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思い出のオークション  作者: 冬馬美沙
第2章 売らないまま残るもの
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第27話 売った人の話

 その日、店に入ると、愛美の姿はなかった。


 扉の鈴が鳴り、店主がいつものように顔を上げる。


「いらっしゃいませ」


「こんにちは」


 私は軽く会釈をして、店の奥へ目を向けた。

 先客がひとりいた。


 三十代後半くらいの女性だった。

 仕事帰りらしい落ち着いた服装で、派手さはない。

 少し疲れているようにも見えたが、その表情には妙な張りつめ方がなかった。

 むしろ、長く抱えていたものをようやく下ろした人の静けさに近かった。


 店主がその女性にコーヒーを差し出す。


「お久しぶりですね」


「ええ」


 女性は小さく笑った。


「少し、近くまで来たので」


 その言い方で、私は気づく。

 この人は初めての客ではない。

 以前にもこの店を訪れたことがあるのだ。


 私はいつもの席に座り、コーヒーを受け取る。

 店の中は静かだった。

 窓の外には夕方の薄い光が残っていて、棚の瓶の輪郭をやわらかく浮かび上がらせている。


 この店には、いろいろな人が来る。


 迷わず売る人もいるのだろう。

 査定だけして帰る人もいるのだろう。

 そして目の前のこの女性は、実際に売ったあとを生きている人なのだと思った。


 女性はしばらくカップを両手で包むように持っていたが、やがてぽつりと口を開いた。


「最初は、少し困りました」


 店主は何も急かさず、ただ聞いている。


「冷蔵庫を開けたときに、前は何をよく作っていたのか思い出せなくて」


 女性は苦笑した。


「休日もそうです。どこへ行っていたのか、何をしていたのか、細かいところが曖昧になっていて」


 私は思わず顔を上げた。


 売った記憶は、そういうふうに消えるのかと思った。

 特別な一場面だけではない。

 その前後に染み込んでいた暮らしの輪郭ごと、少しずつ薄くなるのかもしれない。


 女性は続けた。


「売ったのは、離婚する前の生活の記憶でした」


 静かな声だった。


「大きな喧嘩とか、そういうことじゃなくて……食卓のこととか、休日のこととか、家の中で交わした細かいやり取りとか。そういう、暮らしに混ざっていたものです」


 私はカップを持ったまま、何も言えなかった。


 それはたぶん、写真のようにはっきりした思い出ではない。

 けれど、毎日の中にあるぶんだけ、簡単には切り離せない記憶なのだろう。


「なくなったら、もっと楽になると思っていました」


 女性はそう言って、少しだけ視線を落とした。


「でも最初は、思っていたより変な感じでした。穴があいたみたいで」


 店主は静かにうなずく。


「ただ」


 女性はそこで言葉を切り、少し考えるように窓の外を見た。


「あとで気づいたんです」


 その横顔は落ち着いていた。

 無理に整理した顔ではなく、時間をかけてようやく辿り着いた人の顔だった。


「思い出せないから苦しいんじゃなくて、思い出せるたびに責めていたんだと思います」


 店の中が、少しだけ深く静かになった気がした。


 私はその言葉をすぐには飲み込めなかった。


 思い出があるから苦しい。

 そういう単純な話ではないのだ。


 思い出すたびに、自分の言葉を。

 自分の沈黙を。

 あのとき別の選び方があったのではないかという問いを。

 何度も何度も繰り返してしまう。


 苦しみは記憶そのものではなく、

 記憶に触れるたびに始まる責めのほうにあったのかもしれない。


「売ったことで、全部が消えたわけじゃありません」


 女性は言った。


「離婚したことは知っていますし、相手がいたこともわかっています。ただ、その中に引き戻される力が前より弱くなったんです」


 それは救いなのだろうか。

 それとも別の喪失なのだろうか。


 たぶん、どちらでもあるのだと思った。


「今は一人で暮らしています」


 女性は少し笑った。


「静かです。でも、前より眠れるようになりました」


 私はしばらく迷ってから、口を開いた。


「後悔は、ないんですか」


 女性はすぐには答えなかった。

 カップの中を見つめるようにして、ほんの少しだけ考える。


「あります」


 その答えは、思ったよりまっすぐだった。


「思い出せなくなったことへの後悔はあります」


 女性はそこで言葉を切り、それから静かに続けた。


「でも、売らなければ今の私はなかったと思います」


 私は何も言えなかった。


 後悔があるのに、間違いではなかったと言える。

 失ったものがあるのに、必要だったとも言える。


 その両方を一緒に抱えたまま話す人を、私は初めて見た気がした。


 しばらくして、女性は席を立った。


「今日は、顔を見たくなっただけなんです」


 店主は小さくうなずく。


「またいつでも」


 女性は会釈をして、店を出ていった。

 扉の鈴が鳴り、静けさが戻る。


 私はその音が消えてから、ようやく息をついた。


「売るのが正しかったんでしょうか」


 気づけば、そう尋ねていた。


 店主はすぐには答えなかった。

 カップを置き、布巾で指先を拭ってから、静かに言う。


「正しかったかどうかは、売ったあとにしかわかりません」


 私は黙って聞いていた。


 店主は少し間を置いて、続けた。


「残したことも同じです」


 その言葉は、思っていたより重く胸に残った。


 売れば楽になるかもしれない。

 残せば苦しみ続けるかもしれない。


 でも逆もあるのだろう。


 売ったことを悔やむ人もいる。

 残したからこそ、いつか意味が変わる人もいる。


 どちらにも痛みがある。

 どちらにも、その人にしかわからない必要がある。


 私は自分の査定票のことを思い出していた。


 透花の記憶を売らないのは、勇気がないからなのか。


 それとも、まだ自分に必要だからなのか。


 店を出るころには、外はもう夜になっていた。


 扉を開けると、少し冷えた空気が頬に触れる。


 透花を忘れたくないのか。


 それとも、忘れられないままでいたいのか。


 その違いを、私はまだうまく言葉にできなかった。


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