 男は少しだけ口角を上げた。


「今月も、そのくらいですか」


 私は思わず男を見た。


 今月も。


 男はそれを、まるで家賃の話でもするように言った。


「ええ」


 店主はそれ以上何も言わなかった。


「助かります」


 駿河はそう言って笑った。

 その笑い方は明るかった。明るいのに、どこか空っぽだった。


 店主は棚へ向かい、小さな瓶を取り出した。

 淡い光が、瓶の底に静かに沈んでいる。


 駿河はそれを受け取ると、慣れた手つきで眺めた。

 初めて見る人のような戸惑いも、畏れもない。


「きれいですね」


 その言い方に、私はまた引っかかった。

 きれいだと言う目が、そこに入っているものを見ていない気がした。


 代金を受け取り、駿河は瓶を店主へ返した。

 それで終わるはずだった。


 けれど、そのとき店主が珍しく駿河を見たまま言った。


「ずいぶん頻繁にいらしていますね」


 駿河は少しだけ笑った。


「そうでしたっけ」


「前回は先月です」


 店主は帳簿に目を落としたまま言う。


「その前は、二か月前」


「そうかもしれませんね」


 駿河はあっさりとうなずいた。


「何をお売りになったか、覚えていらっしゃいますか」


 私は一瞬、その問いに身構えた。

 けれど店主の声は、確かめるというより、見ているような響きだった。


 駿河は少しだけ考え、それから笑った。


「いいえ」


 あまりにも軽い返事だった。


「細かくは覚えていません」


 私は黙った。


「でも、売ったあとは少し楽になるんです」


 駿河は指先でカウンターを軽くなぞった。


「身軽になるというか。部屋の荷物を減らしたみたいに、呼吸がしやすくなる」


 店主は何も言わない。


「だから、また来るんでしょうね」


 駿河は自分でそう言って、少し笑った。


 その笑い方を見て、私はようやくわかった。

 この人は明るいのではない。

 軽くしていないと、立っていられないのだ。


「あなたは、何から逃げているのですか」


 店主が静かに言った。


 私は思わず顔を上げた。


 駿河も、一瞬だけ目を瞬かせた。

 けれどすぐに笑った。


「逃げてませんよ」


 その笑い方は自然だった。

 自然すぎて、かえって用意されたもののようにも見えた。


「毎日、新しい自分になりたいだけです」


 店主は黙っている。


 駿河は続けた。


「過去って、重いでしょう。昔の失敗とか、人間関係とか、あのとき別の選択をしていたらっていう後悔とか。持ってると、どうしても引っぱられる」


 私は黙って聞いていた。


「だったら、いらないものは置いていけばいい」


 駿河はそう言って、少し肩をすくめた。


「そのほうが自由だ」


 店主は静かに尋ねた。


「自由になれましたか」


 駿河は少しだけ笑みを深くした。


「ええ、まあ」


 けれど、その返事は妙に軽かった。

 軽すぎて、どこにも着地していないように聞こえた。


 店主は帳簿に手を置いたまま言った。


「記憶を売るたび、人は少し自由になります」


 駿河は黙った。


「ですが、自由になるたびに、帰る場所も失います」


 駿河の笑みが、ほんのわずかに止まった。


「帰る場所?」


「ええ」


 店主は続ける。


「つらいときに戻る場所。自分が誰だったかを確かめる場所。好きだったもの、嫌いだったもの、許せなかったこと、許されたこと」


 私は黙って聞いていた。


「それらは、重荷であると同時に、帰る場所でもあります」


 駿河は視線を逸らした。

 初めてだった。


「私は、前に進みたいだけですよ」


「前に進むことと、帰る場所をなくすことは同じではありません」


 店主の声は静かだった。


「人は、どこにも帰れなくなると、どこへ進んでいるのかもわからなくなります」


 駿河は何も言わなかった。


 その沈黙の中で、店の外を一台の車が通り過ぎた。

 窓の向こうの曇り空が、少しだけ暗くなっていた。


「……大げさですね」


 やがて駿河は笑った。

 けれど、その笑い方は最初より少しだけ弱かった。


「たかが記憶でしょう」


「そうかもしれません」


 店主は否定しなかった。


「ですが、人はたかが記憶でできています」


 駿河は返す言葉を探すように、少しだけ口を開き、それから閉じた。


 店主はそれ以上、引き止めなかった。

 説得もしなかった。

 ただ帳簿を閉じた。


 ぱたり、という小さな音が、店の中に落ちた。


 駿河は立ち上がった。


「また来ます。次は学生時代かな」


 その言い方は、来月の支払いを考えるような気軽さだった。


「ええ」


 店主は静かにうなずいた。


 駿河は会計を済ませ、扉へ向かった。

 帰り際、棚の瓶を一度だけ見た。

 その視線には、懐かしさも未練もなかった。

 ただ、次に何を置いていけるかを探すような目だけがあった。


 扉の鈴が鳴る。

 駿河は曇った通りへ出ていった。


 しばらく、私は何も言えなかった。


 店の中には、駿河が座っていた場所の空気だけが、まだ少し残っている気がした。


「また来ますかね」


 私が尋ねると、店主は棚の瓶を整えながら答えた。


「来るでしょう」


「どうしてですか」


 店主は手を止めなかった。


「帰る場所を探しに」


 私は黙った。


 さっきの駿河には、帰る場所がないのだろうか。

 それとも、もうどこにも帰れないことに、まだ気づいていないのだろうか。


「記憶を売ることは、悪いことなんですか」


 気づけば、そんなことを聞いていた。


 店主は少しだけ考えてから首を振った。


「いいえ」


 その答えは、いつもの店主らしかった。


「売ることで救われる人もいます」


「でも」


「ええ」


 店主は静かに言った。


「売りすぎれば、自分がどこから来たのかも、わからなくなる」


 私は棚の奥を見た。


 そこには、まだ瓶になっていない査定票がある。

 透花との思い出。

 売るとも、残すとも決めていないままの、一枚。


 私はずっと、それを持て余しているのだと思っていた。

 前へ進めない理由のように感じていた。


 けれど、そうではないのかもしれなかった。


 まだ帰れる場所がある、ということなのかもしれない。


 外では、とうとう雨が降り始めていた。

 窓に細い筋がいくつも走る。


 店主は帳簿を棚へ戻しながら、誰に言うでもなくつぶやいた。


「人は、軽くなるためだけに生きているわけではありません」


 私はその言葉を、雨音の向こうで聞いていた。


 軽くなること。

 忘れること。

 自由になること。


 それらはきっと、間違いではない。


 けれど、重さがあるからこそ帰れる場所もあるのだと、

 その日の私は、少しだけ思った。


 透花の記憶は、まだ痛い。

 思い出せば苦しい。

 それでも、あれを失った自分が、今より自由だとは思えなかった。


 雨は静かに降り続いていた。


 帰る場所は、

 いつもやさしいものではない。


 ときには痛みの形をしていて、

 それでも人は、

 そこがあったから自分だったのだと知るのだ。


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