第29話 返せないもの
その日、店に入ると、愛美の姿はなかった。
扉の鈴が鳴る。
店主がいつものように顔を上げるより先に、私は店の奥にいる客へ目を向けていた。
見覚えのある後ろ姿だった。
肩のあたりまでの髪。
仕事帰りらしい落ち着いた服装。
背筋は伸びているのに、どこか力を入れすぎない座り方。
離婚前の生活の記憶を売った、あの女性だった。
私は少しだけ足を止めたあと、いつもの席へ向かった。
女性はまだこちらに気づいていないようだったし、気づいていたとしても、わざわざ言葉を交わすような間柄でもない。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは」
店主に軽く会釈をして座る。
店の中は静かだった。
窓の外は曇っていて、午後の光が棚の瓶を鈍く照らしている。
女性の前にはコーヒーが置かれていた。
けれど、今日は査定票のような紙が広げられているわけではない。
代わりに、白い小さな封筒がカウンターの上に置かれていた。
何をしに来たのだろうと思う。
店主も、いつもの査定のときのように手を動かしてはいなかった。
ただ女性の向かいに立ち、静かに言葉を待っている。
しばらくして、女性が口を開いた。
「やっぱり、返せないんですよね」
その声は落ち着いていた。
泣いているわけでも、取り乱しているわけでもない。
けれど、ここへ来るまでに何度も同じことを考えたのだろうと思わせる響きがあった。
店主はすぐには答えなかった。
ほんのわずかな間があってから、
「ええ」
とだけ言った。
女性は封筒の端に指先で触れたまま、小さくうなずく。
「それを確かめに来ました」
それだけだった。
店主は何も付け足さない。
慰めるようなことも、説明するようなことも言わない。
ただ、その言葉を受け取るように静かに立っている。
女性は少しだけ目を伏せ、それから封筒を店主のほうへ押しやった。
「これは、もういらないので」
店主は封筒を見下ろし、静かに受け取った。
中身はわからなかった。
けれど、返しに来たかったのは封筒そのものではなく、
何かひとつの区切りだったのかもしれない。
女性は席を立つ。
「ありがとうございました」
「こちらこそ」
店主が言う。
女性はそれ以上何も言わず、店を出ていった。
扉の鈴が鳴り、静けさが戻る。
私はカップに手を伸ばしかけて、やめた。
売るとは、なくすことではないのかもしれない。
忘れることでもない。
戻れなくなることなのかもしれなかった。
その考えが胸に落ちたとき、ふと店主のほうを見る。
店主は、女性が座っていた席でも、受け取った封筒でもなく、
棚の奥へ一瞬だけ視線を向けていた。
ほんの短い動きだった。
けれど私は、その視線の先を知っている気がした。
札のない場所。
そのさらに奥。
以前見かけた、古い木箱のあるあたり。
私は何も言わずに店主を見ていた。
店主はすぐにいつもの表情へ戻り、受け取った封筒を引き出しにしまう。
まるで、今の一瞬などなかったかのように。
私は少し迷ってから、口を開いた。
「一度売ったものを、惜しくなる人は多いんですか」
店主は私を見なかった。
棚の瓶の位置をわずかに直しながら、静かに答える。
「なくしたから惜しいのではなく、戻らないとわかって惜しくなることはあります」
私はその言葉を、すぐには飲み込めなかった。
客の話として聞くこともできる。
けれど、それだけではないようにも思えた。
戻らないとわかって、初めて重くなるものがある。
それは売った記憶だけではないのかもしれない。
私は自分の査定票のことを思い出していた。
まだ手元にある紙。
まだ選ばれていない記憶。
まだ、戻れなくはなっていないもの。
けれど同時に思う。
この人にもまた、戻れない場所に置いたままの何かがあるのではないかと。
客の記憶を査定するだけではない。
自分ではどうにもできない何かの前に、ずっと立っている人なのではないかと。
コーヒーを飲み終え、私は席を立った。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました」
代金を置き、扉のほうへ向かう。
その途中で、私はもう一度だけ棚の奥へ目を向けた。
何があるのかは見えない。
けれど今は、そこに何があるのかよりも、
なぜ店主がそれをそのまま残しているのかのほうが気になった。
返せないものがある。
売れないものもある。
そしてたぶん、手放さないまま残しておくしかないものもある。
そのことを、店主は誰より知っているのかもしれなかった。




