第31話 知らないままで
店を出てから、私はしばらく何も考えないようにして歩いていた。
考えれば、さっきの会話ばかりが頭の中で繰り返されそうだったからだ。
あれは査定しません。
売れません。
人には、値段を付けてはいけないものがあります。
店主の声は静かだった。
静かなのに、妙に残った。
通りを二つほど曲がったところで、私はふと足を止めた。
手に持っていたはずの文庫本がない。
鞄の中を見る。
ない。
腕の下にも挟んでいない。
たぶん、店のテーブルに置いたままだった。
私は小さく息をついて、来た道を引き返した。
忘れ物を取りに戻るだけだ。
それ以上の理由はない。
そう思いながら歩いていたのに、胸のどこかでは、もう一度あの店の空気に触れたいと思っている自分がいるのがわかった。
扉を開ける。
鈴が鳴る。
さっきと同じ静けさが、まだ店の中に残っていた。
けれど、今度は愛美がいた。
カウンターの端の席に座って、湯気の立つカップを前にしている。
店主の姿は見えない。
奥のほうから、引き出しを開け閉めするような小さな音だけが聞こえた。
愛美がこちらを見て、少し驚いたように目を上げる。
「あれ、どうしたんですか」
「本を忘れてしまって」
テーブルの上を見ると、文庫本はさっき座っていた席にそのまま置かれていた。
私はそれを手に取った。
「よかった。なくしたかと思いました」
「見つかってよかったです」
愛美が小さく笑う。
そのまま帰ってもよかった。
けれど、なぜか私はすぐには扉へ向かわなかった。
愛美も何も言わない。
ただ、少しだけ隣の席とのあいだを空けるように座り直した。
座ってもいい、ということなのだろうと思った。
「少しだけ、いいですか」
「もちろん」
私は文庫本を持ったまま、さっきと同じ席に座った。
店の奥からは、まだかすかな物音がしている。
店主は査定中なのかもしれない。
あるいは、別の何かをしているのかもしれない。
姿が見えないだけで、店の空気は少し違って感じられた。
愛美はカップに手を添えたまま、しばらく何も言わなかった。
私も、何を話すべきか決められずにいた。
けれど、沈黙は気まずくなかった。
この店では、言葉がない時間にも、どこか意味があるように思える。
先に口を開いたのは愛美だった。
「あの箱、気になりました?」
私は思わず愛美を見た。
声はいつもと変わらなかった。
けれど、その問いはあまりにまっすぐで、一瞬だけ返事が遅れた。
「気づいていたんですね」
愛美は少しだけ笑った。
「前から少しだけ」
その言い方が、いかにも愛美らしいと思った。
知っている、と言い切るのでもなく。
知らないふりをするのでもなく。
ただ、自分の目に入っていたことだけを静かに認めるような言い方だった。
「さっき、聞いたんです」
「店主さんに?」
「はい。あれも記憶なのかって」
「それで?」
私は少し迷ったが、そのまま答えた。
「違うって言われました」
愛美の目がわずかに動く。
「違う……」
「査定もしないって」
愛美はすぐには何も言わなかった。
驚いているようにも見えたし、どこかでそうかもしれないと思っていたようにも見えた。
「売らない、じゃなくて?」
「売れません、って」
その言葉を口にすると、さっきよりも重く感じた。
愛美はカップの縁を指先でなぞるようにしてから、小さく息をついた。
「そうなんですね」
それだけだった。
けれど、その短い言葉の中に、いくつかの感情が混ざっている気がした。
意外だという気持ち。
やっぱり、という気持ち。
そして、少しだけ触れてはいけないものに近づいてしまったような気まずさ。
私は文庫本の表紙を親指でなぞった。
「愛美さんも、気になっていたんですか」
「気には、なっていました」
愛美は少し考えるように視線を落とす。
「でも、気になるのと、知りたいのは、少し違う気もしていて」
私はその言葉を頭の中で繰り返した。
気になるのと、知りたいのは違う。
たしかにそうかもしれないと思う。
目に入ってしまうものはある。
引っかかってしまうものもある。
けれど、それをすぐに確かめたいと思うかどうかは、また別の話だ。
「私は、聞いてみたいとは思いました」
そう言うと、愛美は顔を上げた。
「わかります」
否定しない声だった。
「私も、たぶん一度はそう思ったと思います」
「でも、聞かなかった」
「はい」
愛美は小さくうなずく。
「聞いていいこととは違う気がしたんです」
その言葉は静かだった。
静かなのに、妙にまっすぐ胸に入ってきた。
聞いてはいけない、ではない。
聞いていいこととは違う。
禁止されているわけではない。
