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思い出のオークション  作者: 冬馬美沙
第1章 記憶を売る店
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18/46

第18話 答えのない答え

 土曜の午後、店は静かだった。


 客のいない時間が長くつづくと、時計の針の音まで聞こえてくる気がする。私はカウンターの隅で、店主に淹れてもらったコーヒーを飲んでいた。


 この店のコーヒーは、考え事をするとき、なぜか少し苦い。


 私はカップを両手で包んだまま、ぼんやりと棚の瓶を見ていた。


 犬は、待つことだけを売った。


 飼い主に会ったことまで、なくしたわけじゃない。

 全部を手放したわけじゃない。


 酒井さんは、結婚式を売らなかった。


 忘れられても、

 もう一度好きになることを選んだ。


 駿河は違う。


 思い出を次々売って、

 自由を選んだ。


 けれどそのかわりに、

 帰る場所まで失い始めていた。


 みんな、自分で決めていた。


 何を手放すのか。

 何を残すのか。


 私は、カップの中の黒い液面を見つめた。


 自分だけが、ずっと違っていた気がした。


 私はずっと、

 透花を売るか、残すかで考えていた。


 透花そのものを、

 手放すか、手放さないか。


 でも、本当にそうなんだろうか。


 記憶は、そんなふうにしか扱えないんだろうか。


 私は顔を上げた。


「記憶って、全部かゼロしかないんですか」


 店主は、棚の瓶を整えていた手を止めた。

 すぐには答えず、少しだけ考えるように目を伏せる。


「そう思う方が多いですね」


「でも」


 私は言葉を探した。


「犬は、全部じゃなかったですよね」


「ええ」


「だったら、透花も……」


 そこまで言って、私は口をつぐんだ。


 店主がこちらを見る。


 静かな目だった。

 急かしもしないし、答えを与えようともしない目。


「あなたは、何を手放したいのですか」


 私は答えられなかった。


 透花を忘れたいわけじゃない。

 たぶん、それはずっと前からわかっていた。


 じゃあ、何を手放したいのか。


 未練なのか。

 後悔なのか。

 もし別れていなければ、という考えなのか。

 あのとき何もできなかった自分への、罪悪感なのか。

 それとも、ただ一人でいる寂しさなのか。


 わからなかった。


 わからないまま、

 私はずっと「透花を売る」と言っていたのかもしれない。


 本当に手放したいものは、

 透花じゃないのかもしれなかった。


 でも、それが何なのかは、まだ言葉にならなかった。


 店主は、それ以上何も言わなかった。


 私も何も言えなかった。


 店の中には、時計の針の音と、遠くを走る車の音だけがあった。

 コーヒーは少し冷めていた。


 答えが出ないことに、少しだけ焦っていたはずなのに、

 不思議と、前より息はしやすかった。


 答えが出ないままでも、

 問いが違っていたのだと思う。


 透花を売るか、残すか。


 そうじゃない。


 透花に結びついた何を、

 私は手放したいのか。


 その違いは小さいようでいて、

 たぶん、まったく違うことだった。


 私はカップの残りを飲み干して、静かに立ち上がった。


「ありがとうございました」


 店主はいつものように、小さくうなずいた。


「またお越しください」


 その言い方は、客を見送る声でありながら、

 答えを急がなくていいと言われたようにも聞こえた。


 店を出ると、午後の光は少しやわらいでいた。


 駅までの道を、私はゆっくり歩いた。

 土曜の街は人が多いのに、どこかみんな自分の行き先だけを見ているようだった。


 改札へ向かう人の流れの中で、

 ひとりの女性とすれ違った。


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