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思い出のオークション  作者: 冬馬美沙
第2章 売らないまま残るもの
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22/46

第22話 触れない場所

 その店へ向かう足取りが、前より少しだけ自然になっていることに、私は路地へ入ってから気づいた。


 迷っているわけではない。

 決めたわけでもない。


 ただ、まだ答えを出せないままの自分を抱えていく先として、この店の静けさを思い出すようになっていた。


 扉を開けると、鈴が鳴る。


「いらっしゃいませ」


 店主はいつもの声でそう言った。


 私は軽く会釈をして、カウンターの端に座る。

 店の中を見回して、ほんの少しだけ視線が止まった。


 今日は、愛美はいなかった。


 それを確認したかったわけではない。

 けれど、いないとわかると、少しだけ店が広く見えた。


 店主は何も聞かず、コーヒーの準備を始める。


 湯が落ちる音が、静かな店内に細く響いた。


 私はその音を聞きながら、棚のほうへ目を向けた。


 最初にこの店へ来たときは、ただ不思議な場所だと思った。

 記憶を売る店。

 瓶に詰められた、誰かの過去。

 それだけで十分に現実離れしていて、細かいところまで見る余裕はなかった。


 けれど今は、少し違う。


 棚の高さ。

 瓶の並び方。

 札の向き。

 光の当たり方。


 そういうものが、前より少しだけ目に入るようになっていた。


 コーヒーが置かれる。


「ありがとうございます」


 礼を言ってカップに手を添えながら、私はもう一度棚を見た。


 そのとき、違和感に気づいた。


 棚の一角に、何も置かれていない場所があった。


 空白、と言うほど大きくはない。

 瓶が一つ置けるかどうかくらいの、わずかな隙間だった。


 けれど、その小ささのわりに、妙に目についた。


 周囲の瓶はきれいに並んでいるのに、そこだけが不自然に整っている。

 たまたま空いたというより、

 最初から何も置かないことに決められているような空き方だった。


 私はしばらくその場所を見ていた。


 店主はカウンターの内側で、帳面のようなものに何かを書きつけている。

 その横顔はいつもと変わらない。


 けれど、ふと立ち上がって棚のほうへ向かったとき、

 私は無意識にその手元を目で追っていた。


 店主は棚の瓶をいくつか静かに整えた。

 札の向きを直し、間隔を揃え、埃を払うように指先を滑らせる。


 その動きは無駄がなく、慣れていた。


 だが、その空いた場所の前まで来たときだけ、

 ほんのわずかに手が止まった。


 止まって、

 それから何も触れずに、隣の瓶へ移った。


 私はカップを持ったまま、その動きを見ていた。


 見間違いかもしれないと思った。

 たまたまそう見えただけかもしれない。


 けれど、次に店主が棚の下段へ手を伸ばしたときも、

 やはりその場所だけは避けるようにしていた。


 私はコーヒーを一口飲んだ。


 少し冷めかけていて、苦みが静かに残る。


「どうかされましたか」


 不意に声をかけられ、私は顔を上げた。


 店主がこちらを見ていた。


「いえ……」


 そう答えかけてから、私は少し迷った。


 聞いてもいいことなのか、わからなかった。

 この店には、聞けば答えてくれることと、聞いても意味のないことがある気がしていた。


 それでも、口をついて出た。


「あの棚のところ、何も置いてないんですね」


 店主は一度だけ、私の視線の先を見た。


「ああ」


 それだけ言って、少し間を置く。


「空いているように見えますか」


「……見えます」


「そうかもしれません」


 曖昧な返事だった。


 私は思わず苦笑する。


「違うんですか」


「何もない場所、というわけではありません」


 店主は静かに言った。


 私はその言葉の意味をすぐには飲み込めなかった。


「置いてある、ということですか」


「置かないままにしている、と言ったほうが近いでしょうか」


 私は黙った。


 店主はそれ以上説明しなかった。


 その言い方では、結局あるのかないのかわからない。

 けれど、わからないままのほうが、この店にはふさわしい気もした。


「触れないんですか」


 自分でも、少し踏み込みすぎたと思った。


 店主は否定もしなかったし、肯定もしなかった。


「触れないほうがいいものは、あります」


 その声はいつもと同じ穏やかさだった。

 けれど、その穏やかさの奥に、ほんのわずかに硬いものが混じった気がした。


 私はそれ以上、何も言えなかった。


 店主は棚から離れ、またカウンターの内側へ戻る。

 その背中は変わらず静かで、さっきのやり取りだけが、店の空気の中に薄く残っているようだった。


 私はもう一度、棚のその場所を見た。


 何もない。

 少なくとも、私の目にはそう見える。


 けれど、ただの空白ではないことだけはわかった。


 そこには、置かれていない何かがある。

 あるいは、置けない何かがある。


 その違いを、私はまだうまく言葉にできなかった。


 扉の鈴が鳴った。


 反射的にそちらを見る。

 だが入ってきたのは愛美ではなく、年配の女性だった。


 私は自分が一瞬だけ誰を期待したのかに気づいて、視線を落とした。


 女性は小さな紙袋を抱えていて、店主に査定を頼んでいるようだった。

 店主はいつも通りの調子で応じる。


 さっきまでのわずかな硬さは、もう見えなかった。


 私はその様子を見ながら、少しだけ不思議に思った。


 この人は、誰の記憶にも値段をつける。

 誰の迷いにも、静かに向き合う。

 けれど、自分の店の中にあるたった一つの空白には、触れない。


 それはただの癖ではなく、

 たぶん理由のある沈黙なのだろうと思った。


 コーヒーを飲み終えるころには、外は少し暗くなっていた。


 私は席を立ち、代金を置く。


「ありがとうございました」


「またお越しください」


 店主はそう言った。


 私は会釈をして、扉へ向かう。

 鈴の音が鳴る直前、もう一度だけ振り返った。


 棚の一角は、やはり静かに空いていた。


 何も置かれていないのではなく、

 何かを置かないままにしている。


 あの場所は、たぶんこの店の中でいちばん静かで、

 いちばん多くを語っていない場所だった。


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