第21話 もう一枚の査定票
次にその店を訪れたのは、三日後のことだった。
平日の夕方で、外はまだ少し明るかった。
仕事帰りの人たちが行き交う時間のはずなのに、この路地だけはいつも少しだけ切り離されているように見える。
私はその静けさに引かれるように、扉を開けた。
鈴の音が鳴る。
「いらっしゃいませ」
店主の声は、相変わらず抑揚が少なかった。
私は軽く会釈をして、前と同じカウンターの隅に座る。
店主は何も聞かず、コーヒーを淹れ始めた。
この店では、何かを決めていなくても座っていていい。
そのことに、私は少しずつ甘えている気がした。
湯が落ちる音を聞きながら、私は店の中をぼんやり見回した。
棚に並ぶ瓶。
静かな照明。
磨かれた木のカウンター。
何も変わっていないはずなのに、前より少しだけ見えるものが増えた気がした。
たとえば、カウンターの端に重ねられた受付票。
たとえば、その横に置かれた細い万年筆。
たとえば、店主が客の前では決して急がないこと。
コーヒーが置かれる。
「ありがとうございます」
礼を言ってカップに手を添えた、そのときだった。
扉の鈴が、もう一度鳴った。
私は顔を上げた。
入ってきたのは、足立愛美だった。
先週と同じように、控えめに一礼してから店に入ってくる。
今日は淡い灰色のカーディガンを羽織っていて、肩には布のトートバッグを掛けていた。
一瞬だけ、愛美も私に気づいたようだった。
けれど驚いた顔はせず、ほんの少しだけ目をやわらげた。
「……こんにちは」
小さな声だったが、店の静けさの中では十分に届いた。
「こんにちは」
私もそれだけ返した。
それ以上の言葉は続かなかった。
けれど、気まずさはなかった。
愛美は店主の前に立つ。
「先日の件で、少しだけお話を聞きたくて」
「承ります」
店主は短くうなずいた。
愛美は前回と同じ椅子に腰を下ろした。
鞄から、折り目のついた査定票を取り出す。
私はそれを見て、なぜか自分の胸の内側まで見られたような気がした。
あの紙を、持ち帰ったのだ。
しまい込んだのではなく、
捨てたのでもなく、
またここへ持ってきた。
それだけで、少しわかることがある気がした。
店主は査定票を受け取り、静かに目を落とす。
「ご不明な点がありましたか」
「不明、というほどではないんです。ただ……」
愛美は言葉を探すように、視線を紙の上に落とした。
「値段がつく、ということが、まだうまく飲み込めなくて」
私はカップを持つ手に、少しだけ力を入れた。
その感覚は、よくわかった。
記憶に値段がつく。
それを紙に書かれて受け取る。
その重さは、金額そのものよりも、
値段をつけられてしまったという事実のほうにある。
店主は少し間を置いてから答えた。
「査定は、価値を決めるものではありません」
愛美が顔を上げる。
「では、何を見ているんですか」
「その記憶が、どれほど今のあなたに結びついているかです」
愛美は黙った。
私も、何も言えなかった。
店主の言葉は、説明のようでいて、説明しきってはいなかった。
けれど、その曖昧さのほうが、この店には似合っている気がした。
「結びついているほど、高くなるんですか」
愛美が尋ねる。
「一概には言えません」
店主はそう言って、査定票をそっとカウンターに置いた。
「強く結びついていても、手放したい記憶はあります。反対に、薄れていても、失いたくない記憶もあります」
愛美は小さくうなずいた。
「……そうですよね」
その声は、納得したというより、
納得しきれないまま受け止めようとしている響きだった。
私は、愛美の横顔を見た。
先週よりも少しだけ、表情が近くに感じられた。
透花に似ているかどうかではなく、
この人もまた、自分の中で言葉にならないものを抱えているのだとわかる距離だった。
愛美は査定票を指先でなぞるようにしてから、ぽつりと言った。
「売ったら、楽になるんでしょうか」
店主はすぐには答えなかった。
「楽になる方もいます」
「ならない人も?」
「いらっしゃいます」
愛美は少しだけ口元を引き結んだ。
「残したまま苦しいのと、なくしてしまって空くのと、どちらがいいのか……まだわからなくて」
その言葉に、私は思わず視線を落とした。
それはたぶん、私も同じだった。
透花を覚えている苦しさと、
透花を失う空白と、
どちらがましなのか、まだ決められない。
店主は静かに言った。
「決められないうちは、決めなくてよろしいかと」
愛美は、その言葉に少しだけ目を瞬かせた。
「そういうものですか」
「少なくとも、この店では」
店主の声は変わらず穏やかだった。
愛美はふっと息をつき、
わずかに肩の力を抜いた。
「……変なお店ですね」
「よく言われます」
店主は真顔のまま答えた。
私は思わず、少しだけ笑ってしまった。
愛美もそれに気づいたのか、ほんのわずかに口元をゆるめた。
それは先週にはなかった表情だった。
短い沈黙が落ちる。
けれど今度の沈黙は、前より少しだけやわらかかった。
愛美は査定票を丁寧に折り直し、鞄にしまった。
「今日は、やっぱり持ち帰ります」
「かしこまりました」
店主はそれ以上何も言わない。
愛美は立ち上がり、軽く一礼した。
それから、帰る前に一度だけこちらを見た。
「……よく来られるんですか」
不意に話しかけられて、私は少しだけ驚いた。
「最近は、たまに」
「そうですか」
愛美は少し迷うようにしてから、続けた。
「私も、たぶんまた来ます」
私はうなずいた。
「たぶん、私も」
それだけの会話だった。
けれど、その短いやり取りが、
なぜか査定票よりも軽く、
それでいて確かに手元に残るもののように思えた。
愛美は小さく会釈をして、店を出ていった。
鈴の音が、静かに揺れる。
私はしばらく、その扉を見ていた。
「似た者同士かもしれませんね」
不意に店主が言った。
私は顔を上げる。
「……誰がですか」
「お二人ともです」
店主はカップを拭きながら、何でもないことのように続けた。
「査定票を持ち帰る方は、たいていすぐには決めません」
私は苦笑した。
「それは、優柔不断ってことですか」
「慎重だということにしておきましょう」
私は小さく息をついた。
慎重。
そう言われると、少しだけ救われる気もした。
けれど本当は、
慎重なのではなく、
失うことにまだ耐えられないだけなのかもしれなかった。
カウンターの上には、もう一杯分のコーヒーの余韻が残っていた。
誰かが持ち帰った査定票と、
誰かがまだ決められないまま置いていった沈黙だけが、
店の中に静かに残っている気がした。




