第18話 答えのない答え
土曜の午後、店は静かだった。
客のいない時間が長くつづくと、時計の針の音まで聞こえてくる気がする。私はカウンターの隅で、店主に淹れてもらったコーヒーを飲んでいた。
この店のコーヒーは、考え事をするとき、なぜか少し苦い。
私はカップを両手で包んだまま、ぼんやりと棚の瓶を見ていた。
犬は、待つことだけを売った。
飼い主に会ったことまで、なくしたわけじゃない。
全部を手放したわけじゃない。
酒井さんは、結婚式を売らなかった。
忘れられても、
もう一度好きになることを選んだ。
駿河は違う。
思い出を次々売って、
自由を選んだ。
けれどそのかわりに、
帰る場所まで失い始めていた。
みんな、自分で決めていた。
何を手放すのか。
何を残すのか。
私は、カップの中の黒い液面を見つめた。
自分だけが、ずっと違っていた気がした。
私はずっと、
透花を売るか、残すかで考えていた。
透花そのものを、
手放すか、手放さないか。
でも、本当にそうなんだろうか。
記憶は、そんなふうにしか扱えないんだろうか。
私は顔を上げた。
「記憶って、全部かゼロしかないんですか」
店主は、棚の瓶を整えていた手を止めた。
すぐには答えず、少しだけ考えるように目を伏せる。
「そう思う方が多いですね」
「でも」
私は言葉を探した。
「犬は、全部じゃなかったですよね」
「ええ」
「だったら、透花も……」
そこまで言って、私は口をつぐんだ。
店主がこちらを見る。
静かな目だった。
急かしもしないし、答えを与えようともしない目。
「あなたは、何を手放したいのですか」
私は答えられなかった。
透花を忘れたいわけじゃない。
たぶん、それはずっと前からわかっていた。
じゃあ、何を手放したいのか。
未練なのか。
後悔なのか。
もし別れていなければ、という考えなのか。
あのとき何もできなかった自分への、罪悪感なのか。
それとも、ただ一人でいる寂しさなのか。
わからなかった。
わからないまま、
私はずっと「透花を売る」と言っていたのかもしれない。
本当に手放したいものは、
透花じゃないのかもしれなかった。
でも、それが何なのかは、まだ言葉にならなかった。
店主は、それ以上何も言わなかった。
私も何も言えなかった。
店の中には、時計の針の音と、遠くを走る車の音だけがあった。
コーヒーは少し冷めていた。
答えが出ないことに、少しだけ焦っていたはずなのに、
不思議と、前より息はしやすかった。
答えが出ないままでも、
問いが違っていたのだと思う。
透花を売るか、残すか。
そうじゃない。
透花に結びついた何を、
私は手放したいのか。
その違いは小さいようでいて、
たぶん、まったく違うことだった。
私はカップの残りを飲み干して、静かに立ち上がった。
「ありがとうございました」
店主はいつものように、小さくうなずいた。
「またお越しください」
その言い方は、客を見送る声でありながら、
答えを急がなくていいと言われたようにも聞こえた。
店を出ると、午後の光は少しやわらいでいた。
駅までの道を、私はゆっくり歩いた。
土曜の街は人が多いのに、どこかみんな自分の行き先だけを見ているようだった。
改札へ向かう人の流れの中で、
ひとりの女性とすれ違った。




