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思い出のオークション  作者: 冬馬美沙
第1章 記憶を売る店
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20/46

第20話 面影の人

 翌週の土曜日、私はまた店を訪れていた。


 答えは、まだ出ていない。


 それでも足が向くのは、この店に来ると少しだけ考えやすくなるからなのか、それとも考えずにはいられなくなるからなのか、自分でもよくわからなかった。


 カウンターの隅に座ると、店主はいつものように何も聞かず、静かにコーヒーを置いた。


 湯気が細く立ちのぼる。


 私はカップに手を添えたまま、黒い液面を見つめた。


 透花を手放したいわけじゃない。


 でも、透花を探してしまう自分は、まだいる。


 そのことだけは、先週より少しはっきりしていた。


 店の中は静かだった。

 棚に並ぶ瓶は変わらず、時計の針の音だけが、やけに遠くまで響いている気がした。


 そのとき、扉の鈴が鳴った。


 私は思わず顔を上げた。


 入ってきたのは、あのとき駅ですれ違った女性だった。


 ……あの人だ。


 そう思った。

 けれど、確信はなかった。


 女性は店の中を一度だけ見回し、少し迷うようにしてからカウンターの前に立った。


 今度は正面から、その顔が見えた。


 似ているような気もした。

 でも、違う気もした。


 目元も、口元も、透花とは違う。

 表情の作り方も、立っているときの空気も違う。


 たぶん、一番似ていたのは髪だった。


 肩までの長さと、

 ふとした拍子に揺れる、そのやわらかい動きだけが、

 私の記憶を引っかけたのだとわかった。


 そう気づいたとき、

 少しだけ安心して、

 少しだけ寂しかった。


 女性は小さく会釈をした。


「査定をお願いしたいんです」


 その声は、思っていたより落ち着いていた。


 私は無意識に、少しだけ背筋を伸ばしていた。


 店主はいつもの調子でうなずき、カウンターの下から一枚の受付票を取り出した。


「承ります。では、お名前などご記入ください」


「はい」


 女性は小さく答え、差し出された紙を受け取った。


 カウンターに置かれたペンを手に取り、迷いのない字で名前を書いていく。


 足立愛美。


 視界の端に入ったその名前を、私はなぜかはっきり読んでしまった。


 店主は受付票に目を落とす。


 職業欄には、司書とだけ書かれていた。


 その二文字が、

 不思議なくらい彼女の声によく似合っている気がした。


 店主は静かに尋ねた。


「本日は、どの記憶をご希望ですか」


 愛美はすぐには答えなかった。

 視線を落とし、指先で鞄の持ち手を軽く握り直す。


「まだ、売ると決めたわけじゃないんです」


「査定だけでも構いません」


 店主の声は静かだった。


 愛美は少しだけ息をついてから、言った。


「父との記憶です」


 私は思わず、愛美のほうを見た。


 透花とは、何の関係もない記憶だった。


「父が亡くなる前に、約束したことがあって」


 愛美は言葉を選ぶように、ゆっくり続けた。


「守れなかったんです。ずっと、それが残っていて」


 それ以上は詳しく話さなかった。

 けれど、それだけで十分だった。


 その記憶が、この人にとって軽いものではないことはわかった。


 店主は短くうなずき、査定の準備に入った。


 私はコーヒーに口をつけた。

 少し冷めていて、苦みが前よりはっきりしていた。


 愛美は静かに椅子に座っていた。

 落ち着いて見えるのに、膝の上に置いた手の指先だけが、ときどき小さく動いていた。


 その様子を見て、私は少し拍子抜けしている自分に気づいた。


 勝手に、透花に似た誰かとして気にしていたのに、

 その人は私の知らない人生を生きていて、

 私とは別の痛みを抱えてここに来ていた。


 当たり前のことなのに、

 その当たり前が、少しだけ胸に刺さった。


 しばらくして、店主が査定票を差し出した。


 愛美はそれを受け取り、目を落とす。


 表情は大きく変わらなかった。

 けれど、そこに書かれた金額よりも、

 そこに記された意味のほうを見ているように思えた。


 長くは見なかった。


 愛美は査定票をそっと伏せ、

 少し間を置いてから言った。


「……少し、考えます」


「かしこまりました」


 店主はそれ以上、勧めなかった。


 愛美は査定票を鞄にしまった。


 私はその様子を見ながら、

 この人も保留なんだ、と思った。


 売ると決めきれない。

 残すとも言い切れない。


 その曖昧な場所に立っているのは、

 私だけじゃないのかもしれなかった。


 ふと、自分の査定票のことを思い出した。


 あの紙を受け取ったときの重さを、

 私はまだ覚えている。


 愛美は立ち上がり、店主に一礼した。


「ありがとうございました」


「またお越しください」


 それだけのやり取りだった。


 愛美は私のほうを見ることなく、扉のほうへ向かった。

 鈴が鳴って、姿が消える。


 私は結局、何も話しかけなかった。


 話しかける理由がなかった。

 たぶん、それでよかった。


 店の中に、また静けさが戻る。


 私はしばらく、閉まった扉を見ていた。


「似ていました」


 気づくと、そんな言葉が口からこぼれていた。


 店主は棚の瓶に手を伸ばしたまま、

 こちらを見もせずに答えた。


「そうですか」


「でも……違いました」


 少しの沈黙があった。


 店主は静かに言った。


「違う人ですから」


 私は、わずかに苦笑した。


 当たり前のことだった。


 でも、その当たり前を、

 私は今までちゃんと見ていなかったのかもしれない。


 似ているから気になったのだと思っていた。


 けれど、

 今、心に残っているのは、

 透花に似た髪ではなく、

 父との約束を話すときの、

 あの静かな声だった。


 私はその違いを、

 まだうまく説明できなかった。


 ただ、

 面影を追うことと、

 一人の人を見ることは、

 同じではないのだと、

 ようやく入口で立ち止まれた気がした。


 カップの中のコーヒーは、もう冷めていた。

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