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思い出のオークション  作者: 冬馬美沙
第2章 売らないまま残るもの
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第23話 司書の指先

 次に愛美と会ったのは、その二日後だった。


 店の扉を開けたとき、先に目に入ったのは店主ではなく、カウンターの端に座る彼女の横顔だった。


 私は一瞬だけ足を止めたが、愛美はすぐにこちらに気づいて、小さく会釈をした。


「こんにちは」


「こんにちは」


 それだけ言葉を交わして、私は少し離れた席に座った。


 店主がいつものようにコーヒーを淹れ始める。

 湯の落ちる音が、静かな店の中に細く響いた。


 愛美の前には、受付票と細いペン、それから文庫本が一冊置かれていた。


 彼女は書き終えた受付票の端を、指先でそっと揃えてから店主に渡した。

 紙の角がきれいに重なる。

 何気ない動きなのに、妙に目に残った。


 店主はそれを受け取り、軽く目を落とす。


 愛美はそのあいだ、膝の上の鞄から本を取り出した。

 表紙をつかむのではなく、背を支えるようにして持ち上げる。

 途中でしおりが少しだけずれかけたが、慣れた手つきで直して、そのまま静かに開いた。


 私はなんとなく、その動きを見ていた。


 大げさな仕草ではない。

 ただ、雑なところがひとつもなかった。


 コーヒーが運ばれてくる。


「ありがとうございます」


 礼を言ってカップに手を添える。

 向かいでは愛美も本を閉じ、店主から受け取ったカップを持ち上げていた。


 一口飲んで、ソーサーに戻す。

 ほとんど音がしなかった。


 店主がふと、愛美の手元を見て言った。


「本を大切に扱われるんですね」


 愛美は少しだけ目を上げた。

 言われると思っていなかったのか、わずかに驚いたような顔をする。


「……そう見えますか」


「ええ」


 店主はそれ以上、余計なことは言わなかった。


 愛美はほんの少しだけ口元をやわらげた。


「仕事柄、癖になってしまって」


 店主は小さくうなずいた。


 それだけのやり取りだった。

 けれど、なぜかその短さが心地よかった。


 私はカップを持ったまま、愛美の指先を見ていた。


 人は、何を大切にしているかが、案外手の動きに表れるのかもしれない。


 そんなことを思った。


 しばらくして、私は何気ないふうを装って尋ねた。


「図書館のお仕事なんですか」


 愛美は本に挟んだしおりを整えながら、こちらを見る。


「はい、司書です」


 短い答えだった。


 けれど、その二文字は不思議なくらい自然に聞こえた。

 説明されたというより、すでに見ていたものに名前がついたような感じだった。


「やっぱり、という感じがします」


 そう言うと、愛美は少しだけ首をかしげた。


「そうですか」


「なんとなくですけど」


 曖昧な言い方しかできなかったが、愛美はそれ以上聞き返さなかった。


 店主はカウンターの内側で、静かにカップを拭いている。

 こちらの会話に入るでもなく、離れるでもなく、ただそこにいた。


「本は、お好きなんですか」


 私がそう聞くと、愛美は少し考えるように視線を落とした。


「好き、だと思います」


「思います?」


「仕事にしてしまうと、好きだけでは済まないので」


 その言い方が少しおかしくて、私は小さく笑った。


「たしかに」


 愛美も、ほんの少しだけ笑った。


 その表情は控えめだったが、前より自然だった。


「でも、触るのは好きです」


 愛美はそう言って、本の表紙をそっと撫でるでもなく、ただ指先を置いた。


「古い本でも、新しい本でも、開くと少しだけ空気が変わるでしょう」


 私はうなずいた。


 正直に言えば、そこまで意識したことはなかった。

 けれど、愛美の言い方を聞いていると、たしかにそういうものかもしれないと思えた。


「紙の匂いとかですか」


「それもありますけど……たぶん、誰かが読んだ時間が残っている感じです」


 私はその言葉に、少しだけ息を止めた。


 誰かが読んだ時間。


 それは本の話のはずなのに、どこか記憶のことにも聞こえた。


 愛美は自分で言ってから、少しだけ言いすぎたと思ったのか、視線を落とした。


「変な言い方ですね」


「いえ」


 私は首を振った。


「わかる気がします」


 本当に、少しだけわかる気がした。


 物には残らないはずのものが、残ってしまうことがある。

 言葉にしにくい時間や気配が、ふとした手触りに宿ることがある。


 この店に並ぶ瓶も、たぶんそういうものなのだろう。


 しばらく、静かな時間が流れた。


 愛美は本を開き、私はコーヒーを飲む。

 店主は棚の瓶を整えている。


 誰も無理に話さないのに、沈黙は不思議と重くなかった。


 やがて愛美は本を閉じた。

 閉じるときも、やはり音はほとんどしなかった。


「今日は、査定ではないんですね」


 私がそう言うと、愛美は少しだけ目を上げた。


「はい。近くまで来たので、少しだけ」


「なんとなく寄りたくなる店ですもんね」


 そう言ってから、自分がこの店にずいぶん馴染んだ言い方をしたことに気づく。


 愛美は小さく笑った。


「そうかもしれません」


 店主は何も言わなかったが、否定もしなかった。


 愛美は本を鞄にしまう。

 そのときも、角が折れないように、自然に手が添えられていた。


 立ち上がって、店主に一礼する。


「ありがとうございました」


「またお越しください」


 愛美はそれから、私のほうにも軽く会釈をした。


「失礼します」


「はい。また」


 その言葉が自然に出たことに、自分で少し驚いた。


 愛美は静かに店を出ていく。

 鈴の音が小さく揺れて、また店の中に静けさが戻った。


 私はしばらく、閉まった扉を見ていた。


 透花の面影を探していたはずだった。


 けれど今日、家に持ち帰ったのは、

 風に揺れる髪でも、

 よく似た横顔でもなかった。


 紙を揃える指先と、

 静かに本を閉じる仕草と、

 落ち着いた声だった。


 私はようやく、

 面影ではなく、

 一人の人を見始めているのかもしれなかった。


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