第20話 面影の人
翌週の土曜日、私はまた店を訪れていた。
答えは、まだ出ていない。
それでも足が向くのは、この店に来ると少しだけ考えやすくなるからなのか、それとも考えずにはいられなくなるからなのか、自分でもよくわからなかった。
カウンターの隅に座ると、店主はいつものように何も聞かず、静かにコーヒーを置いた。
湯気が細く立ちのぼる。
私はカップに手を添えたまま、黒い液面を見つめた。
透花を手放したいわけじゃない。
でも、透花を探してしまう自分は、まだいる。
そのことだけは、先週より少しはっきりしていた。
店の中は静かだった。
棚に並ぶ瓶は変わらず、時計の針の音だけが、やけに遠くまで響いている気がした。
そのとき、扉の鈴が鳴った。
私は思わず顔を上げた。
入ってきたのは、あのとき駅ですれ違った女性だった。
……あの人だ。
そう思った。
けれど、確信はなかった。
女性は店の中を一度だけ見回し、少し迷うようにしてからカウンターの前に立った。
今度は正面から、その顔が見えた。
似ているような気もした。
でも、違う気もした。
目元も、口元も、透花とは違う。
表情の作り方も、立っているときの空気も違う。
たぶん、一番似ていたのは髪だった。
肩までの長さと、
ふとした拍子に揺れる、そのやわらかい動きだけが、
私の記憶を引っかけたのだとわかった。
そう気づいたとき、
少しだけ安心して、
少しだけ寂しかった。
女性は小さく会釈をした。
「査定をお願いしたいんです」
その声は、思っていたより落ち着いていた。
私は無意識に、少しだけ背筋を伸ばしていた。
店主はいつもの調子でうなずき、カウンターの下から一枚の受付票を取り出した。
「承ります。では、お名前などご記入ください」
「はい」
女性は小さく答え、差し出された紙を受け取った。
カウンターに置かれたペンを手に取り、迷いのない字で名前を書いていく。
足立愛美。
視界の端に入ったその名前を、私はなぜかはっきり読んでしまった。
店主は受付票に目を落とす。
職業欄には、司書とだけ書かれていた。
その二文字が、
不思議なくらい彼女の声によく似合っている気がした。
店主は静かに尋ねた。
「本日は、どの記憶をご希望ですか」
愛美はすぐには答えなかった。
視線を落とし、指先で鞄の持ち手を軽く握り直す。
「まだ、売ると決めたわけじゃないんです」
「査定だけでも構いません」
店主の声は静かだった。
愛美は少しだけ息をついてから、言った。
「父との記憶です」
私は思わず、愛美のほうを見た。
透花とは、何の関係もない記憶だった。
「父が亡くなる前に、約束したことがあって」
愛美は言葉を選ぶように、ゆっくり続けた。
「守れなかったんです。ずっと、それが残っていて」
それ以上は詳しく話さなかった。
けれど、それだけで十分だった。
その記憶が、この人にとって軽いものではないことはわかった。
店主は短くうなずき、査定の準備に入った。
私はコーヒーに口をつけた。
少し冷めていて、苦みが前よりはっきりしていた。
愛美は静かに椅子に座っていた。
落ち着いて見えるのに、膝の上に置いた手の指先だけが、ときどき小さく動いていた。
その様子を見て、私は少し拍子抜けしている自分に気づいた。
勝手に、透花に似た誰かとして気にしていたのに、
その人は私の知らない人生を生きていて、
私とは別の痛みを抱えてここに来ていた。
当たり前のことなのに、
その当たり前が、少しだけ胸に刺さった。
しばらくして、店主が査定票を差し出した。
愛美はそれを受け取り、目を落とす。
表情は大きく変わらなかった。
けれど、そこに書かれた金額よりも、
そこに記された意味のほうを見ているように思えた。
長くは見なかった。
愛美は査定票をそっと伏せ、
少し間を置いてから言った。
「……少し、考えます」
「かしこまりました」
店主はそれ以上、勧めなかった。
愛美は査定票を鞄にしまった。
私はその様子を見ながら、
この人も保留なんだ、と思った。
売ると決めきれない。
残すとも言い切れない。
その曖昧な場所に立っているのは、
私だけじゃないのかもしれなかった。
ふと、自分の査定票のことを思い出した。
あの紙を受け取ったときの重さを、
私はまだ覚えている。
愛美は立ち上がり、店主に一礼した。
「ありがとうございました」
「またお越しください」
それだけのやり取りだった。
愛美は私のほうを見ることなく、扉のほうへ向かった。
鈴が鳴って、姿が消える。
私は結局、何も話しかけなかった。
話しかける理由がなかった。
たぶん、それでよかった。
店の中に、また静けさが戻る。
私はしばらく、閉まった扉を見ていた。
「似ていました」
気づくと、そんな言葉が口からこぼれていた。
店主は棚の瓶に手を伸ばしたまま、
こちらを見もせずに答えた。
「そうですか」
「でも……違いました」
少しの沈黙があった。
店主は静かに言った。
「違う人ですから」
私は、わずかに苦笑した。
当たり前のことだった。
でも、その当たり前を、
私は今までちゃんと見ていなかったのかもしれない。
似ているから気になったのだと思っていた。
けれど、
今、心に残っているのは、
透花に似た髪ではなく、
父との約束を話すときの、
あの静かな声だった。
私はその違いを、
まだうまく説明できなかった。
ただ、
面影を追うことと、
一人の人を見ることは、
同じではないのだと、
ようやく入口で立ち止まれた気がした。
カップの中のコーヒーは、もう冷めていた。




