第32話 写真の人
古い写真というものは、不思議だと思う。
見えなかったものほど、あとに残ることがある。
昨日、店を出る前にほんの一瞬だけ見えた写真は、誰が写っているのかもわからなかった。
男か女かもわからない。
表情も、服装も、背景も、何ひとつ見えたとは言えないくらいだった。
それなのに、私はその写真のことを考えていた。
見えなかったからこそ、なのかもしれない。
輪郭のないものは、頭の中で何度でも形を変える。
見えてしまったものより、見えなかったもののほうが、長く残ることがある。
昼過ぎ、私はまた店を訪れた。
扉を開けると、鈴の音が静かに鳴る。
「いらっしゃいませ」
店主の声がする。
カウンターの向こうで、いつものように穏やかな顔をしていた。
そして、窓際の席には愛美がいた。
昨日と同じようにカップを前にしている。
けれど昨日より少しだけ表情がやわらかい気がしたのは、私の気のせいかもしれない。
「こんにちは」
私が言うと、愛美も小さく会釈した。
「こんにちは」
私はいつもの席に座る。
店主がコーヒーを淹れ始める。
湯が落ちる音を聞きながら、私は自分が何を話したいのか、はっきり決められずにいた。
昨日の写真のことを聞きたい。
けれど、聞いてしまえば、またあの木箱のことに触れることになる。
それが悪いことだとは思わない。
ただ、どこまで言葉にしていいのか、まだわからなかった。
コーヒーが置かれる。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
私は礼を言って、カップに手を添えた。
温かさが指先に移る。
愛美はしばらく黙っていたが、やがてこちらを見た。
その視線は、何かを確かめるようでもあり、こちらが口を開くのを待っているようでもあった。
私は少し迷ってから言った。
「昨日の写真、見ましたか」
愛美はすぐには答えなかった。
カップの中のコーヒーに一度だけ目を落としてから、静かに言う。
「見えただけです」
私は小さくうなずいた。
その言い方が、妙にしっくりきた。
見た、ではなく。
見えた、だけ。
意識して覗いたわけではない。
知ろうとして見たわけでもない。
ただ、そこにあって、目に入ってしまった。
昨日の私も、たぶん同じだった。
「私もです」
そう言うと、愛美は少しだけ笑った。
「気になりますか」
「……なります」
否定する理由はなかった。
愛美は窓の外へ一瞬だけ目を向け、それからまた店の中へ視線を戻した。
「写真って、不思議ですよね」
「不思議?」
「記憶そのものじゃないのに、記憶より近いことがあるから」
私はその言葉を聞いて、昨日見えた色褪せた輪郭を思い出した。
たしかに、写真はただの紙のはずなのに、そこに写っている時間だけは、今もどこかに残っているように見える。
「誰なんでしょうね」
私がそう言うと、愛美は少しだけ考えるように首を傾げた。
「家族かもしれません」
「そうかもしれないですね」
「恋人、ということもあるかもしれないですし」
その言葉に、私は少しだけ意外な気持ちになった。
店主にそういう過去があったとしても不思議ではない。
むしろ、ないほうが不自然なくらいなのに、私はどこかで、店主を最初から今の姿のまま存在している人のように見ていたのかもしれない。
「師匠とか」
私が言うと、愛美はふっと笑った。
「それもありそうです」
「なんとなくですけど」
「わかります」
どれもありえそうだった。
家族。
恋人。
師匠。
どれも、写真として木箱にしまわれていてもおかしくない。
けれど、どれかひとつに決められる感じはしなかった。
決められないまま、ただ、店主にも確かな過去があるのだということだけが、少しずつ現実味を帯びていく。
私はカップを持ち上げた。
「愛美さんは、店主さんのこと、どれくらい知ってるんですか」
聞いてから、少し踏み込みすぎたかもしれないと思った。
けれど愛美は気を悪くした様子もなく、少しだけ困ったように笑った。
「ほとんど知らないです」
「そうなんですか」
「長くここに来ていても、話してくれることは多くないですから」
愛美はそう言ってから、少しだけ言葉を探すように間を置いた。
「でも、何もない人には見えないです」
私は顔を上げる。
「何もない人?」
「うまく言えないんですけど」
愛美はカップの縁に指を添えたまま、静かに続けた。
「静かな人って、空っぽに見えることがあるじゃないですか。でも店主さんは、そういう静かさじゃない気がして」
私はその感覚がわかる気がした。
