第26話 棚の奥
その日、店に入ると、愛美の姿はなかった。
扉の鈴が鳴り、店主がいつものように顔を上げる。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは」
私は軽く会釈をして、カウンターの端に座った。
店の中は静かだった。
客は私ひとりらしい。
窓の外は曇っていて、午後の光がやわらかく棚を照らしている。
店主はコーヒーを淹れたあと、しばらく棚の整理を始めた。
瓶の位置を少しずつ直し、札の向きを揃え、埃を払うように指先を滑らせていく。
私はその様子を眺めながら、以前気になった場所へ自然と目を向けていた。
あの空白。
第22話で見つけた、何も置かれていないように見えた一角。
店主が触れないようにしていた場所。
今日は、前より少し近くから見える位置にいた。
私はカップを持ったまま、棚を目で追った。
瓶の並びには、何かしらの規則があるようだった。
年代順でもなければ、値段順でもない。
色でも、大きさでもない。
けれど、まったく無秩序というわけでもなかった。
似た気配のものが近くに置かれているような、そんな並び方に見える。
その中で、一か所だけ違う場所があった。
瓶がないことよりも、札までないことのほうが不自然だった。
この店では、瓶には必ず札がついている。
値段だけではない、何かの分類や所在を示すように。
だからこそ、その場所だけが店の決まりから外れているように見えた。
「ここだけ違いますね」
気づけば、そう口にしていた。
店主の手が止まる。
すぐにはこちらを見ず、棚に向けたままの姿勢で、ほんの少しだけ間を置いた。
「気づかれましたか」
穏やかな声だった。
「前にも少し気になっていたんです」
私は言った。
「何があった場所なんですか」
店主はようやくこちらを見た。
その表情はいつもと変わらない。
けれど、答えはすぐには返ってこなかった。
「何もありません」
店主は静かにそう言ってから、わずかに言葉を選ぶように間を置いた。
「少なくとも、お客様には」
それだけだった。
説明はない。
札がない理由も、そこに何があるのかも言わない。
けれど、その言い方で十分だった。
見せないと決めているものがある。
この店にも、そういう場所がある。
私はそれ以上聞かなかった。
聞けば、たぶんまた曖昧に返されるだろうし、
曖昧なまま残されることにも、少し慣れてきていた。
コーヒーを飲み終え、私は席を立った。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました」
代金を置き、扉のほうへ向かう。
そのとき、店主が棚の奥へ歩いていくのが見えた。
普段はあまり近づかない、一番奥の列だった。
角度のせいで、カウンターからは見えにくい場所。
私は足を止めるほどではなく、けれど視線だけをそちらへ向けた。
棚のさらに奥に、古い木箱が置かれていた。
濃い色の木でできた、小ぶりな箱だった。
飾り気はなく、長く使われてきたような静かな傷がある。
店主はその前で立ち止まる。
そして、一瞬だけ箱に触れた。
開けるのかと思った。
けれど、開けなかった。
指先を置いて、
ただそこにあることを確かめるようにして、
それだけで手を離した。
そのまま何事もなかったように、元の位置へ戻ってくる。
私は見てしまった、と思った。
けれど店主は、見られたことを気にする様子も、隠す様子もなかった。
ただ何も説明しない。
記憶を売る人。
記憶を査定する人。
私はずっと、店主をそういう人だと思っていた。
けれど、違うのかもしれない。
この人もまた、
何かを残したまま生きている。
そんな気がした。
扉の前で、私は振り返る。
「店主さんにも、触れない記憶ってあるんですか」
店主は少しだけ笑った。
それは愛想のための笑みというより、問いそのものを静かに受け止めたような表情だった。
「誰にでも一つや二つはあるものです」
それだけだった。
私は小さく会釈をして、店を出る。
鈴が鳴る。
扉が閉まる直前、私はもう一度だけ店の中を見た。
店主は、棚の一番奥へもう一度だけ目を向けていた。
その視線の先だけは、
私には最後まで見えなかった。




