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思い出のオークション  作者: 冬馬美沙
第2章 売らないまま残るもの
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第25話 約束の輪郭

 その日、店に入ったときには、まだ愛美はいなかった。


 私はいつもの席に座り、店主が淹れてくれたコーヒーに口をつける。

 外はもう暗くなり始めていて、店の中の灯りがいつもより少しだけあたたかく見えた。


 扉の鈴が鳴ったのは、ふた口ほど飲んだあとだった。


 顔を上げると、愛美が入ってくる。


 目が合う。

 どちらからともなく、ほんの少しだけ表情がやわらいだ。


「こんにちは」


「こんにちは」


 もう、その挨拶にぎこちなさはなかった。

 店の中で会うことが、少しずつ自然になっている。


 愛美は私から一つ空けた席に座った。

 店主が受付票を差し出し、愛美はそれを受け取る。

 紙の端を揃え、静かに書き込んでいく手つきは相変わらず丁寧だった。


 少しして、別の客が奥の部屋へ案内された。

 店主も査定のために席を外す。


「少々お待ちください」


 そう言い残して、店主は奥へ消えた。


 店の中に、私と愛美だけが残る。


 静かだった。

 けれど、気まずくはなかった。


 カップを置く音が小さく響く。

 愛美は窓の外を一度だけ見て、それから視線を手元へ落とした。


「この前は、どうも」


 私が言うと、愛美は少しだけ首を傾けた。


「図書館の前ですか」


「はい。急に声をかけてしまって」


「いえ」


 愛美は小さく笑った。


「少し驚きましたけど」


「やっぱり、店の外だと違いますね」


「そうですね」


 それだけの会話でも、前より沈黙がやわらかい。


 私はカップを持ち上げて、少し迷ってから口を開いた。


「この前、忘れたいこともあるって言ってましたよね」


 愛美はすぐには答えなかった。


 驚いたようには見えなかったが、言葉を選ぶように少しだけ視線を落とす。


「……はい」


 私はそれ以上急かさなかった。

 聞きたいと思ったのは本当だったが、聞き出したいわけではなかった。


 愛美はしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。


「父が最後に頼んだことがあったんです」


 私は何も言わずに聞いていた。


「大したことじゃなかったんです」


 愛美は少しだけ笑った。

 けれど、その笑みはすぐにほどけてしまう。


「本当に、ほんの一言でした」


 私は尋ねなかった。

 何を頼まれたのか。

 どこでのことだったのか。

 どうしてそれが最後になったのか。


 聞けば、たぶん答えてくれるのかもしれない。

 けれど、まだそこまで踏み込んではいけない気がした。


 愛美はカップの縁に指先を添えたまま、続けた。


「間に合わなかったんです」


 それだけだった。


 説明はなかった。

 病院だったのかもしれない。

 家だったのかもしれない。

 電話の向こうだったのかもしれない。


 何もわからない。

 けれど、その一言だけで十分だった。


 間に合わなかった。


 その言葉の中に、愛美が今も立ち止まっている場所がある気がした。


 私は透花との思い出を抱えている。


 愛美は父との約束を抱えている。


 似ていると思っていた。

 どちらも手放せない記憶で、どちらも簡単には売れないものだと思っていた。


 でも違う。


 私は終わった出来事から離れられない。


 愛美は終われなかった出来事の中に立っている。


 その違いは、大きかった。


 店の奥で、かすかに物音がした。

 しばらくして、店主が戻ってくる。


 何も聞いていなかったような顔で、私たちの前にコーヒーを置いた。

 愛美の分は少し冷めていたのか、新しく淹れ直したものだった。


「ありがとうございます」


 愛美が言う。


 店主は小さくうなずくだけだった。


 それ以上、何も尋ねない。

 何も知っているふうにも見せない。


 けれど、空気だけはきちんと読んでいるようだった。


 愛美は新しいコーヒーに口をつける。

 私は視線を落としたまま、カップの中の黒い液面を見ていた。


 しばらくして、愛美が席を立つ。


「今日は、これで」


「はい」


 店主が静かに応じる。


 愛美が鞄を持ち、軽く会釈をしたそのときだった。


 店主は、拭いていたカップの手を止めた。


 ほんの一拍の間があってから、静かに口を開く。


「約束というものは、不思議です」


 私も愛美も、同時にそちらを見る。


 店主はカウンターの上に手を置いたまま、穏やかな声で続けた。


「守れなかったから消えないものもあります」


 それだけだった。


 説明はなかった。

 誰に向けた言葉なのかも、はっきりしない。


 けれど、その一言は、店の中の静けさに深く沈んでいくようだった。


 愛美は少しだけ目を伏せ、それから小さく頭を下げた。


「失礼します」


 扉の鈴が鳴る。

 愛美の姿が見えなくなっても、しばらく私は動けなかった。


 私は透花との思い出を抱えていた。


 愛美は父との約束を抱えていた。


 思い出と約束。


 同じ記憶でも、重さは少し違う。


 査定票には同じように値段が書かれている。


 けれど、本当に量れないものは、

 その紙には書かれていないのかもしれない。


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