店主は多くを語らない。
感情を大きく見せることもない。
けれど、何も持っていない人の静けさではない。
むしろ、たくさんのものを抱えたまま、必要な分だけしか外へ出さない人の静けさに見える。
「話さないからこそ、重いのかもしれませんね」
私が言うと、愛美は小さくうなずいた。
「たぶん」
その「たぶん」は、断定しないための言葉というより、断定できないものを大事に扱うための言葉に聞こえた。
店主はカウンターの向こうで、何かの帳面を閉じた。
こちらの会話が聞こえているのかどうかはわからない。
けれど、聞こえていたとしても不思議ではない距離だった。
私は少し声を落とした。
「昨日の写真、木箱に戻していましたよね」
愛美も同じように声を落とす。
「見えました」
「やっぱり、あの箱の中のものなんですね」
「そうみたいですね」
それだけの確認なのに、口にすると少し重かった。
木箱はただ置かれているだけではない。
中に何かが入っていて、店主はそれをときどき取り出している。
つまり、過去の遺物としてしまい込んでいるだけではなく、今もなお手放していないものなのだ。
「写真って、残りますよね」
私が何気なく言うと、愛美は少しだけ目を細めた。
「残りますね」
「人より長く」
その言葉は、ほとんど独り言のつもりだった。
けれど、そのとき店主がふいに顔を上げた。
「写真は、人より長く残ります」
私は思わずそちらを見る。
店主はいつもの穏やかな表情のままだった。
こちらの会話に割って入ったという感じでもない。
ただ、聞こえた言葉に、静かに続きを置いたような言い方だった。
愛美も何も言わない。
店主は帳面を棚にしまいながら、続けるでもなく、それきり黙った。
私はその一言の意味を考えた。
写真の中の人は、もうここにはいないのかもしれない。
だから写真だけが残るのかもしれない。
あるいは、たとえその人が今もどこかで生きていたとしても、写真に閉じ込められた時間だけは、もう戻らない。
人は変わる。
離れる。
いなくなる。
けれど写真は、その瞬間だけを残し続ける。
だからこそ、残酷でもあり、救いでもあるのかもしれなかった。
「店主さんは」
気づけば、私は口を開いていた。
「その写真を、よく見るんですか」
店主は少しだけ手を止めた。
けれど、こちらを責めるような顔はしなかった。
「たまに」
短い答えだった。
「忘れないために、ですか」
自分でも、ずいぶん踏み込んだことを聞いたと思った。
けれど店主は、少し考えるように目を伏せてから言った。
「忘れないため、というより」
そこで言葉を切る。
私は続きを待った。
愛美も黙っている。
店主は静かに言った。
「忘れていないことを、確かめるためかもしれません」
私は何も言えなかった。
忘れないためではなく。
忘れていないことを確かめるため。
似ているようで、まるで違う言葉だった。
忘れそうだから見るのではない。
もう十分に残っているものが、たしかにまだ自分の中にあると知るために見る。
それは執着というより、約束に近い行為のように思えた。
愛美が小さく息をつく気配がした。
店主はそれ以上話さなかった。
私も、もう続けて聞くことはできなかった。
聞けば、もう少し何かが見えるかもしれない。
けれど、今の一言だけで十分な気もした。
それ以上は、まだ言葉にしないほうがいいものがある。
しばらく、三人とも黙っていた。
店の中には、カップを置く小さな音と、外を通る車の気配だけが遠く聞こえる。
棚に並ぶ瓶はいつもと同じようにそこにあるのに、今日はその奥にある木箱の存在まで、店の空気の一部になっているように感じられた。
私はコーヒーを飲み終え、席を立った。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました」
店主が言う。
愛美も小さく会釈した。
「また」
「はい。また」
扉へ向かいながら、私はふと思った。
写真の中の人が誰なのか、まだわからない。
家族かもしれない。
恋人かもしれない。
師匠かもしれない。
けれど、誰であったとしても、その人は店主の中で、今も終わっていないのだろう。
木箱にしまわれているのは、過去ではなく、
過去と今をつなぎ続けている何かなのかもしれなかった。
扉を開ける。
鈴の音が鳴る。
外へ出ると、午後の光は少しだけ傾いていた。
写真の中の人の顔は見えないままだった。
それでも私は、見えないまま残るものの輪郭を、昨日より少しだけ近くに感じていた。




