第24話 閉架書庫のように
仕事帰りだった。
駅前へ続く道を歩きながら、私はいつものように人の流れに紛れていた。
夕方の空はまだ少し明るく、駅前のロータリーには買い物帰りの人や、塾へ向かう学生たちが行き交っている。
その途中で、図書館の前を通った。
ガラス張りの自動扉の向こうに、静かな明るさが見える。
何気なく視線を向けた、そのときだった。
入口から出てきた人影に、私は足を止めた。
足立愛美だった。
腕には数冊の本を抱えている。
店で見るときよりも少しだけ表情がやわらかく見えたのは、外の光のせいだけではない気がした。
私は一瞬、声をかけるか迷った。
店の中で会うのとは違う。
ここはあの静かな店ではなく、駅前の、誰もが通り過ぎていく場所だ。
それでも、気づけば呼んでいた。
「足立さん」
愛美が振り返る。
小さく目を見開いて、それからすぐに表情をやわらげた。
「……こんにちは」
「こんにちは」
店では自然だった挨拶が、外では少しだけ照れくさかった。
愛美は抱えていた本を持ち直す。
私はその隣に並ぶように歩き出した。
無理に会話を探す必要はない気がした。
沈黙が気まずくならないことを、私はもう少しだけ知っている。
「お仕事帰りですか」
しばらく歩いてから、私はそう聞いた。
「はい」
愛美はうなずく。
「返却された本の整理が長引いてしまって」
「そうなんですね」
私は図書館の建物を振り返った。
「図書館って、静かな仕事だと思っていました」
愛美は少しだけ笑った。
「静かですけど、本は意外と忙しいんです」
「本が忙しい、ですか」
「人より手がかかることもあります」
その言い方が少しおかしくて、私は小さく笑った。
「たとえば、返ってきた本の状態を見たり、元の場所に戻したり。予約が入っていたら先に回したりもしますし」
「思っていたより、ずっと細かいんですね」
「たぶん、見えていないだけです」
愛美はそう言って、抱えていた本の背を軽く指で支え直した。
その手つきは、店で見たときと同じように丁寧だった。
少し歩いたところで、愛美がふいに言った。
「閉架書庫って、ご存じですか」
私は首を振る。
「いえ、聞いたことはありますけど、よくは」
「利用者さんからは見えない場所です」
愛美は前を向いたまま話す。
「古い本とか、あまり借りられない本とか、そういうものが保管されています」
「見えないところにあるんですね」
「はい」
少し間があった。
「見えないだけで、なくなったわけじゃないんです」
私はその言葉に、なぜかすぐには返事ができなかった。
見えないだけで、なくなったわけじゃない。
その響きが、図書館の話以上のものに聞こえたからだ。
店の棚を思い出す。
あの、何も置かれていないように見えた一角。
置かないままにしている、と店主は言った。
見えないだけ。
置かないままにしている。
どちらも、失われたこととは少し違う。
信号で足を止める。
赤信号の向こうで、車の列が流れていく。
夕方の風が少しだけ涼しかった。
「忘れたいって思うことはありますか」
自分でも、なぜそのタイミングでそんなことを聞いたのかわからなかった。
愛美はすぐには答えなかった。
信号の向こうを見たまま、少しだけ考えるように黙る。
「あります」
やがて、静かにそう言った。
青信号に変わる。
私たちはまた歩き出した。
愛美は数歩進んでから、続けた。
「でも、覚えていることが、必ずしも支えになるとは限らないんですよね」
私は黙って聞いていた。
愛美の声はいつもと同じように落ち着いていたが、その言葉には少しだけ重さがあった。
「思い出すたびに苦しくなることもありますし」
そう言ってから、愛美は少しだけ視線を落とした。
「それでも、消えてしまったら困るものもあります」
私は何も言わなかった。
その言葉は、透花の記憶にも、そのまま重なっていた。
忘れたいと思うことはある。
思い出すたびに、胸のどこかが鈍く痛むこともある。
けれど、もし本当に消えてしまったら、
私は何を失ったことになるのだろう。
駅前の人通りが少しずつ増えてくる。
改札へ向かう人、店へ入っていく人、立ち止まってスマートフォンを見る人。
その流れの中で、私たちは自然に歩幅を緩めた。
「このあたりで」
愛美が言う。
「はい」
私はうなずいた。
「では」
「また、お店で」
愛美は小さく会釈をして、人の流れの中へ入っていった。
私はその背中をしばらく見送ってから、駅のほうへ向き直る。
店の外で会った愛美は、店の中と同じように静かな人だった。
けれど、図書館の話をするときだけ、
少しだけ言葉に温度があった。
本を守る人なのだと思った。
そして、
守ろうとしているのは、
本だけではないのかもしれなかった。