秘密だと明言されたわけでもない。
それでも、踏み込むことが正しいとは限らない。
そういう境界が、この店にはたしかにあるのかもしれなかった。
私は棚の奥を思い浮かべた。
木箱。
古びた角。
札のない場所。
そして、店主の「だからこそです」という声。
「あれが店主さん自身のものだって、思いますか」
気づけば、そんなことを聞いていた。
愛美は少しだけ目を細める。
「そうかもしれない、とは思います」
「記憶、なんでしょうか」
「どうでしょう」
愛美は小さく首を傾げた。
「記憶そのものかもしれないし、記憶に関わる何かかもしれないし……」
そこで言葉を切る。
「誰かの遺したもの、ということもあるかもしれません」
私はうなずいた。
どれもありえそうで、どれも決め手がない。
だからこそ、かえって現実味があった。
簡単に答えへたどり着けないものほど、本当のことに近い気がする。
「売れない記憶、ってことなんでしょうか」
私が言うと、愛美は少しだけ考え込んだ。
「売れない、というより……」
言いかけて、やめる。
「うまく言えませんけど、売らないままにしているもの、なのかもしれません」
私はその言葉に、店主の声を重ねた。
売れません。
売らないままにしている。
似ているようで、少し違う。
その違いの中に、店主の事情があるのかもしれなかった。
店の奥で、何かを置くような小さな音がした。
私たちは同時にそちらを見る。
けれど、店主はまだ出てこない。
愛美が少しだけ声を落とした。
「知りたいですか」
私はすぐには答えられなかった。
知りたい。
それはたしかだった。
けれど、知ったほうがいいのかと問われると、わからない。
知ることで近づけるものもある。
知ることで壊れてしまう距離もある。
「……知りたいとは思います」
ようやくそう言うと、愛美は静かにうなずいた。
「でも」
と、愛美が続ける。
「知らないままでいたほうがいいことも、ある気がします」
私はその言葉に反論できなかった。
透花のことを思う。
あの人が何を抱えていたのか、私は全部を知っているわけではない。
愛美の約束についても、私はまだ断片しか知らない。
それでも、知らないからこそ、勝手に決めつけずにいられる部分がある。
知らないことは、不安でもある。
けれど同時に、相手の中に残しておくべき余白でもあるのかもしれない。
そのとき、店主が奥から戻ってきた。
私たちはほとんど反射のように口を閉じた。
店主はいつもの表情のまま、何も気づいていないように見えた。
あるいは、気づいていても気づかないふりをしているのかもしれない。
「お待たせしました」
そう言って、愛美のカップに湯を足し、私の前にも新しいコーヒーを置く。
「ありがとうございます」
私が言うと、店主は小さくうなずいた。
それから、何気ない調子で言った。
「気になることは、すぐ答えを知るより、そのまま持っていたほうがいいこともあります」
私は思わず顔を上げた。
愛美も何も言わない。
店主はそれ以上続けなかった。
ただ、いつものようにカウンターの向こうへ戻っていく。
今の言葉が私たちに向けられたものだったのか、ただの独り言のようなものだったのか、わからない。
けれど、聞こえていたのかもしれない、と思わせるには十分だった。
私は新しいコーヒーに口をつけた。
少し熱かった。
答えを知れば終わるわけではない。
むしろ、知ったあとに残るもののほうが重いこともある。
透花のこともそうだ。
愛美の約束もそうだ。
そして、店主の木箱も。
知らないまま、考え続ける時間にも意味がある。
すぐに名前をつけないまま持っていることで、見えてくるものもあるのかもしれない。
しばらくして、私は席を立った。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました」
愛美も小さく会釈する。
「また」
「はい。また」
私は文庫本を持って、扉のほうへ向かった。
その途中で、ふと店の奥に目が向いた。
ほんの一瞬だった。
棚の奥、あの木箱のふたがわずかに開いていて、
店主が一枚の古い写真を静かに中へ戻すところが見えた。
色褪せた、小さな写真だった。
誰が写っているのかは見えない。
男か女かもわからない。
ただ、それが長い時間を経たものだということだけはわかった。
店主はすぐにふたを閉じる。
何事もなかったように。
私は立ち止まらなかった。
そのまま扉を開ける。
鈴の音が鳴る。
外へ出たあとも、古い写真の輪郭だけが、しばらく頭の中に残っていた。
見えなかったはずなのに、
見えなかったからこそ、消えずに残るものもあるのだと思った。




