第30話 残された箱
その日、店に入ったとき、私はすぐに、いつもと少し違う空気に気づいた。
客の気配がない。
愛美の姿もない。
それだけなら、たまたまそういう時間だったのかもしれない。
けれど、店の中に流れている静けさは、ただ人が少ないというだけではなかった。
棚に並ぶ瓶はいつもと同じようにそこにあるのに、今日はそれぞれが少し遠く見えた。
窓から差し込む午後の光は薄く、曇り空を通ってきたせいか、ガラスの表面にやわらかく鈍い色を置いている。
店の奥まで見通せるのに、奥へ行くほど輪郭が曖昧になる。
この店はもともと静かな場所だったが、今日はその静けさが、音の少なさではなく、何かを待っているような気配を帯びていた。
店主はカウンターの内側で、棚の下の木枠を布で拭いていた。
いつもなら、私が入ればすぐに手を止めて顔を上げる。
けれど今日は、布を動かす手をひと拭き分だけ続けてから、こちらを見た。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは」
その一拍が、妙に印象に残った。
私はいつもの席に座る。
椅子を引く音が、思っていたより大きく響いた。
店主は布をたたみ、棚の端に置いてから、いつものようにコーヒーを淹れてくれた。
湯が落ちる音だけが、静かな店の中で細く続く。
その音を聞いていると、ここでは時間が外より少しゆっくり流れているような気がした。
カップが置かれる。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
私は礼を言って、両手でカップを包むように持った。
熱が指先に伝わる。
店主はまた掃除の続きを始めた。
瓶をひとつ持ち上げ、底にたまったわずかな埃を拭き、元の位置へ戻す。
その動きは丁寧で、慣れていて、無駄がない。
けれど今日は、その丁寧さがいつも以上に目についた。
何かを整えているというより、整えていなければならないものに触れているように見えた。
私はコーヒーをひと口飲んだあと、ぼんやりと棚を眺めた。
札のついた瓶。
ついていない瓶。
光を受けて、淡く色づいて見えるもの。
ほとんど透明なもの。
この店に通うようになってから、私はずいぶん長い時間、こうして棚を見てきた気がする。
最初はただ珍しかった。
次に、そこに誰かの人生の断片が収められているのだと思うようになった。
そして今は、見えているものより、見えていないもののほうが気になるようになっていた。
店主は掃除を終えると、布をきれいに折りたたんだ。
「少し失礼します」
そう言って、店の奥へ入っていく。
私は何気なく、その背中を目で追った。
そのときだった。
棚の奥、いつもは角度のせいで見えにくい場所に、木箱が少しだけ見えていた。
古びた箱だった。
大きくはない。
両手で抱えれば持てそうなくらいの大きさ。
木の色は長い時間を吸ったように深く、角のあたりは少し擦れている。
飾り気はないのに、なぜか目を引いた。
瓶とは違う。
この店にあるほかのどのものとも、少し違って見える。
以前にも一度、見かけたことがある。
札のない場所。
棚のさらに奥。
あのときは、見えたというより、気づいてしまったという感じだった。
見てはいけないものを見た、というほどではない。
けれど、こちらから名前を与えてはいけないものに触れてしまったような、そんな感覚だけが残った。
私はカップを置いた。
木箱は、店主が戻ってくるまでのあいだも、そこに変わらずあった。
当たり前のことなのに、なぜか少し意外だった。
隠されているわけではない。
けれど、見せるために置かれているわけでもない。
ただ、そこに残されている。
残されている、という言葉が頭に浮かんで、私は自分で少し引っかかった。
置かれている、ではなく。
しまわれている、でもなく。
残されている。
誰に。
何のために。
その問いは、形になる前に胸の奥へ沈んだ。
店主が戻ってくる。
私はすぐには口を開けなかった。
聞いていいことなのか、わからなかったからだ。
この店では、客の記憶については不思議なほど自然に話せるのに、店主自身のことになると、急に境界が見えなくなる。
どこまで踏み込んでいいのか。
そもそも、踏み込むべきではないのか。
そんなことを考えているうちに、聞かないまま帰ることもできる気がした。
けれど今日は、店の中が静かすぎた。
愛美がいないせいかもしれない。
ほかの客がいないせいかもしれない。
あるいは、前の回からずっと胸のどこかに引っかかっていた「返せない」という言葉のせいかもしれなかった。
聞けば何かが変わる気がした。
聞かなければ、このままではいられない気もした。
「前から気になってたんです」
自分の声が、思っていたより静かに出た。
店主がこちらを見る。
「あの木箱も、記憶なんですか」
店主はすぐには答えなかった。
ほんのわずかに動きを止める。
それから、私ではなく、棚のほうへ一度だけ目を向けた。
その視線は短かった。
けれど、見慣れた棚を見る目ではなかった。
位置を確かめるような、あるいは、そこにあることを改めて受け止めるような目だった。
