第19話 揺れる面影
店を出たあと、私はそのまま駅へ向かった。
土曜の午後のホームには人が多く、電車が来るたびに、誰かの靴音や話し声が波のように動いた。私は列の後ろに並びながら、さっき店の帰りにすれ違った女性のことを考えていた。
どうして、振り返りそうになったんだろう。
自分でも、よくわからなかった。
電車が滑り込んできて、扉が開く。
人の流れに押されるようにして乗り込み、空いていた窓際の席に座った。
発車のベルが鳴る。
車体が小さく揺れて、ホームがゆっくり後ろへ流れていく。
私は窓の外を見た。
けれど見ていたのは景色ではなく、
さっきの一瞬だった。
あの女性の顔を、私はちゃんと見ていない。
横顔も一瞬だった。
すれ違いざまに目に入ったのは、肩までの髪と、風に揺れたその動きだけだった気がする。
それなのに、どうして気になったんだろう。
ふと、透花のことを思い出した。
透花も髪を肩まで伸ばしていた。
風が吹くと、よく耳にかける癖があった。
電車の窓に映る街並みが、途切れ途切れに流れていく。
その流れに引かれるように、記憶もまた断片のまま浮かんでは消えた。
初めて一緒に電車に乗った日。
休日の昼で、車内は少し空いていた。
私たちは窓際に並んで座って、どこへ行くでもないみたいな顔で、同じ方向を見ていた。
透花の髪が頬にかかって、
それを指で払う横顔を、私はたしかに見ていたはずだった。
笑っていた気もする。
何を話していたのかは、もう思い出せない。
別の日には、降りる駅が近づいたとき、
「次、降りるよ」
と袖を軽く引っ張られたことがあった。
その感触だけが、妙に残っている。
でも、どれも鮮明ではなかった。
思い出そうとすると、輪郭が少しずつぼやける。
たしかにあったはずなのに、
手を伸ばすほど遠くなる。
本当に、似ていたんだろうか。
顔はちゃんと見ていない。
横顔も一瞬だった。
覚えているのは、髪が揺れたことだけだ。
思い返しても、
顔だけは浮かばなかった。
見ていたつもりで、
私は何も見ていなかったのかもしれない。
もしかすると、
似ていたんじゃない。
私が、透花を思い出したかっただけなのかもしれない。
似ている誰かを見たかったのかもしれない。
面影を探していただけなのかもしれない。
電車がトンネルに入る。
窓ガラスに、外の景色の代わりに自分の姿がはっきり映った。
透花を手放したいわけじゃない。
それは、もうわかっている。
でも、
透花を探してしまう自分は、まだいる。
街の中で。
人混みの中で。
すれ違う誰かの髪や、声や、歩き方の中で。
私はまだ、
いないはずの人を探しているのかもしれなかった。
それが未練なのかどうかは、まだわからない。
けれど少なくとも、
何かを手放せずにいる自分の形が、
少しだけ見えた気がした。
電車が減速し、次の駅へ滑り込んでいく。
ドアが開くと、人が何人も降りていった。
入れ替わるように新しい人が乗ってきて、車内の空気が少しだけ変わる。
私も立ち上がった。
もう、あの女性の顔は思い出せなかった。
思い出せるのは、
風に揺れた髪だけだった。




