第28話 約束の続きを
その日、店に入ると、愛美が先に来ていた。
扉の鈴が鳴る。
愛美が顔を上げ、私を見る。
その視線に、もう最初のころの警戒はなかった。
「こんにちは」
「こんにちは」
私は軽く会釈をして、前よりも自然にその隣の席へ座った。
店主はいつものように何も言わず、コーヒーを二つ用意する。
湯気の立つカップを置いたあと、棚の奥へ何かを取りに行くように、静かに席を外した。
店の中には、私と愛美だけが残る。
少しの沈黙があった。
けれど、それは前のような気まずさではなかった。
言葉がないままでも、同じ場所にいられる静けさだった。
私はカップに手を添えたまま、少し迷ってから口を開いた。
「この前のお話……気になっていました」
愛美は一瞬だけ目を伏せ、それから少し困ったように笑った。
「気にさせてしまいましたね」
「いえ」
私は首を振った。
「話したくなければ、それでいいです」
言ってから、自分でも少し不思議だった。
前の私なら、気になったことをそのまま抱えていられなかったかもしれない。
相手が何を抱えているのか、知りたいと思ったはずだ。
けれど今は、聞くことよりも、無理に聞かないことのほうが大事に思えた。
愛美はすぐには答えなかった。
カップの縁に添えていた指先が、ほんの少しだけ止まる。
視線は手元に落ちたままだった。
やがて、静かに口を開く。
「父は、最後まで私の心配ばかりしていました」
私は何も言わずに聞いていた。
「自分のことより、私がちゃんと食べているかとか、ちゃんと眠れているかとか……そんなことばかり」
愛美は小さく笑った。
けれど、その笑みはすぐにほどける。
「私は、その返事ができませんでした」
その言葉は、思っていたよりも静かだった。
静かすぎて、かえって重く残る。
私はカップを持つ手に少しだけ力を入れた。
間に合わなかった。
あのとき愛美が言った言葉の意味が、少しだけ広がる。
ただ会えなかったということではないのかもしれない。
ただ最後に立ち会えなかったということでもないのかもしれない。
返したかった言葉があった。
返さなければならないと思っていた言葉があった。
けれど、それができなかった。
そのことが、今も愛美の中に残っているのだろう。
「何て言えばよかったのか、今でもわからないんです」
愛美はそう言って、視線を落としたまま続けた。
「大丈夫だよ、って言えばよかったのかもしれません。ちゃんとやっていくから、って。心配しないで、って」
そこで言葉が途切れる。
「でも、そのときの私は、そんなふうに言えませんでした」
私は何も励ませなかった。
大丈夫だとも、仕方なかったとも言えなかった。
そういう言葉は、たぶん今ここで必要とされていない気がした。
ただ、愛美がそのことを口にしたという事実だけが、静かにそこにあった。
店の奥で、小さな物音がした。
しばらくして、店主が戻ってくる。
何も聞いていなかったような顔で、私たちの前に新しい水を置いた。
そして、そのままカウンターの中へ戻りかけてから、ふと手を止める。
「返せなかった言葉が、あとから残ることもあります」
それだけだった。
愛美は顔を上げない。
けれど、その言葉を聞いていないふうでもなかった。
私は店主の横顔を見た。
誰に向けた言葉なのか、はっきりしない。
けれど、誰にも向けていないわけでもない。
この店では、そういう言葉がときどき静かに置かれる。
愛美はしばらく黙っていたが、やがて小さく息をついた。
「忘れたいわけじゃないんです」
その声は、少しだけやわらかかった。
「ただ、あのときの自分を、まだうまく許せないだけで」
私はその言葉を聞いて、すぐには何も返せなかった。
忘れたいわけではない。
その気持ちは、少しわかる気がした。
記憶そのものをなくしたいわけではない。
ただ、その記憶に触れるたびに現れる自分の弱さや、言えなかったことや、できなかったことに耐えられない。
苦しいのは、思い出ではなく、
思い出の中にいる自分なのかもしれなかった。
愛美はそれ以上話さなかった。
私も、それ以上は聞かなかった。
けれど、その沈黙は閉じたものではなかった。
言葉にならなかった部分ごと、そこに置かれているような静けさだった。
しばらくして、愛美は席を立った。
「今日は、これで」
「ありがとうございました」
店主が静かに言う。
愛美は私のほうを見て、ほんの少しだけ笑った。
「すみません。変な話をしてしまって」
「いえ」
私は首を振る。
「話してくれて、ありがとうございます」
愛美は何か言いかけるように唇を動かしたが、結局そのまま小さく会釈をした。
扉の鈴が鳴る。
その姿が見えなくなってからも、私はしばらく席を立てなかった。
透花には、伝えられた言葉がある。
あのとき、確かに交わした言葉がある。
だからこそ、私はその続きを失ったままここにいる。
愛美には、伝えられなかった返事がある。
同じ後悔でも、形は違う。
私は透花の面影を追って、この店へ来ていた。
けれど今、気になっているのは、
愛美がいつか父親に返せなかった言葉を、自分自身に返せる日が来るのかということだった。