「そう思われますか」
質問に質問で返されて、私は少し戸惑った。
試されている、という感じではない。
ただ、簡単に答えへ進ませないための言葉のように思えた。
「違うんですか」
「違います」
思っていたより、はっきりした答えだった。
私は思わず棚の奥へ目をやる。
この店にある以上、あれもまた誰かの記憶なのだと思っていた。
瓶ではないにしても、何か特別な形で保管された記憶なのだと。
けれど店主は、静かな声のまま続けた。
「あれは査定しません」
「査定しない?」
「ええ」
私はその言葉を頭の中で繰り返した。
査定できない、ではない。
査定しない。
できるのにしないのか。
それとも、しないと決めているのか。
言葉の違いは小さいはずなのに、そのあいだには大きな隔たりがあるように思えた。
「売らないんですか」
店主は少しだけ黙った。
その沈黙は、言葉を探しているというより、すでに持っている答えを、どの形で渡すか決めている時間のようだった。
私はそのあいだ、なぜか息を浅くしていた。
「売れません」
私はその一言を、すぐには理解できなかった。
売らない、ではなく。
売れない。
この店に持ち込まれる記憶は、すべて値段に換えられるものだと思っていた。
少なくとも、そういう場所なのだと。
売るかどうかは客が決める。
けれど、査定そのものはできる。
そういう前提で、私はこの店を見ていた。
だから、その前提の外にあるものが、店主のすぐそばに置かれていることが意外だった。
「どうしてですか」
気づけば、そう聞いていた。
店主は少しだけ目を伏せた。
その表情は変わらない。
けれど、何かを隠している人の顔というより、何かを守っている人の顔に見えた。
「人には、値段を付けてはいけないものがあります」
私は思わず言う。
「でも、この店は記憶を売る店ですよね」
「ええ」
店主は小さくうなずいた。
それから、ほんの少しだけ間を置いた。
「だからこそです」
その言葉は静かだった。
静かなのに、妙に重かった。
私はすぐには返せなかった。
この人は、ただ店の決まりを守っているのではない。
自分の中にある、もっと別の線を守っている。
そう思った。
そして、その線は客に向けられたものというより、まず自分自身に向けられているように見えた。
私はカップに手を添えたまま、棚の奥を見た。
透花の記憶は査定された。
愛美の記憶も査定されている。
私の記憶も、きっと値段を付けることができるのだろう。
それなのに、店主には査定しない記憶がある。
査定できないのではなく、査定しない。
売れないのではなく、売らないのでもなく、売れませんと言った。
その違いが何を意味するのか、私にはまだわからない。
けれど、そこにはこの店の仕組みより強い理由があるのだと思った。
売れなかったから残っているのではない。
残したままにしているのだ。
だとしたらあの箱は、忘れられないものというより、
忘れてはいけないものなのかもしれなかった。
あるいは、忘れてしまえば、この店そのものが成り立たなくなるような何かなのかもしれない。
そこまで考えて、私は自分で少し驚いた。
いつのまにか私は、店主の秘密を知りたいと思っている。
ただの好奇心ではなく、この店を知るために必要なこととして。
店主はそれ以上、木箱について話さなかった。
私も、もう聞けなかった。
聞けば何かがわかる気もした。
けれど、聞いてしまえば今のままではいられなくなる気もした。
この店に来る時間は、私にとって、まだ名前のつかない場所だった。
休むためとも、逃げるためとも、確かめるためとも言い切れない。
けれど、その曖昧さのままいられることに、どこか救われてもいた。
もし木箱の中身を知ってしまえば、その曖昧さは終わるのかもしれない。
店主はただの店主ではなくなり、
この店もまた、今とは違う意味を持ち始めるのかもしれない。
コーヒーを飲み終え、私は席を立った。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました」
代金を置き、扉へ向かう。
そのとき、扉の鈴が鳴った。
入ってきたのは愛美だった。
「あ」
愛美が私を見て、少しだけ目を丸くする。
その表情はすぐにやわらいだ。
「こんにちは」
「こんにちは」
短く言葉を交わす。
私はそのまま店を出ようとした。
けれど、すれ違う一瞬、愛美の視線が私の肩越しに店の奥へ向くのが見えた。
その目は、ただ店の中を見渡しただけのものには見えなかった。
何かを探したのか。
あるいは、そこにあることを確かめたのか。
視線の先にあるのが何か、私はもう知っている。
木箱だった。
愛美は何も言わない。
けれど、その目はほんの一瞬だけ止まっていた。
知っていたのかもしれない。
今、初めて気づいたのかもしれない。
そのどちらなのかはわからない。
わからないまま、私は扉を押した。
外の空気は、店の中より少しだけ軽かった。
扉を閉める。
鈴の音が、背中の向こうで小さく鳴った。
あの箱のことを知りたいと思ったのは、
もう私だけではないのかもしれなかった。




